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耳は閉じることはできないのに聞こえないこともあるし、目を開けていても見えないこともある

こんにちは。秋田県由利本荘市でごてんまりを作っています〈ゆりてまり〉です。

皆さん、お正月休みはいかがお過ごしでしたか。
わたしはまりを作りながら、推理小説ミステリばかり読んで過ごしていました。
ミステリを読んで気づいたのは、人は目を開けていても見えないこともあるし、耳を塞いでいないのに聞こえないこともあるということです。
そんなことあるわけないと思われるかも知れませんが、わたしはこの正月、ミステリをたくさん読んで納得しました。
そして現実でもこういうことはきっとあり得るだろうと思いました。
2冊ほど例にあげて説明してみます。

1冊目は綾辻行人さんの『殺人鬼』です。
ストーリーは、人里離れた山中で男女数人がキャンプを楽しんでいたら、化物みたいな体力と執拗さで追いかけてくる殺人鬼が現れ、猟奇的なやり方で次々と殺されていく、というものです。
非常に血みどろでスプラッタなシーンが満載なのですが、そればかりがこの小説の魅力というわけではありません。
小説内にある「謎」が巧妙に隠されており、読者は回答が提示される前に謎を解けるか、といったミステリとしての楽しみもあります。
『殺人鬼』を読んでいて思ったのは、いかにわたしが情報を読み落としているか――焚き火の時に「いつっ!」と引っ込めたのは左右どちらの指だったのか、被害者が殺される当日に着ていたのは何色の服だったのか、殺人鬼が切り落としたのは左右どちらの足だったのか――などを覚えていないということでした。
そのせいで「回答編」が提示される際に「え、えぇ? まさか!? そんな!!」と無様なほどうろたえ、「騙された!!」と思ってしまうのです。
誰も騙してないんですよね。
作者はきちんと書いている(叙述している)のに、わたしが情報を見落として、勝手に誤解しているだけなのですから。
わたしは散々情報を読み飛ばした上で「グロい!」とか、「殺人鬼怖い!」とかいう雰囲気を感じ取っていただけなのです。

これが「なんて残酷な! こんなの直視できないよぅ」と目を細めていたのならまだ分かりますが、そのときわたしは目をギャンギャンに開いて、ほとんどかぶりつくようにして読んでいたのですから、困ったものです。
それほどまでに関心を持って注意深く読んでいたとしても、「読めていない」「見落とす」ことはあり得るのです。
綾辻さんはこの読者の「見落とし」を積極的に利用して(いわゆる叙述トリックというやつです)、アッと驚くような展開を用意してくれるので大好きです。


2冊目は京極夏彦さんの『姑獲鳥の夏』です。
二十ヶ月も身ごもったままの女性がいる――という情報を聞きつけて、行きがかり上調査することになった関口と榎木津。
榎木津は、もともと弱視だった上に戦争中に照明弾がモロに顔に当たって、左目はほとんど見えていないという男です。
しかし榎木津はソレを目にした瞬間に「うっ!」と唸り声をあげたのに対し、関口はソレを目にしても何も感じ取ることができません。
「関口――お前本当に大丈夫か」
「僕は狂ってなどいない! 狂っているのはそっちの方だ!」
なぜ「見える」人と「見えない」人がいるのか。
果たして正しいのはどちらなのか――。
二人の共通の友人・京極堂は「この世には不思議なことなど何もないのだよ」と言い切り、関口の頼みに従って久遠寺家の呪いを解きます。
その結果、それまで見えていなかった人にはソレが突如として発生し、まるで「産まれ」たかのように感じられ――、という内容です。

メディア化もたくさんされている作品ですから、ご存じの方も多いでしょう。
『姑獲鳥の夏』を読むと、わたしたちが「現実」と知覚しているものは現実そのものではないこと、脳がその裁量によって選択した情報で再構成された、あまりにも個人的・・・なものに過ぎないということを思い知らされます。
今回の記事のタイトルは、こちらの作品に出てくる、榎木津の台詞から借用しました。


そしてこの見ているはずなのに知覚できない、という現象は、ごてんまり業界にも起きているのではないかと思いました。
と言うのも、わたしには不思議で仕方なかったのです。
ネットで調べるとすぐに「江戸期の手まりは本荘にあっという記録はない」ということが分かるのに、本荘のごてんまりは江戸時代からあるんだ! という意見が未だに後を絶たないのは何故なのか。
「本荘ごてんまり」と入力して検索すると、由利本荘市観光協会のHPが最初に出てきます。

本荘ごてんまり – 由利本荘市観光協会 (yurihonjo-kanko.jp)

かなり最初の方に「江戸期の手まりは、御殿女中から庶民に伝わったとも言われていますが、本荘には記録としては残っておらず、現在は歴史ロマンを感じさせる説として広まっています。」と書いてあります。
にも関わらず、本荘ごてんまりについて何か書くとなると、何故か「江戸時代からある!」となってしまうんですよね。

由利本荘市役所入り口のディスプレイ
秋田県が発行する冊子『SOU』より

こういった文章を書く人は、何かで調べてから書かないのでしょうか?
今どき何かを調べるとなったら、まずはネットで検索する方法が思い浮かびそうなものですが…。
さらに最近だと、KOUGEI EXPO in AKITA(第39回伝統的工芸品月間国民会議全国大会)の本荘ごてんまりの展示で、ごてんまりは800年前の鎌倉時代からあるんですよ、というオドロキの説明がありました。

KOUGEI EXPO in AKITA内 本荘ごてんまりの展示

わたしは秋田県民が非常に優秀で真面目だと言うことを知っています。
だから不思議で仕方なかったのですが、この正月ミステリをかなり読んでみて、こういうこともあり得るだろう、という結論にいたりました。
知覚できる/できないは、いわゆる頭の善し悪しに左右されるものではありません。
私たちが見て、聞いて、体感している現実は、脳がその裁量によって選択した情報で再構成されたものです。
従って部分的に選択されなかった要素がある場合、当人には全然知覚できないということになります。
だからネットの第一に「江戸期の手まりは本荘にあっという記録はない」と書いてあり、それを目にしたことがあったとしても、その人が全く知覚できずに真逆のことを書いてしまう、ということはあり得ます。

おそらく当人達にもデマを広めているという自覚はなく、悪意もないのでしょう。
ではなぜ、同じ部分の読み落としが集団で発生するのでしょうか?
上記にあげた写真を見れば分かるとおり、これは一人二人のレベルで起こっている現象でなく、本荘のごてんまりに関わるほとんど全ての人に起こっている現象です。
本荘ごてんまりに関わる人は、なぜかほとんど全員が「ごてんまりはすっごく昔からあるんですよ! 江戸時代とか鎌倉時代とか!」と書いてしまいます。
由利本荘市の観光協会は最初に「江戸期の手まりは本荘にあっという記録はない」と書いているにも関わらず。
なぜ集団で同じ部分の見落としが発生しているのか。
その中でなぜわたしは「知覚できる」側にいるのか。

なんだか現実のほうがミステリになってきました笑!

「君にこの謎が解けるか!?」とやりたいところですが、これは推理小説ではなく現実なので、正解も回答もありません。
おそらくこの謎を解くには、知覚できる/できないの差は、何によってもたらされるのかを考えれば良さそうです。
知覚できない側の人たちには、何らかの共通項があるでしょう。
どうにかして解き明かしたいところです。

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