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敷島の人間性からみる『ゴジラ-1.0』

2023年11月より全国ロードショー中の『ゴジラ-1.0』をようやく観てきた。
※多大なるネタバレを含むのでご注意を。


あらすじ

 1945年、太平洋戦争末期。
 特攻隊員である敷島は、機体トラブルを理由に大戸島飛行場へと着陸する。整備班からどこにも異常は見当たらないと指摘されるが、「何が言いたいんだ。」と切り返す敷島。
 
 その夜、島民が“ゴジラ”と呼ぶ巨大な生物が島へ上陸し、拠点を襲う。敷島は、整備班の隊長である橘に戦闘機の機銃でゴジラを撃つよう頼まれるが、ゴジラを目の前にした敷島は引き金を引けず、敷島と橘を残し隊は全滅してしまった。橘は、死亡した隊員達の家族写真を敷島へ渡し去っていった。
 
 戦争が終結し、自宅へ戻った敷島だったが、両親は空襲により死亡しており、近所に住む澄子からは「恥知らず」と罵られる。東京は戦争によって荒廃し、人々は苦しい生活を送っていた。
 
 生活を送る中で敷島は、闇市で赤子を連れて生きる典子という女に出会う。赤子は昭子といい、「見ず知らずの母親に託された」と語る典子は、強引に敷島家へ上がり込み居着いてしまう。迷惑がる敷島だったが、次第に3人での生活に安らぎを見出すようになっていった。
 
 機雷除去の職に就き安定した生活を送る敷島であったが、特攻から逃げ、大戸島で隊員を見殺しにした後悔から、「自分は本当は生きていてはいけない人間だ」と考え、典子と昭子を家族として受け入れることが出来ず苦しんでいた。
 
 ある日、大戸島を襲ったときより遥かに巨大化したゴジラが銀座へ上陸する。逃げる敷島と典子だったが、ゴジラの熱線により銀座は崩壊。間一髪助かった敷島だったが、敷島をかばった典子は瓦礫の山に飲まれ亡くなってしまった。
 
 典子を失った敷島は、ゴジラを殺すため民間主導のゴジラ駆除作戦へ参加する。
 ゴジラをフロンガスで包み相模湾沖海底へ沈めた後、特製バルーンで急浮上させ急激な水圧負荷をかけることで絶命させる「海神(わだつみ)作戦」の準備が進む中、敷島は作戦発案者である野田へ、戦闘機の手配をお願いする。「ゴジラを相模湾へ追い立てるため」と説明したが、敷島の本意は、戦時中果たせなかった特攻をゴジラに対して行い、確実に殺すことだった。
 
 手配された戦闘機「震電」の整備のため、敷島は橘を探し当てる。断る橘だったが、敷島の特攻の意思と、「あなたの戦争もまだ終わっていない」という言葉を聞き、整備を引き受けることに。
 
 数日後、ゴジラの再上陸をうけ海神作戦が決行される。
 周囲の民間船の協力もあり、大きく損傷を受けたゴジラだったが絶命には至らず、銀座を破壊した熱線を船団へ向け放とうとする。最早ここまでと船員達が諦めかけた時、敷島の駆る震電がゴジラの口内へ突っ込み爆発。崩れ落ちたゴジラは海底へと沈んでいった。
 爆発に巻き込まれたと思われた敷島だったが、震電に設置されたパイロット離脱装置によって無事脱出を果たしていた。作戦直前、特攻の覚悟を決めた敷島へ、橘は離脱装置の存在とその操作方法を伝えていたのである。
 
 作戦終了後、敷島は電報を受け、昭子を抱きかかえ病院へ急ぐ。病室には、銀座襲撃の際に瓦礫に飲まれるも、一命を取り留めていた典子が座っていた。「あなたの戦争は終わりましたか」と問いかける典子に、敷島は涙ながらにすがりついた。

怪獣から”災害”へ

 前半一時間は、ひたすら暗い。-1.0のタイトルにふさわしい“戦後”が描かれていた。
 東京は瓦礫が散乱し、家屋もまともに建っていない。
 特攻から逃げ、生きて帰ってきた敷島をなじる澄子も、政府、軍人への恨みをよく表している。(この安藤サクラ演じる澄子は人間味が感じられて、本作で一番すきな役。)

 ゴジラが人間を殺す様も、過去作とは異なっている。
 
 序盤の大戸島で出現したゴジラは恐竜のようなサイズであり、本作中盤や過去作と比較してかなり小型である。そのため、人間への攻撃方法も、頭に噛みついてぶん回す等の直接的なものになっており、恐怖をより身近に感じられる映像となっていた。ゴジラの動きも人間のパニック具合も、気分はジュラシックパークである。
 
 ゴジラ襲撃後、橘が1人1人死体を並べていくシーンにも、人数が少ないからこそより解像度の高い“死”が映されており、従来の怪獣映画とは一線を画す陰鬱さであった。

 その後、東京を襲ったゴジラは見違えるほど巨大になっていた。
 典子が電車から見た、引きの画で咆哮するゴジラ、本当に怖い。
 
 暴れまわり、空襲で生き残った街並みを熱線で更地にする姿は、怪獣ではなく災害そのものである。
 歴代作品に比べ熱線の威力が大幅強化されていたことも災害感に一役買っていた。原爆を彷彿とさせる大爆発と、その後降り注ぐ黒い雨。
 
 人間の敵というには強大すぎる「怖いゴジラ」だった。

憶病でずるい男、敷島

 本作の主人公は、神木隆之介演じる特攻機乗りの敷島である。
 あらゆる作中設定によって終始暗い顔をしており、最後は作戦成功の立役者となるが、この敷島浩一は、一貫して憶病でずるい男だと思うのだ。

 物語序盤、機体不調を理由に特攻から離脱するも、整備班に故障箇所が見当たらないと摘摘され、「何が言いたいんですか」とキレる敷島。特攻から逃げたことを整備班に察せられるも、認めることができず自身を守ってしまう。(本筋とは関係ないが、橘の方が明らかに年上のようにみえる。特攻隊員と整備班では、戦闘機乗りである特攻隊員の方が立場が上なのだろうか。)

 その夜、大戸島でのゴジラ襲撃時、怯えながらも整備班の橘隊長に追い立てられ戦闘機へ。結果ゴジラが怖くて撃てず、整備班を見殺しに。投げ出された衝撃で気を失い、目覚めると整備班は全滅。
 ここでも、一人死体を並べる橘への謝罪の言葉はなく、ただただ目の前の状況に愕然とした姿が映し出されている。

 戦争終結後、押し切られて典子、昭子と同居するも、勝手に居ついたと周囲に説明。(これは確かにそのとおり。)
 家を建て直すも、飲みに来ていた秋津たちに、「奥さんではない」「(昭子に対し)おれはお前の父ちゃんじゃないぞ」と発言している。
 自身が生きていることに対してちゃんと向き合えず、他者に責任を持てていない様子が窺える。
 
 特にこの後者の昭子に対しての発言、神木隆之介が優しい顔で言うもんだから本当につらかった。
 というかお父さんと呼ばれ、典子と3人並んだ絵を書いて渡してくれる子に対してそれを言うのはお前もつらいだろうよ。

 敷島の弱さの一因になっているのは、両親の死だと思われる。両親の死を知った後、敷島が「生きて帰ってこいと言ったじゃないですか」と呟くシーンがある。
 当時の時代背景を考慮すると、それこそ「お国のために戦って(死んで)きなさい」という思想を持たなくてはならない状況であり、親がこのような言葉をかけることはとても珍しかったのではないだろうか。敷島のような特攻隊員であればなおさらである。
 
 周囲には聞かせられないような言葉をかけ、真っすぐにその身を案じてくれた両親を亡くしたことで、死への恐怖が敷島には刻みこまれてしまったように思えるのだ。
 
 その後、銀座で典子が死亡した時には、大戸島で見殺しにした整備班の家族写真を眺め、「許してくれないってことですか。」と声を震わせる。
 
 敷島の行動が直接整備班を殺したわけではないことは重々承知だが、
「敷島、被害者意識ちょっと強めに出てない?」
と思ってしまった。

 さらに同シーン、母を失ったことを悟り泣き始める昭子。そこから立ち去り一人茫然と立ち尽くす敷島。
 
 わかる。

 大切に思っていながらも、結局家族として受け入れる勇気を持てないまま典子を失い、いよいよ絶望する気持ちわかるよ。
 
 でもそれなら、忘れ形見であり、自身を父ちゃんと呼ぶ昭子のことも考えてあげてほしかったと感じてしまうのだ。(ちなみに実際にそのシーンで昭子をいたわり肩を抱いていたのは澄子。)


典子>昭子

 典子の死により、ゴジラを殺すことにこだわり作戦に参加する敷島。密かに特攻を決意した敷島は、ここからゴジラとの最終決戦へ向け突き進んでいく。
 
 このあたりから、前半漂っていた弱弱しさは影を潜め、淡々と、時には強引に事を進めていくようになるのだが、この変化は覚悟ではなく、生に向き合うことを諦めたからだと感じられる。
 秋津からも「典子ちゃんが死んでヤケになってるんじゃないか」と指摘されるが、まさに秋津船長の言う通りではないだろうか。

 残される昭子への描写があまりにも少なく、最終的には、言葉もかけず金だけ置いて澄子へ預け、自身は作戦へ行ってしまう。父親でもない自分の記憶が残ればそれだけ昭子も苦しむという敷島なりの気遣いだったのかもしれないが、自分自身にも他者にも責任を持てない弱さが浮き彫りになっていたように感じるのだ。
 
 ラストの典子との再会シーンも、敷島は抱いていた昭子を下ろし、典子との2ショットのままエンドロールとなる。
 この昭子の空気感には、本作で最も強い違和感を感じた。

 違和感を辿っていくと、敷島の感情は、
 自分>典子>(越えられない壁)>昭子
 の順に優先されているのではということに思い至る。
  
 自身のことで精一杯であり、一緒に支えてくれる典子がいることで、初めて昭子のことを思いやれるというのが、敷島という人間なのではないだろうか。
 
 こう書くと、敷島が責任感のないただの子供のようだが、この「配偶者の支えがあって、初めて子供をかわいがれる」という心情、割と多いというか、一定数いる気がするので、なんて身勝手なと責める気持ちはない。
 もともと無理やり押しかけられたところから始まった関係であり、敷島は最初から二人を責任もって面倒みるぞなんて一言も言っていないのだからなおさらである。
 
 そうした背景や敷島の人間性を踏まえると、やはりラストはあの昭子フレームアウトという結果になってしまうのかもしれない。


厳しくも正しい隊長、橘宗作

 主人公敷島の弱さを書き連ねてきたが、逆に本作で、最も人間として強く正しいのは誰かと言われたときに推したいのが、整備班の隊長である橘宗作である。

 橘は大戸島での整備班の隊長として、主人公敷島に続き序盤から登場している。
 大戸島でのゴジラ襲来時、周囲が怯え慌てふためくなか、橘は部下をかばいながら行動している。敷島にも機銃射撃を強めに指示するが、これも敷島しか戦闘機操作ができない状況下で、ゴジラを倒すため最も効果的な方法を考えてのものである。
 前述のとおり、結果として敷島は撃てず、部下は全員死亡。翌朝生き残った敷島に掴みかかるが、すぐに脚を負傷した身で、部下の遺体を並べる作業へ戻るのだ。
 なおこの負傷は部下を塹壕から避難させる際、最後まで残っていたせいで負ったものあり、細部に至るまでまさに理想の隊長なのである。
 
 物語後半では、敷島に請われ、戦闘機「震電」の整備を担当する。

 橘を探し当てるため、敷島は関係者に「大戸島の整備班死亡は橘のせい」というデマの手紙を送りまくり、橘が怒り訪ねてくるのを待つという力技を発動。
 整備の腕だけでなく、見殺しにした罪を最も責めているであろう橘にこそ、自身の特攻機の整備をしてほしいという思いからだろうが、それにしてもなりふり構わなすぎる。
 棒で殴打し縛り上げたうえ、神木隆之介の片眼が腫れ上がるくらいぶん殴っているが、よくそれだけで済ませたなというのが正直な感想。

 整備後は、本作の肝であった、パイロット離脱装置のことを敷島へ伝える。
 もともと備え付けてあったものか橘が新たに設置したものか不明だが、少なくとも整備開始時は機体を見ていなかったことから、敷島が自身を犠牲にするという前提のもとで、橘は整備に協力しているように思う。
 敷島本人もそのつもりであり、橘としては部下を見殺しにされた恨みもある。

 そんななか、黙々と離脱装置の整備を進める橘。特攻への覚悟を決めきれず、自分はまだ生きたいようだと言う敷島へ、「大戸島で死んだ奴らもそう思ってたよ」と淡々とした口調で答える橘。敷島が特攻への覚悟を決めたのを確認したあとで、離脱装置の存在を伝える橘。無線にかじりつき、パイロット無事離脱の報をききガッツポーズする橘。
 
 橘、お前がNo.1だ。

突っ込みどころが多い良作映画

 作戦が成功し、最後は崩れ去り海底へ沈んでいったゴジラ。だが海中にて崩れた身体の一部が拍動し始め…というところで暗転。
 お約束でもある、復活を予想させる不穏な映像で締められていた。
 
 ゴジラの銀座大破壊劇や、海上鬼ごっこ等の怪獣映画らしい迫力満点のシーンと、やや違和感を感じつつもテンポよく進む人間ドラマで、退屈することなく観ることが出来た作品だった。
 あえて設けられたであろう突っ込みどころも多く、特に「やったか!?(やってない)」という様式美が天丼で繰り広げられる展開にはにやにやしてしまった。

 本作の根底にあるのは、反戦思想と、命を軽視した日本国への批判である。
 そのため、作品全体を暗い雰囲気が覆っているが、復興へ向けて前を向く姿勢が最後に描かれている。
 
 典子の痣などの考察要素が結構あるみたいなので、劇場でもう一度観たい。


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