青梅は映画のまち??青梅駅周辺にあるクラシックな映画看板のこと。
青梅駅のプラットフォームで電車を降りて、改札口まで続く地下通路には、クラシックな立て看板が左右に並びます。
駅を出て、まちを歩いていても、商店の軒先や路地など、いろいろなところに映画看板がかけられています。
はじめて青梅にきた人に、よく「映画看板がいろいろなところにありますけど、どこに映画館があるんですか?」と聞かれるこの看板たち。
青梅に住んでいる人でも、なぜこんなにたくさんの映画看板があるのか、はっきりと答えられない人も多いんではないでしょうか。
実は、その昔、"青梅キネマ" "青梅大映" "青梅セントラル" という 3館の映画館がありました。
まだ織物産業が栄えていたころ、西多摩の商業の中心だった青梅の街は活気にあふれていました。古くは江戸時代に宿場町として栄え、”青梅縞”と呼ばれる織物の産地だった青梅は、大正末期には”青梅夜具地" と呼ばれる木綿織物の寝具を生産開始し、青梅夜具地が全国に広まったことで、織物の産地として全国的に知られることとなります。第二次世界大戦によって、一時は生産が低下しますが、第二次世界大戦後に生産が再開されると、戦後の復興とも重なり、青梅夜具地の生産は最盛期を迎えます。
この頃には、織物工場で働くために、地方からも集団就職として、たくさんの若者が青梅に移り住み青梅のまちには、前述した映画館やボーリング場、スケート場や若者むけの習い事教室などもでき、まちが発展していきました。
当時のことを知るお年寄りに話を聞くと、青梅駅周辺の商店街は人の往来が多く、人とすれ違うのもひと苦労するほどだったといいます。
当時、まちのみんなが楽しみにする娯楽が映画でした。
それぞれの映画館の前にはいつも行列ができ、大入り満員の盛況だったといいます。
3館あった映画館はどこも宣伝のために映画看板を立てます。
映画看板師と呼ばれる映画看板を描く職人さんが何人も青梅に住んでいたそうです。
織物産業の衰退とともに、当時3館あった映画館はどこも昭和の終わり頃には閉館してしまいますが、その風景を残し続けてきたのが、今は亡き「久保板観」さんが描き続けた映画看板でした。
久保板観さんは青梅出身。
中学卒業後、地元の映画館で上映する映画の宣伝に描き始めた映画看板は、3千枚から4千枚にのぼると言われています。
映画館閉館後、1994年に地元の商店街の要望で、商店街活性化のためにと再び映画看板を描きはじめてまちに掲げると、当時の映画看板を懐かしんで青梅を訪れる人が増え、まちの活性化にも貢献します。
この頃には手描きで映画看板を描ける職人は他にはおらず、最後の映画看板師とよばれた「久保板観」さんが描き続けた映画看板館は「昭和レトロの青梅宿」というキーワードとともに、青梅の「映画の街」というブランドをつくりあげてきました。
2019年の大型台風で、吹き飛ばされてしまった映画看板も多くあり、今では1994年当時ほどの数は街中に飾られていませんが、板観さんの映画看板を残そうと、板観さんとも親交のあったカフェころんの久保田哲さんが、その風景を板塀に残す取り組みなどもしています。
今はもう、3館の映画館があったことを知っている住民も多くはありませんが、この看板は青梅の古きよき時代の名残でもあるのです。
青梅のまちを歩くときは是非、板観さんの映画看板を探してみてください。