源氏物語から飛び立つ視点
昨日は、絵本カフェくうねるんさんでの
『源氏物語講座』に行ってきました。
源氏物語ときいて思い浮かべるものは、
私のなかでは光源氏でも紫の上でもなく、
紫式部の目線でした。
光輝く君といううつくしい男性よりも、
彼の前を揺蕩って去っていく女のひとたちでもなく、
それを書き上げる紫式部の人物たちへの思いのつよさに、
彼女という人間に、
とても惹かれるものがあります。
と言いつつ、
私の読んだ源氏物語は大和和紀先生の『あさきゆめみし』だけです笑
それは読んだにはいるのか?
と思いますが、まったく何も知らない状態ではないかな、という感じです。
一時間半ほどの講座だったのですが、
光源氏と関わった幾人もの女性の背景などが添えられ、
再びのとっかかりにとてもよかったです。
角田光代さんの訳か、
瀬戸内寂聴さんの訳で読むか、、、
第二、第三と続いていくらしい講座(その場で次の日取りが決まっていく、手作り感満点の講座なのです)だったので、
次までにどちらかで読んでおきたいと思っています。
三十分ほど質問タイムがありまして、
なんといっても半分は顔見知りで、
先生をされている方も東播磨クリエイタージャーナルでいっしょに書いている方だったので、
ゆったりとした空気でのやりとりになりました。
質疑応答が、そのまま雑談に流れていき、
誰の言葉がきっかけだったのか、
先生が昔海外の方で源氏物語を研究された方の講演を聞きに行ったときのことが話にでました。
その方とは紫式部のお母さんが亡くなった時、紫式部はいくつだったのかについて色々問答があった、
という話だったのですが、
(定説では4~5歳となっているそうで、
その理由のひとつが紫式部の書いてきたものにほとんど母親の記載がないからだそうです)
それを聞きながら、
ふと、もしその海外の方のいう紫式部が母を亡くした年齢が正しいとしたらどういう理由で母親のことを書かなかったのか、と考えはじめ、
そこからさらに飛んで、
母親と子供の関係を特殊な形にして書いている気がするな、
それって母親に対しての私の感情の向きが関係しているんだろうな、
と思考は流れていきました。
母親に特別な愛情を灯す子供。
母親に異常な感情を重ねる子供。
母親が見つめる冷徹なほどの目線の先の子供。
それを書く私は、母親とどういう関係を求めていて、
そして書くことでどういうものを吐き出そうとしているのだろう。
そんなことを考えていたら、
ひとつ話がやってきて、
講座が終わってから急いで書きつけました。
でもこれは文芸会もクリエータージャーナルも無理だな、、、。
光源氏の理想の女性が母親だった桐壷だったように、
その姿を借りた紫式部にとっての母親を描く物語だったら面白いなあ。
母親を好きかと聞かれたら、
母親だと思う感覚を切っていると答える私にとって、
母親はどうだったら理想的だったんだろう。
私はどこかで理想の母親を小説に書いているような気もします。
子供に深入りはせず、
けれど愛情はあり、
それを示しもしてくれ、
子供からの感情も基本的には受け入れる。
ただ全てを肯定はしない。
そういう人を書いているきがします。
そんなことをつらつら考え続けた時間でした。
面白い視点がもらえて、
読書のきっかけももらえて、
さらにお話とも繋いでもらえた、
いいイベントでした。
九月にある第二回目までに、果たして読めるだろうか、、、
そしてそこでは何が結びつくのか、
とても楽しみです。