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詩の定着
昨日読んだ詩集は、
他のひとから勧めてもらったものだったけれど。
そのひとは、
「わたしにはこの詩集を読んで学べることがあるとおもう」
と言って渡してくれた。
私は「ありがとうございます」と受け取り、
ぱらりと捲りながら、
ああ、と思いました。
どういうわけか、
いや、
そんなこと仕方のないことで、
当然のものなんだと思うけれど、
私は一ページを読みながら、
ああ、これは私の立ち位置と全く違う場所にいて、
全然違う方向を見ている人の詩だ、
と思ったのです。
その詩集は、
現実をいかに比喩と暗喩を使って詩という形に消化しようかと、
心を砕いて、砕いて、書いているように読めました。
前に勧めてもらった本も、
そういう人の詩集だった。
私は、
私の詩を、
ポンと放り込まれたものを、
できるだけ色を変えずに吐き出せるかどうかを大切にしている。
誰かに伝えたいことがあって書くことは殆どない。
ときどき、書いてあげたい、と思って、書かせてほしいと思って、
書くことはある。
でも大体のとき、
私の内側の衝動に一番直結して指令をだせる部位に、
その指は降りてくる。
私に言葉を押し付ける。
私の思うことに押し付けながら、
ふわりと手を離すから、
それははやく捕まえないと手放されてしまう。
それは様々な色や形や、量や質量をもってやってくる。
私は飾らないようにする。
それは言葉のままに置くように訓練してきたから。
今まで、ずっと、そうやって書いてきた。
はじまりは私の心を整理するために言葉は寄り添ってくれた。
それがある程度落ち着いて、
そして私が言葉のために生きると決心できたとき、
言葉はそのままを私に送ってくるようになった。
私はそれをできるだけそのまま世界へ落ちつけさせたい。
だから、
ああ、こう思われているのか、
読まれているのか、
一緒になるのか、
と思うと少し不思議な気がする。
読み終えて、だからふわふわと言葉は分離して私の思考に定着する。
そういう詩集もあるなぁ、という話。