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【姉妹の瞳】(短いお話)



 かみさまは、どんな色をしていたの。
 それが私に姉が聞いた最初の質問でした。
 ひろい回廊の正面に、たったふたつ飾られた二枚の絵。それが私と姉です。

 父は、私に言いました。
「お前にはうつくしいトルマリンを鏤めて描いたんだよ。それはお前の瞳だ。世界をいくつもの美しい瞳で見ておくれ」
 私は言われた通り、全面に塗り描かれた様々な青の中、いくつかの切れ目のように走る砕かれた宝石を瞳として開き続け、この回廊を見て行くことになったのでした。
 最初、ここはサロンへ続く階段でした。華々しいひと、ひと。羽飾りの帽子。男性の窮屈な首元。時折鳴る剣の無骨な高い音。窮屈な会話から、香りが辺りに咲いていくような優雅な一場面もありました。それがやがて放蕩と誘うようなものになり、最後には憲兵の無粋な発砲があり、この家ごと私は沈黙を強いられたのでした。舞う埃の美しさ、光の魅せる魔法、そして色を変えていく樹々の破片を玄関の小さな窓から観察し、私は見ることを続けてきました。
 やがてそこは喫茶として改装されることとなり、昔の面影を残しながら、華美すぎる装飾は取り外されていきました。そのうちに私は入らなかったところを見ると、私の価値自体はそれほどでもないものなのでしょう。もしくは、絵というものを広く人々に親しんでほしいという新しいオーナーの考えがあったのかもしれません。とにかく私はそこで芳しいコーヒーや、深い紅茶の香りなどを、色に見ることで知っていったのでした。喫茶店は順調に人を呼びよせているように見えました。
昔とは違う軽々とした服装の男女が、入り乱れてひと時を楽しみ、幾つもの出会いや別れをその人生に描いていきました。笑みを隠さなくなった女の紅の鮮やかさ、そして時には慎ましさに、私は惹かれました。
 私の青さにはない、あれが人の心を引き寄せるのだな、と思ったのです。
 喫茶店はそのうち夜の営業も始めました。料理のピカピカと光るタレ。瑞々しい野菜たち。そしてグラスに注がれるワインの揺らめき。少しずつ闇の気配が濃くなり、重いカーテンが閉められ、店の空気はまるで夜を煮詰めたかのように重く身を包んだのでした。それは会話を変え、流れている音楽が声の質を変え、それは星の巡る朝と夜のように私には見えたのでした。模造品。けれどいやに出来のいい偽物なのです。そうして続いた日々は、またしてもけたたましく終わりを迎えました。
戦争という影に呑まれ、国そのものがあまりに大きな不運に巻き込まれ、必死に逃げる道を黒い霧が落としていく。人の顔色は荒み、心配が涙となって体を溢れて行きました。その時、すでに営業を中止していた店に、そっと忍び込んできては、私を見つめる人が増えていきました。絵一枚を見るために危険な夜を歩く。その思考は理解できませんでしたが、それならせめてと、変わりはしない瞳を見開いてやってみるのでした。私を見に来る人たちの中には子供もいました。破れて服、ぼさぼさの髪の毛、恐らく家のない子供なのだろうと思いました。毎夜、同じ服装のその子に、私は何かをしてやりたいと思いました。どうしてでしょう。私の絵に砕かれ、瞳として生きている石の元々持っていた愛情だったのかもしれません。元の持ち主も、どうして手放したのかも、そもそも発掘された場所さえ、私は私の瞳のことを知らないのでした。だから自分には理解できないことは、瞳の感情なのだろう、と考えるのが癖になっていたのです。私は、私以外しか見えないのだと、そのときふと知ってしまったのでした。それはとても恥ずかしいことのように思いました。魂の幼さのように。そしてそれは永遠に変わってはいかないことなのだと。
私は、私を飾り続ける建物ごと焼かれることなく戦争を越えました。
戦争の終りには様々に使われたものですが、ゆっくりと日常を、それはもう必死に取り戻そうとする市井の人々の心に動かされ、町は、国は、また立ち上がろうとしていました。それに合わすように、私の飾られた建物は、戦争を残った建物として、美術館として使われることになったのでした。

改装の手が入り、一時的に場所を移された私は、やがて見慣れた、いいえ、全く初めての美術館を入ってすぐの、回廊の大きな壁に飾られました。今までで一番美しい壁でした。
そして、隣には、同じ大きさの赤い絵がありました。あの夜の中、心を引き寄せる色だと感じた、その全てが入った絵でした。そしてその筆遣いは、紛れもなく父のものだったのです。私は、そして赤い絵の方でもまた、互いの存在の懐かしさを噛み締めたのでした。
私は赤い絵にたくさん話をしました。今までどういった光景を観て来たのか、色鮮やかに染まっては朽ちていく人々の愚かしさと、飽きなさを。赤い絵はそれを静かに聞いていました。いくつもの業者の人たちが前を行き来しましたが、私の声に耳を傾けるものはありません。長い長い私の話は、そのうち夜に飲み込まれてしまいました。あたりの淡い闇の中、私は自分ばかりが話をしてしまったことを申し訳なく思い、赤い絵にも話をしてくれるように言いました。
 そこで赤い絵がはじめて口にした言葉。それが
「かみさまはどんな何色をしていたの」
でした。
 私は、それはいったいどういう意味なのだろうと、考えました。かみさま。戦争の中、私を見上げた人々が見ていたものでしょうか。それとも、他の意味のある言葉でしょうか。なにせ私の中にはかみさまについて話をしている人たちが居なかったのです。
 私は赤い絵に聞きました。
「かみさまとはどういう方のことをいうのでしょうか」
 赤い絵は答えてくれました。
「かみさまは、生み出す手をもったもののこと。私やあなたをここへ生み出し、去っていった者。人は、人を創った者を想像して救われてきたようですが、その姿の信憑性はよく分かりません。けれど私たちは確かに作られているその最中に、かみさまに声をかけてもらっていたでしょう? どうやらあなたは私と違い世界を見る術を授かっているようだから、きっとかみさまを見ていたのではないかと思ったのよ」
 音の消えるような声でした。かみさま。私を作った、かみさま。それは私が父と呼び慕ったもののことだと気付きました。私は古い記憶を呼び起こしながら言いました。
「かみさまは、おだやかな光のような方でした。いつも真っ直ぐに私たちを見て、完璧よりも続きを感じるようなものを描くのだとお話していましたから、私も、あなたも、少し色の浅い場所があるのです」
 赤い絵は、今私が言ったことを、すでに何度も聞いたことのように、頷きました。
「私も思い出しました。あの温かさ。摩ってくれた手の大きさ。私の身に触れてくれた、たったひとりのかみさま」
 赤い絵は、まるで見えないものを見ているようでした。それは内実の磨かれた気配のする言葉たちでした。いったい父は、この絵をどうして私の側に置いておいてはくれなかったのでしょうか。そうすれば、私はもっと私を私として完成へ近付けさせられたでしょう。
この赤い絵の瞳となり、世界を共に労わってこられたのなら。
私はこの時、赤い絵を、姉と呼ぼうと決めたのでした。
「ねえさん」
 それは自然に出た言葉でした。
 赤い絵は、それを自然の流れとして受け止めたようでした。穏やかな、これほどまでにたおやかな赤を、私はどの唇にも見たことがありませんでした。
「なあに」
 受け止められた答えは、やがて私の根底を変えていくかもしれない、と感じました。私はこれほどに未熟。そして永遠へ続いている。それを想像させる、内側を開いた夜でした。

 私は姉に見たものを話します。
 姉は私に感じたこと、考えたことを話します。
 ゆるやかな光に照らされて。
 静かに靴音を湿らせる床を歩き、私たち姉妹の前で止まる人々を見つめながら。

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