エーリッヒ・フロム「愛するということ」
今更ながら読んで、感銘を受けた。
1956年に書かれてる本に、「マインドフルネス」が出てくるとは思わなかった。
その前に、「スキーマ療法」についての本を何冊か読んで、
自分自身のスキーマに気づいてうわーーーーっ!!!となって感情の濁流に飲み込まれそうになって、ある人物にネガティブな思いをぶつけてしまったりして、、
あ、これ、地獄の窯の蓋が開いたな、と。
一旦落ち着こう、と。
で、「共感性」についての本を2冊読んだ後で、エーリッヒ・フロムを読んでみたという次第。
The art of loving
「愛の技術」
知ってはいたけど、初めて読んだ。
鈴木涼美のお父さんが翻訳してる。
鈴木晶も「涼美のお父さん」って呼ばれる筋合いないだろうけどな
どうせキリスト教圏の人たちの言うことなんて、、と思って読み始めたけど、なるほど名著と呼ばれるだけある。
あらゆる神話、宗教、思想を取り上げて、「愛」について真剣に考えている。
難解な言葉を避けて、ものすごくわかりやすく書いている。
愛の発達段階として、母性愛・父性愛を、宗教の発達段階になぞらえて解説してるあたり、なるほどーーーと思ったよね。
神話ってやつにも深い意味があるんだなと。洋の東西を問わず。
「マインドフルネス」って言葉は出てこないけど、「愛の習練」と題した最終章で、フロムはまさにそのことに触れている。
フロムはそれを、愛の習練に必要なものとして説く。
もう一つ重要なことが「ナルシシズムの克服」。
ナルシシズムの対極にある「客観性」が重要であると説く。
さらには「信じる」ということ。
根拠のある信念をもって、相手を信じるということ。
その対極にあるのが、すでにある力に対する信念、すなわち権力を用いることや権力に頼る態度であると言う。
現在すでにある力を信じるということは、まだ実現されていない可能性の発達を信じないということになるからだ。
そしてその信念を持つのに必要なのは、勇気だと説く。
確かに、既にみんなが大好きな人気アイドルを愛するのは容易い。
まだ誰も見出していない誰かの中に魅力を発見して、人知れず愛することの方が高尚な感じするよな…って違うかな?
いや違くない気がする。
なるほど、私は昔から人気アイドルが好きじゃなかった。
アイドルにはまったことなんて一度もなかった。
だからダメ男にばっかりハマっちゃうのかな。
でもそれこそが愛だと思ってる節はある。
愛しにくい人を意志の力で愛そうとする事こそが、愛なんだって。
私が「傷ついた少年の目」系の人に弱いのは、私自身が傷ついた少女だったからなのかもしれない。
ダメな私自身を愛するように、彼らを愛したいと思うのかもしれない。
そうすれば、私自身が報われると思っているのかもしれない。
彼らを愛することを通して、自分自身を、そして世界を愛したいと思っているのかもしれない。
私を傷つけたものたちに対する、これこそが復讐なのかもしれない。
優雅な生活が最大の復讐。
そうか。私にはすでに愛の技術があるのか。
私は人を愛することができる。
何より、娘をあんなに素敵に育てられた。
母にいじめられて育った私が、母のような母にならずに、娘を愛することができた。
最大の復讐。これこそが。
それでも、愛することで傷ついてしまうことがある。
子供はともかく、すでに自己が確立された大人の異性を愛する時、困難が伴う。
彼らは必ず幼児退行する。
私に「お母さん」を求めてくる。
私だって「お母さん」が欲しいのに。
あの母ではない。
あの母にはなかった、本物の母性を欲しているだけなのに。
さらには、彼らはやがて父のように振る舞うようになる。
父性的な愛を押し付けてくるようになって、
私に愛されるべき資格があるか否かを試してくる。
それでも、彼らを癒す母になることで、父への服従を示す子供となることで、自分自身が癒されることを期待しているのかもしれない。
だから、勇気なんだ。
何の保証もないのに、行動をおこす勇気。
これは自己愛なのか?
いや違う。この世界を愛したいという意志だ。
世界とはもちろん、私も含む全てのもののことだ。
愛そう。
全てのものを。
神のように愛そう。
日々の修練を怠るな。