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【殺してほしかった僕】(短いお話)

 
 パパはママを殺して食べた。
 朝ごはんのベーコンが焼きすぎだといって、ママを殴って、僕のおもちゃのボールを口に詰め込んでガムテープを張った。ママは泣きながら何かを訴えていたけれど、パパは薬の副作用中なのか、目を血走らせたままママのブラウスを半分に引き千切った。下着をずらし、手に持っていた包丁でママの胸の肉を削ぎ落した。
 フライパンに油をどぼんと入れ、剥ぎ取ったばかりの肉を焼いた。ママは縛られた椅子で暴れて椅子ごと倒れた。そのどたばたに腹を立てたパパが蹴りを入れるから、ママは僕のボールをおかしなところに詰まらせて、そのまま息が出来なくなったみたいだった。たくさん涙や鼻水を垂らして、見開いた目で食卓の方を見て死んでいた。
 機嫌よくママの肉を食べて、ベーグルを口に押し込んだパパは、全てをお腹に納めた瞬間に吐いた。吐き散らした。僕の手にもその汚物が飛んだ。ママの肉片だったのかなと思う赤い細切れの何かが、ベーグルやミルクの色が付いた粘液の中に浮かんでいた。
 パパは雄叫びを上げ、自分の頭を抱え込んだ。バタバタと足を振り回し、僕の前でテーブルは何度も揺れた。そうしている内に、いつの間にかパパは自分の指を噛み切っていて、それを喉に詰まらせて死んでいた。
 結局同じ死因だなんて、なんて仲良しな夫婦だったんだろう。ぼんやりと椅子に座って二人の動かない体を見下ろしていた僕を、朝の騒ぎが鎮まった頃合いを見計らっていたらしい、お隣のおじさんが観に来てくれてた。お蔭で素晴らしい程酷い臭いの室内から僕は出ることが出来た。外で警察に電話しているおじさんの隣で、僕はおしっこを垂れ流し、おばさんが少し嫌な眼をしながらも隣家のお風呂へと僕を入れてくれた。長く体を洗っていなかった僕の体からはふにゃふにゃの汚れがたくさん湯船に浮いた。おばさんは何度も頭を洗ってくれて、途中で「ちょっと髪を切りましょう」と言って短くしてくれた。おばさんの指の力に少しひりひりしていた僕の頭皮は、おかげでそれからすぐシャンプーから解放された。大きな灰色のタオルにぐるぐるにされ、僕は警察に引き渡された。僕くらいの人間に着させられる服がおじさんたちの家になかったからだ。僕の家の服はもう全部ぼろぼろで、結局警察の人が新しい服を何着か買ってきてくれて、病院へと検査入院をするように手配してくれた。
 一週間くらいの検査入院の間に、精神科も受診した。栄養失調らしい僕の腕には点滴がぽつりぽつり、文句を言う様に落ちてきていた。これが入ってくると、どうしてか体が余計に重たいような気がして起き上がれなかった僕に、精神科の先生は僕の病室まで会いに来てくれた。大きな病院で、どんな病期の人も受け入れられるのだと言っていた。精神科のお医者さんは、いくつかあの朝のこと、それまでの朝のこと、家の中の様子、僕が幾つなのかという話をじっくりと聞いていった。
最後に先生は「夜は眠れる?」と聞いたので、僕は頷いた。
 眠るのは、簡単だ。逃げ場はないのだから、受け入れるしかない。そうして眠った場所で、僕はママに、そして何故かパパにも責められるのだ。「どうして助けを呼んでくれなかったの」とママは泣き、口からはボールが飛び出す。パパは「愛していたのに」とナイフを構える。どこか青味が強い暗さの中で、僕はここに出口がないことを把握している。朝になったら鍵は開く。ただそれだけの、ここは部屋なのだ。あの時の、朝食のように。
 どうせなら、僕も殺せばよかったのに、パパ。こうなるって分かっていただろうに、産まなきゃよかったのに、ママ。どうせこのままいつの間にか夢に食い破られる心なんだから、治療なんてしなくてもいいのに。
 そう思っていた。
 結局体調面を考えて一か月に伸びた入院生活は、その間にいくらかのリハビリもはじまり、ずっと点滴の文句をきかなくてもよくなっていた。勉強は読み書きの基礎、数字を覚え、時計を読めるようになった。
 そして退院のとき、僕は両親に問題があって預けられている子供ばかりの養護施設に預けられることとなり、月に一回のカウンセリングも義務付けられた。
 養護施設は、まるで天国と地獄を合わせたような場所だった。きっと神さまの子供だったのだろう、という子は、自分を傷つけて両親に謝り、亡き暮れ、悪魔の兄弟だったのだろうという子たちは、下のものを自分と同じか、それ以上の目に遭わせることで、自尊心の崩壊を防いでいた。僕は泣き喚きもしなかったし、悪魔の兄弟は見分けがついたので、早々に先生の後ろへと隠れてやり過ごしいた。時間ばかりが過ぎていくのが、突きつけられる針の数を増やすような気がして、悪夢を殺す薬はなく、カウンセラーはいつも穏やかに、どこか悲しそうに微笑むだけだった。
 数年経ち、施設の外へと出る機会が増えてきた僕は、唐突に、あまりにも違うものに一変した。本屋へ数人の子供たちと、先生と共に出かけた僕は、足音を忍ばせ、少しずつ息の音を潜め、そして小さな集団の中から色を失くしていった。離脱の成功だ。そしてそのまま、足音を拭きとっていきながら外へと出たのだった。そこからはもう勢いのまま、見知らぬ路地に入り、抜けてはまた昏い方昏い方へと足を走らせた。走り過ぎて、最後には
胃液を吐いた。
 そこは烏の三羽いる袋小路で、赤い夕陽が錆びているのだろう工場の屋根という屋根を豪華に塗りたくっていた。
 僕はそこで、叫んだ。渾身の大声で、空に叩きつけるように、夢の中の両親に届くように、何よりも神様に届くように。
「殺してくれー。僕を、殺してくれー」
 隅に居た浮浪者たちが驚いて目を見開くほどに、その狭い袋小路の中で、僕は叫び続けた。声が枯れて、浮浪者たちが場所を変え、烏も数を減らしても、叫び続けた。一点の明るい星が、天の天辺に見えるようになった頃、あたりの夜を引き裂いて、一枚の窓が開けられた。汚れが染みついて、もう一生透明には戻れない窓だった。ひとりの髭面の男がぬっと顔を出すと、僕に向かってこう言った。
「うるせえ。ちょっとこっちにこい」
 僕は汗だくの、頭が熱っぽいまま、今にも自分を殺してくれそうな男のもとへと歩いた。男は二階に居て、その距離は少しあったけれど、構わず男は言った。
「お前、死にたいのか」
「殺してほしい」
「じゃあ、お前はお前を要らないんだな」
「そうなるのかな」
「いらないから殺されたい、いなくなりたいんだろ?」
「そうだね」
「それなら、俺のところのこい」
「おじさんの?」
「そうだ」
「そしたら殺してくれる?」
「まあ、どうせお前施設を逃げ出してきたような子供だろう」
 僕が頷くと、にやりと笑ったおじさんは
「そういう子供は警察に届ける義務がある。が、俺はそういう義務からは抜けてる奴なんだ」
「僕のために犠牲になるの」
「違う違う、そんな約束を破ることを何とも思ってない奴ってことさ」
「そう」
「俺の仕事は今終わった。そこにいろ」
 分かった、と言った僕を、おじさんは「いい子だ」と言い、汚いガラスを閉めて、その影を遠くにしていった。
 それを合図にしていたように、僕の耳に、あれほど何も聞こえていなかったのに、あっちこっちの工場の機械音が鳴り響きだしていた。赤黒い夜を作っている雲が吐き出されていく。烏は、もう一羽もいなかった。

 おじさんは、大きすぎる上着を着て、肩にリュックを下げて、僕の前へときちんと現れた。おじさんの顔は痩せていて、髭はまばらに生えていた。老けているように見えるけれど、本当の年齢を聞いたならびっくりするほど若いのかもしれない。そう思わせるような、胡散臭さと、愛嬌を合わせた、心からではない笑顔を浮かべていた。
「おお、ちゃんと待ってたな」
 頷く僕の頭に、おじさんは軽く手を置いた。何度か弾ませるようにして、数回。思わず下を向いてしまった僕の前で、おじさんがくるりと前を向いた。
「行くぞ」
 置いて行かれる。そう思った瞬間だった。あげた顔に、振り向いたおじさんが笑った。やはり信用を置ききれない笑みだった。
 薄暗い路地を出て、夕飯の店が並ぶ一帯を出て、きれいな住宅街を抜けていくと、建っていることが不思議な建物が幾つも並ぶ地域に出た。おじさんはそのうちの一件に入り、ドアを閉めた。
「食べられないものはあるか」
「腐ってないものならなんでも食べられるよ」
「そうか。いいことだな」
 おじさんがそう言って上着を脱いで作ってくれたスープは、薄い肉の味が残る野菜のスープだった。パンはなく、僕は喉を酷使していたからか、いやにそのスープが美味しく感じてしまっていた。それを見透かしたように、おじさんは二杯目を僕の器に注いだ。
「ありがとう」
「礼が言えるのか。上等な坊だ」
「そんなことないよ。ママもパパも僕に怒ってるんだ」
「そうか。それじゃあ、そんなパパとママは俺が説教してやるよ」
「僕の夢の中のことだよ」
「ああ、できるさ。お前がオレの顔を覚えて眠れたらな」
 僕はスープを三杯飲んだ。おじさんは一杯をゆっくりと飲んだ。その間僕はおじさんの顔をじっと見ていた。夢の中に本当に来てくれるのだろうか。そんなはずはないと思いながら。
 おじさんは古ぼけた盥の上に僕を乗せ、ゆっくりとしか流れてこない、温いお湯でシャワーを浴びさせてくれた。今日来た服を着るのを躊躇っていると、おじさんはおじさんのシャツを貸してくれた。少し煤のようなにおいがしたけれど、養護施設の石油の服よりも着心地がよかった。お化けの仮想のようになった僕を見て、おじさんはしっかりと薄い毛布を巻き付けてくれた。いつかの隣のおばさんがしてくれたよりも、それはやさしく、まるで大切なものを包み込むような手の動きだった。懐かしい、もう果ての日のような遠い夏の日に、ママがプールから上がった僕を、やさしく両手でタオルごと包んでくれたこと、そのタオルの香りを鮮明に思い出していた。
「オレの寝床に一緒に寝てくれ」
 そう言ったおじさんは、自分もさっと汚れを落とすように水浴びをし、びちゃびちゃなままの髪の毛で、僕を抱きしめて古いスプリングだけのベッドで、上着を毛布代わりにして眠った。お休み、とおじさんの掠れた声が降った。それが魔法のように、僕の瞼をずり降ろしたのだった。お休み、と返したかった僕を置いて、体の奥底へと吸い込んだ眠りは、とても深かった。
 
 夢の中。僕はおじさんの顔を見ていた。じっと見つめ、覚えておかなくては、と真剣に。それを見て時々おじさんは僕の頭を軽く叩いた。痛みのない温もりだった。ママの、引き剥がされた胸のやわらかさを思い出した。パパの寝てしまった後のお腹のあたたかさも。それらのとおい記憶達は、目の前のおじさんの中できれいに整頓され、そして僕に差し出されていくのだった。
 その日、僕をパパは包丁を向けず、ママは僕に憐れめとは言わなかった。僕は自由になるかもしれない。

 朝、おじさんは具合が悪そうで、代わりに自分の仕事へ行ってくれと言った。
「なあに、簡単な仕事だ。仲間はいい奴らさ」
そう言いながら、ここまでの道を口先でもう一度僕の頭に描いた。夜のスープを温めて飲んだあと、仕事というものに初めて出ていく僕を、おじさんは笑いながら呼んだ。アドバイスをくれるのかと思ったら、またぽんと頭を軽く叩いた。
「いってこい」
 それだけ言って、目を閉じてしまったおじさんに従い、僕は日の光の中へと出ていったのだった。
 仕事場へはすんなりと着いた。おじさんが話を昨日のうちに通しておいてくれたそうで、工場長から帽子とバッチを渡されただけだった。そして荷物をおじさんのロッカーにおいていると、いつもおじさんとグループを組んでいるおじさんたちがやってきて、僕のするべきことを教えてくれた。このグループのおじさんたちは、皆やさしく豪快に笑い、時々声を潜めて気を付けなくてはいけない人間を目の動きで教えてくれた。
 おじさんの言った通り、施設での勉強よりもずっと単純な作業だった。おじさんたちはお昼を少しずつ譲ってくれて、僕はたくさんの味を呑み込んだ。
 そして夕方、ロッカーを開けて、帽子とバッチをしまい、リュックを背負った僕は皆に「さよなら」と言って仕事場を出た。皆はにこにこと「また明日」と言った。僕は思わず頷いて、それから僕はおじさんに「殺してもらう」約束をしていたのだと思い出していた。
帰り路、それでも足は重くはならなかった。おじさんに明日以降にその日を伸ばしてもらえるように話をしてみよう、と思っていた。どうしてだろうか、昨日会ったばかりのおじさんに、僕はそれを話せば分かってもらえると思っていた。きっと夢を見なかったことが、僕の中にどうしようもなくおじさんへの信用を置いてしまったのだ。あんなに静かに目を覚ましたことは、もうずっとなかったのだから。薬も飲まず、カウンセリングも行かなかったのに、おじさんは僕の夢を殺してしまったみたいだった。
「ただいま」
 言ってドアを開けた。それは昨日よりもずっと大切なドアだった。僕はおじさんに声を掛けた。中は暗く、外の方が少しばかりましなくらいに部屋が暗かったからだ。電気は小さな豆電球がひとつ。それのスイッチを、記憶に頼りながら探し出した。おじさん。何度目かの呼びかけだった。電気がオレンジに部屋を明るくしたのは。
 おじさんは、朝と同じ場所にいた。上着を掛けたまま。僕を見送った顔のまま、そこに横たわっていた。急いで近寄った僕は、それでも知っていた。それは死んだ人間の気配だった。
 呆然としながらも、僕は外へ飛び出し、すぐ隣の人を呼んだ。その人はまだ中年とはいえない女の人だった。髪を明るいオレンジに染めた彼女は、真っ白な顔の僕がドアを思い切り叩いたのにも動じず、ドアを開けてくれた。
 おじさんが死んでいることを伝えると、彼女は僕に「あんたが殺したの?」と聞き、思い切り顔を横に振る僕に、安堵したような顔をした。「じゃあ、持っていこう」そして彼女は部屋着の上に上着を羽織り、僕を先導した。
「誰かに言わなくてもいいの」
「誰に?」
「警察とか?」
「あんたあの場所の人間がどんな理由でいるか知らないね?」
「昨日来たばかりなんだ。おじさんが僕を殺してくれるって言ったから」
「あんた自分を殺すって言ったやつのとこにきたの?」
「そう」
「呆れた」
 言いながら彼女はおじさんの部屋のドアを開けて、よく知っているようにおじさんの部屋に入り、おじさんの足を持つように言った。僕よりも上背があると言っても、女性の彼女はけれど逞しく、おじさんのもう固まった身体を、頭を抱えてくれた。
二人で息を切らせながらこの地域の際へと歩いた。幾つも細い道を入り、誰かが横切るときは頭を下げ合い、僕にもそれを勧めた。その通りにして進んで行くと、大きなゴミ処理施設の金網のほつれに出た。人がゆうゆう通れる底に彼女は真っ直ぐに入っていく。敷地の周りを歩き、そして焼却炉の制御室にノックをした。中の男は帽子を深くかぶり、お金を要求した。僕は自分がいくらも持っていないことを彼女に伝えていなかったが、それも分かっていたのだろう、彼女は自分の上着からお金を必要分出してくれた。作業員に連れられて、焼却炉の今は火が落ちている穴へ投げ入れるようにと言われた。僕と彼女はおじさんでブランコをするように、数回細い身体を揺らしてその暗闇へと落とした。がた、とか、ざだ、というような音がして、いくつかゴミが巻き込まれて落ちていったようだった。
 彼女は、小さく礼をして、思わず座り込んでいた僕を立たせた。同じ帰り道を辿りながら、彼女は背中だけを見せて、僕にここでのいくつかの決まりを話した。
 挨拶は必ず一礼。死人が出れば金をだせる人間が金を工面し、あの焼き場に頼みにゆく。そのあと誰が空いた部屋を使っても口を出さない。
 それだけだった。彼女は「おじさんのものはみんなあんたのものだよ」と言って、「おやすみ」とドアの前で手を振った。光の下できちんと見た彼女は思ったよりも若く、そして綺麗に化粧をした後だったのだろうに、汗と汚れでその欠片が肌にこびりついているだけになっていた。「ありがとう」と言った僕に、彼女もまた頭を軽く叩いた。「気にしなくていいから、とにかく食べて寝な」といった。
 オレンジの、おじさんの部屋を僕は見て回った。僕のものだと言われたすべてを。工具や、少ない食料品、お金は少しだけあった。そしてひとつ、どうやら大切にしていたのだろう、よく磨かれた金色の時計があった。それには紙切れが巻かれていて、「見つけたやつにやる」と書かれていた。
 僕は、ぼんやりとその時計の前に座っていたが、目の端にうつった林檎に、唐突な飢えを感じた。僕は手を伸ばし、大して拭きもせず、林檎に噛り付いていた。そこからは甘酸っぱい汁がはじけ、生き返るような新鮮な空気を生み出していた。僕は芯まで一気に林檎を齧りつくし、今度はジャガイモの残りと玉ねぎを適当に切って鍋に入れた。体を洗うのと同じ場所から水を入れて、マッチを擦ってコンロの火を点けた。塩と胡椒しかない調味料を振り入れ、僕は水がお湯に代わり、暫く煮立つのを待った。待ちながら僕は泣いていた。
 僕を殺してくれると言ったおじさん。そのおじさんが死んでしまってはどうしたらいいのか。僕はまた、夢を見るのだろうか。昨日のように、今日も眠れると思っていたのに。
 そう、今日の帰り道僕は、おじさんに「今日は殺さないでほしい」と言うつもりだったのだ。それでは、おじさんはその願いもかなえてくれたということになる。
 夢を殺し、僕に明日を残し、大した味のしないスープを残した。
 僕はまだ固い野菜を噛み砕きながら、明日の朝の分以外を呑み込んだ。昨日おじさんがしたように、水でざばざばと体の汚れを落とした。粟立つ肌に、毛布をかぶって、おじさんの上着を被り、電球を消してスプリングだけのベッドへ転がった。
 もう僕に死ねという両親はいなかった。

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