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【兄は弟を市場に連れて行きました】(短いお話)


 薄暗い森を進んで行きますと、青白い狐火がしろしろと浮かんで燃えています。
 弟は、兄に乱暴に手を引かれながら、少しばかり急な坂道を上っていました。
 夜市が立つ。そんな噂は聞いたことがありました。この町には昔からの伝説ように、身近な噂話のように、そして確固とした注意喚起として、夜市のお話は流れていました。それは数年に一度、不定期に開かれる夜の市。誰が主催なのか、どうやってその場所を知るのか、それは必要なものにしか知らされない。烏や蝙蝠、蜘蛛や蝶、花や猫じゃらしまで、この時期を知らせるものは多様を極めているのです。どうやらこの度の知らせを受けたのはこの兄弟の兄のようでした。
 夜市には、様々なものが売っています。硝子のような瞳。結晶の中の蛙。生まれた瞬間に声を失った胎児。まだ温かい狐の生皮。清廉な空気に満たされているというのに、売られているものは、そういう出のものばかりではないのでした。
夜は深く、深く垂れこめ、星は望めません。兄の背中は堂々としていて、まるで来たことがあるかのようでした。何を聞いても「煩い」「黙れ」というだけの兄に、涙が滲みだし、痛みだす腕を引かれて弟は歩いたのでした。
兄は一度だけ大小彩り豊かな瓶を売る女に道を尋ねした。尋ねるというよりは、それは場所の確認のようでしたが。
弟の耳には、自分のぐずる鼻の音と共に、潜めた兄と女の声が少しだけ聞こえてきました。兄は「完璧な弟」と言ったようでした。女は頷き「それならあるはずよ」と言ったようでした。
完璧な弟。その言葉に、弟の足は震え出しました。そうか、兄は自分を売って、その代わりに完璧な弟を手に入れようとしているのだ、そうに違いない、と思ったのです。何故なら自分は泣き虫で、兄の遊び相手にはてんでなりません。転んでは泣き、疲れたと泣き、そうやって泣く度に、母は兄を責めました。おやつを半分にしたり、近づけないようにしたり。カンカンに怒った母の金切り声は、耳を覆ってもけして侵入を阻むことのできないものでした。それを兄はいつも両手を太腿のあたりに握り込んで聞いていたのです。兄にとって、弟がもっといいものであったならば。そう考えたのだとしても納得のいく選択でした。けれど、納得のいく正論と、自身の感情は別離するものです。
弟は必至に抵抗を試み、兄はそれにも堪え、どんどんと目当ての店へと進むのでした。
ああ、自分は売られる。どことも知れない、けして入っては無事に出られないと言われている夜市の中で、いったいどうなってしまうのか。不安が心臓を押しつぶすようでした。
薄汚れた布を押し開け、まだ声変わりのしていない兄の、けれど弟よりは随分と大人びて聞こえる声が、静かに店に響きました。
「お客さんかい」
 言いながら出てきたのは男のようでした。姿は闇の深い部分で隠れて見えませんが、大人のような高さに、黄色く光る目がありました。震えて声も出せない弟と違い、しっかりと弟の腕を掴んだままの兄は、まるで見知った人と話すように声を掛けました。
「売り物、と買い物をしにきました」
 中の人は「ほう」と言い
「何を売り、何を買いますかね」
と聞きました。
 ああ、ついに自分が売られる。もうどうしようもない。抗うことが出来るほどの強さが自身にあれば、とせめて嗚咽を噛み切るように歯を食いしばりました。
 ところが、そんな弟の耳に落ちてきた兄の言葉は予想を裏切るものでした。
「僕を売って、その価値で弟が『完璧な兄』を買います」
 それはとても静かな声でした。今までの怒鳴り声がどれほどの力で発せられていたのか。
 闇の奥の目は、きらりと光り、弟が呆然としている間に「あいよ」と低く声を落とすと、瞬間世界は一変したようでした。自身をつよく引いてきた手が、恐ろしいほど存在感を失っていくことが感じられたのでした。

 弟は、森の入り口に立っていました。どうして自分はここにいるのか。一瞬様々なことが目の表面を回りましたが、まるで現実感を持ちませんでした。それよりもこんなにも遅くに家にないことに、不安を膨らませ始めていました。母が心配するだろう、そして泣く自分を怖い目で睨む兄。
 兄、と考えて、弟は自身の体に不思議なことが起こるのを感じました。まるで魂を現れるような、そこに付いていた何かを擦られて掃き流されたような。軽くなったような、欠けたような、ある種の怪我を負ったような気持ちになったのでした。思わず、涙が零れそうになった時でした。
「大丈夫か?」
 それはやさしい声でした。聞いたことのない声でした。けれどよく自分は知っているはずの声なのです。何事なのかと顔を上げた弟は、自身に似た部分が散見される、少し年上の少年を見たのでした。
「兄ちゃん」
 自身の零した素直な、そして不思議な名称に弟は、口をあんぐりとして涙をこぼしたのでした。
「どうしたんだ、泣いたりして?大丈夫、母さんにはちゃんと連絡しておいたから、怒られたりしないから、心配しなくて大丈夫だぞ?」
 そう言って差し出した手は、やさしく弟の手を包むのでした。
「うん」
 その手を取りながらも、弟は少しばかりの胸の痞えをかんじるのでした。
 深い深い夜のことでした。





(読んだら分かるかと思いますが、
恒川光太郎さんの『夜市』に影響を受けて書いています。
『夜市』はもっと練り込まれた素晴らしい小説なので、
そう書くのも烏滸がましいかと思いましたが、一応。)

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