余情 42〈小説〉
彼女との日々は、たゆまず続いていた。
季節は流れ、少しずつ寒さが増していく頃、彼女が新しくコートを買いたいと言い出した。私が、「買えばいい」と言うと、「呆れた」と声に出さない代わりに、盛大な溜息をこれでもかとこぼされた。
「すごい肺活量だね」
「ありがとうございます。でも、今はその褒め言葉はいりません」
「いつでも褒められる機会は逃さないのかと思っていたよ」
「そうですね。でもまさかこんなに傷ついている時にまで、それを発揮しろと言われるとは、思いませんでした」
「それは、ごめんね」
私は手に持っていたカップの中の紅茶を飲み干し、流しに持っていって中を濯いだ。洗い物は溜めるから面倒になるのだと彼女が言いだし、それならばと二人の生活のルールとして、使ったカップくらいはすぐに洗うことを決めたのだった。
テーブルに戻って、雑誌を捲っている彼女を私は横目に覗う。部屋着はまだ薄く、半袖の丈の長いTシャツに、膝を隠すくらいの薄手のパンツをはいている。大きな卵でも抱くように足を広げて、膝を立てた座り方をしていた。上体を傾ぐようにして見ている雑誌には、この冬にはこのコートを買うべきだと豪語する言葉たちが濃い色で騒いでいた。
「コート、持ってなかったっけ」
「高校生のころのだと、もうなんだか似合わなくて」
まだ機嫌を斜めしたまま、それでも彼女は答えてくれた。口元が尖り気味で、目を殊更に雑誌から外さないようにはしていたけれど。彼女が見つめ続けている一着に私も目を向けると、そこには濃いグレイの羊毛のコートが写っていた。着ている女性は、彼女よりもずっと年上に見える。
「これ、見る雑誌間違ってない?」
「私、流行はあんまり追いたくないのです。こういう年代の人の雑誌の方が、長く着回せる商品が載っていて、私はよく参考にしています」
私は頷きながら、彼女の視線の先のコートの値段を見た。たしかに数年は着なくては損してしまう金額がそこには記されていた。大学生が買うには背伸びが必要な値段だと思いながら、彼女の目の中の真剣さを見つめた。よっぽど気に入ったのだろう。だからきちんと試着をして、しっかりと自分のものにするべきかを決めたいのだ。彼女の眉間に微かに線が入っている。困っていると、そっと伝えるその細かな仕草。よく私に伝わると信じられたものだと、感心した。
「いっしょに行って、似合うのか見て欲しいのなら、そう言えばいいじゃない」
「そんなの、言わなくても分かってくれても良いと思います」
だって、と続けなかった彼女に、私はいじましい気持ちが湧いた。彼女の乾かしたばかりの髪の毛に手を置いた。彼女の要望で、同じシャンプーを使っているはずだけれど、髪質の違いか、それとも洗い方が違うのか、彼女の髪の毛は私のものよりずっとやわらかで、艶があった。指の間に髪を通すと、彼女の体温で温まった香りが出来た隙間からそっと立ち昇ってきた。それを鼻のおくに細く吸い込みながら
「悪かったね。何も気付かない人間で」
と言った。
「そうですよ」
彼女は、もう機嫌を修正することにしてくれたようだった。そして今度は、盛大に私に甘えることに決めたようだ。髪を撫でていた私の手を取ると、それに自分の腕を絡め頬をすりつけた。一つ違うだけなのに、彼女の肌はまるで子供の様に、生きることが肌の内側いっぱいに詰め込まれていた。
「いっしょに、行ってくれますよね」
彼女の凭れかかる頭を見ながら、私も彼女を真似て力一杯不本意の気持ちを吐き出した。彼女の洩らす笑い声が、壁の時計の秒針が作る階段状の音の上を、軽やかに駆け上がっていった。
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