余情 47〈小説〉
お正月の間、私がバイトに出てしまう以外の時間を、彼女と私は大体いっしょに過ごすことになった。彼女はこの時のために、溜めに溜めた見たい映画リストを私に突きつけ、
「これを制覇しましょう」
と言った。それは両手の指の数を超えていて、彼女が選んだだけあって、小説を原作とした映画がたくさん入っていた。
「映画も好きだったの?」
「嫌いじゃありませんでしたけど、前に二人で映画みたじゃないですか。あれが思っていた以上に楽しかったんです。なので、正確には二人で映画を見るのが好きになりました」
なるほどと思い、私は興味が無かったら部屋に戻ることをはじめに了承させて、その過ごし方を受け入れることにした。前に映画を見た時のように、私の携帯画面で消化していくには量が多すぎたので、彼女のノートパソコンを食卓に持ち込み、そこで見ることになった。お互いにクッションや、毛布を持ち寄って、なんだか巣のようになった一角に埋もれながら映画鑑賞のマラソン大会は始まった。
生まれつきの容姿によって受けてきた差別を跳ね返す少年の成長を見守り、アルツハイマーの恋人に語る恋物語に聞き入り、古典の名作として名高い殺人事件を解き明かし、湖の底にある遺跡で目の退化したサメに襲われた姉妹を応援した。
普段あまり映画を見ない私は、思っていた以上にこの鑑賞会を楽しんでいた。彼女の映画の目利き能力が優れていたのか、見る順番も、良い具合に集中力を切らせないものになっていた。一本見る度に十分の休憩が入り、その間にお茶を入れたり、お菓子を補充したり、トイレを済ませたりした。時間を決めての休憩は、彼女の提案で、その方が映画を見ている感じがして良いのではないかということだった。確かに、なんだか上映時間に間に合わせようと動くことも、いい切り替えになった。次の映画の内容に合わせて飲むものやお菓子を少し入れ替えたりもし始めると、十分はすぐに過ぎてしまった。滑り込むようにして巣穴に入って、スタートボタンを押す。映画がはじまるとその中に一緒に潜りこむような気持ちになった。
彼女と経験する、幼なじみのとの約束や、遠い未来に語る今への懐かしみ、宇宙へ行って孤独に打ち震え、そして大きく今を離れたいつかから、ここへ愛を誓った。
一日に消費できる映画は多ければ六本ほどになった。そんな日は、眠ろうと枕に沈んだ頭の底で、未だに動き回る映像がある気がした。暗い瞼の中で、次に浮かんでくる映像を期待しているうちに意識は遠のいていった。
そうやって終えたお正月のあと、私は久しぶりに家に帰った。母に新年の挨拶をし、体調のことをひとしきり心配されたあとは、長居すること無く私は家を出た。何故だろうか、もうあの場所に自分の落ち着く場所はないのだと感じていた。もうすでに私の本心が、自分の帰る場所を変えてしまっていたのだ。母は父が帰るまで待つように言ったけれど、私は頷かなかった。もしも、一度目の私だったなら、母の言うことをきいただろう。それ以前に家を出ることもなかったはずだ。先に逝くことを選ぶ代わりに、生きている間には両親を優先しようとしてきたのだから。
部屋への帰り道、私はまだ淡い空を見上げ、その変化を眺めた。これは彼女だけの影響ではない。確かに私の両親にも変化が生まれていて、それにまたも私は影響されているのだ。高校時代に出来た友人関係が、あなたのおばさんとの関係の継続が、母にとっての私の姿を変えたのかもしれない。
私は、急に自分の体が重く感じた。あなたのこと、両親、それだけが入っていた頃には無かった重たさだった。それはこの地面に足をぴたりと付かせ、そしてそこから伸びる半透明の道筋に、私を向かわせる力のようだった。背中を確かに押されている。このまま進んで行けと。それが私にもたらすもの。数年後に来る未来。私が一度は通ったここは過去のはずなのに、ここから視るそこは、しっかりと未来の光に溢れていた。
私は意識して足を進ませながら、その光を睨んでいた。
深淵の隣を歩いているのだとしたら、私の歩みはなんて遅いのだろう。
浮上する意識の後ろ髪を引いて、声が追いかけた。それは自分自身の声だったのか。
私は天井に伸ばした手が痺れていることに気付いた。どれくらいそうしていたのか、指先は冷たくなっていた。冬の早朝が、固く握りしめているそれを、ゆっくりと振り払い、布団のなかへと連れ戻した。じんわりと熱を思い出していく。手が私の自由になるまでには、まだ少し時間がかかりそうだった。
私はまだ暗い室内に、あの赤い表紙を見た。もう目が覚えてしまっているのだ。部屋のどの当たりに目を向ければ、それを見つめるのか。
カーテンの向こうに外灯の明かりが一番まばゆい。まだ起きる時間ではないことが、静けさから察せられた。私はこうして時々、夜中に、それも早朝へと差し掛かる手前に、目を覚ますのだ。転がり始める坂の手前。本当は夢の中で、クライマックスを楽しんでいるはずの時間だった。
私は、さっきまで目にしていたはずの光景を、もう一度甦らせようとしたけれど、一度渡った橋はもう暗闇の向こうに沈んでしまっていた。手繰っていこうとも、流れてくれるのは、そこで落としてきた感情ばかり。
私は赤い本から逃れるように、寝返りを打った。触れたばかりのシーツの冷たさに、しだいに肌の温度がうつっていく。薄目を開けて壁の方を見た。
私の部屋の窓は二カ所あった。一つは高い位置の通常の大きさの窓。もう一つは手の平を三つ縦に重ねたくらいの、細く、押し開ける形の窓だった。それが二つ並んでいる。押して開くその窓は、私の家には無かった種類の窓だったので、最初は少し慣れなかった。一度目の一生、私は自分の部屋から出ることなく一生を終えたのだ。こんな窓を開けたことなど無かった。
今は。起き上がればこの窓を少しだけ開けて、今日も部屋を出るのだろう。朝食を終えた後に閉め、衣服を整える。ベッドのすぐ側の、カーテンを掛けられない窓。磨りガラスになったそこからは、形のはっきとしない、でこぼこの夜が顔を覗かせている。
私はそれを眺めるのだ。こんな風に、目が覚めてしまった夜には。
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