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「禁断の国史」(八)神武天皇
「禁断の国史」
第二章 神武肇国からヤマト王権統一まで
神武天皇
至るところに残る「神武東征」の痕跡
ニニギノミコトの孫、ウガヤフキアエズとタマヨリビメの四男として誕生したカムヤマトイワレビコ(以下神武天皇と記述する)の幼名はサノノヒコといった。
日本書記には「生まれながらにして賢しく、意思固し」と比喩する。
神武東征は日向の美々津(みみつ)港から船出し、大和を目指した。目的は天下を統一し、国を治めること、そのためには国を豊かにする必要があり稲作の普及となる。
神武天皇は上からイツセノミコト、イナヒノミコト、ミケヌノミコトという兄三人と共に大和へ向かう旅団を編成し、『古事記』によれば実に十六年、『日本書記』では八年をかけて幾度の戦闘を戦い、各地を平定し、三輪山に近い畝傍山(うねびやま)の麓へたどり着いた。
記紀の時間差は、春秋暦でいうと半年がいまの一年だから計算が合う。
神武天皇東征の理想は「八紘一宇」である。
八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)になさむこと
またよからずや
「四方と統治して天下を治め我が家とすることが皆の幸福」
という意味である。
また神武天皇は日向時代に結婚しており、二人の子があった。長男はタギシミミノミコトといった。この長男がのちに反乱を起こして失敗する。
神武天皇の船団は北九州を回航し、宇佐から北九州市八幡西区あたりに上陸した。ここの岡田宮で一年を過ごした。安芸の神武天皇の陣跡は広島市にある。
ついでに吉備の高島宮(岡山市郊外に現存する)へ向かい、数年を過ごしたのちに、難波に向かうがナガスネヒコの激しい抵抗に遭遇する。長兄のイツセはナガツネヒコとの戦いで死亡、ほかに二人の兄は熊野灘で遭難死した。(日向に向かったという説もある)
神武天皇一行の上陸地点は、徐福が不死の薬を求めてやって来た伝説のある新宮に近い。七里尾浜には「花の窟神社」が鎮座ましまし、イザナミを祀る。巨岩そのものが御神体である。吉野から飛鳥への進軍は高天原の救援があって実現した。
神武天皇東征の軌跡を歩いてみると、随所の地名、遺物が神話の通りなのである。
ともかくこうした神話の世界が、現実には各地に霊験豊かな神社となっていて、いずこも霊異が溢れている。神武天皇が大きく迂回した熊野も、大神大社も出雲系であり、出雲が国譲りという美談が成立する。
そして出雲と同盟関係にあった古志と、その山あいに拡がった信濃の平定が、次の課題となった。
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「禁断の国史」山崎正弘著 ハート出版
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※ この本は面白いですね。ただこれ以上書くと、著作権問題に触れるかもしれないので、私の本の紹介は、この辺で終わりたいと思います。
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