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コミュニケーションの生まれる振る舞いとしての「セミパブリック」仮説
(平田オリザ(1998)演劇入門 講談社 の読書記録です。)
他者との会話が起こるときって?
普段、見知らぬ誰かと会話は起こらない。
職場まで歩いているとき、電車に揺られているとき、私たちはすれ違う他者と会話はしない。
逆に、家や学校では会話をするが、それは知っている人たちとの間だろう。
見知らぬ誰かとの会話が起こるのは、どんなときだろうか?
セミパブリックとは —演劇の方法論として—
セミパブリックとは
平田オリザが『演劇入門』の中で、戯曲を書く方法論としてセミパブリックという概念を提示している。
セミパブリックな空間とは、物語を構成する主要な一群、例えば家族というような核になる一群がそこにいて、そのいわば「内部」の人々に対して、「外部」の人々が出入り自由であるということが前提になる
ポイントに分けると、以下のようになるだろう。
セミパブリック
1. 内部の人がいて、外部の人がいる空間。
2. 外部(=内部の人に対しての他者)がそのまま外部であり続けるのではなく出入り自由である状態。
これが演劇とどう関わるのだろうか。
普段説明されないことをどう説明するか
演劇では、舞台の状況を観客と共有することが重要だ。
登場人物の情報や人間関係、どんな場所にいるのか、いつ頃の時間帯なのかなどが観客に理解されることで、観客は舞台に引き込まれていく。
しかしそれらが共有されたとしても、説明的な台詞ではリアルさが失われてしまう。
例えば一組のカップルが美術館に入っていく場面を想像してみよう。
a. 「やっぱり美術館はいいなぁ」
b. 「やっぱりいいなぁ」
aを想像したとき、ひどく不自然ではないだろうか。
実際に美術館に行ったとしたら、bのように言うはずだ。
なぜ不自然さが感じられるかというと、私たちは親しい人と話すとき、余計な情報についてはわざわざ口にしない。
帰宅してリビングが涼しいとしても「涼しいね」としか言わない。
「私の家の」や「リビングが」はカットされるのだ。
また、親しい人に限らず、コンテクストが共有されているときについても同様である。専門家同士の会話では、前提となる基礎的な話についてわざわざ説明しないだろう。
こち亀の例の画像の「こういう会話は好まず」の方が若い子が言うオタク像なのは間違いないが、「アオいいよね・・」の方は単に知識量を前提としたものだけでないことも知ってもらいたい
— ドル山 (@dol_aki) January 22, 2020
相互の熱意や知識などを会話で探り合うフェイズがあった上で、初めて「アオいいよね・・」になるのだ pic.twitter.com/A6oEvaNMPI
(「オタクの会話の好み」が主眼となっているが、会話に単語が少ないことがわかる。オタクの性質として誇張されているような気はするが…)
つまり、
リアルな会話を再現すると観客にとっては情報が足りないが、
説明をしようとするとリアルさが失われてしまうのだ。
リアリティを持ちながら観客に伝える。オリザはこの問題を場所の設定で解決しようとした。
不自然さを乗り越えるセミパブリック
私的空間(家など)では、近しい人同士にしか通じない会話がされていて、その状況や背景を観客は理解できない。
公的空間(道路など)では、他者同士関与せず、そもそも会話が生まれない。
オリザの描いた劇のセミパブリックな空間は、例えば以下のようなものだ。
・大学の実験室の隣のロッカーなどが置いてある学生のたまり場
・南の島に向かう豪華客船の甲板
・温泉宿のロビー
これらは、内部の人に対する外部の人が出入りする空間となっている。
例えば最初のものは、内部の登場人物として研究者や大学院生がいて、外部として、事務職員、後輩たち、業者の人、大学院生のバンド仲間、大学院生の妹などが登場する。
すると、それぞれの人に親しさやコンテクストの共有度合いの差が生まれ、観客の理解できるような情報が語られる「対話」が自然にされるという仕掛けだ。(本書では会話と対話の語を使い分けていた。このnoteでも「対話」を新たな情報の交換や交流という意味としたい。)
現実のセミパブリックを想像する
セミパブリックを再定義する
ここからは本の内容を超えて、現実のセミパブリックな空間について想像してみたい。
セミパブリックな空間とは以下のようなものであった。
セミパブリック
1. 内部の人がいて、外部の人がいる空間。
2. 外部(=内部の人に対しての他者)がそのまま外部であり続けるのではなく出入り自由である状態。
セミパブリックな空間は、人や状況についての発言に自然さをもたせるような空間であった。
公的空間、例えば駅のホームのような場所では、電車に乗るまでの列の順番は気になっても、それぞれの人は無関係な他者として存在している。もし電車内で自分の右に座る人と左に座る人が逆だとしても何も問題はなく、その人たちが互いに存在を意識することはない。当然、会話は行われない。
また、家のような私的空間ではコンテクストの共有が既に行われており、「あの公園の」「来週来るって言ってた」など、内部の人の間でしか分かり合えない会話がなされている。「あれ」とか「それ」とかで、リモコンや栓抜きや洗濯物が滑らかに行き交うのは、長年連れ添った夫婦のみが達するコンテクストの共有の極地である。
無関係、あるいは共有しすぎの問題を乗り越えるセミパブリックな空間は、内部と外部の互いの存在を意識させ、コンテクストのズレを自覚しながら自由に接近・離脱ができる状態を設定することで、対話を生み出すことに成功したと言えるだろう。
(老夫婦の会話、阿吽の呼吸すぎて何もわからんよね。)
ここで、対話を生み出す空間としてセミパブリックを捉え直し、再定義したい。
対話を生み出す空間としてのセミパブリック
①内部、外部の人が互いの存在を意識すること
②コンテクストのズレを自覚しながら自由に接近・離脱ができる
戯曲の中でのセミパブリックが、人間関係や舞台設定についての発言に自然さを与えたように、現実の中でのセミパブリックを、日常では触れられない、または意識されないために隠されている人物像や世界の見え方が語られるような、対話を生み出す空間として、構想することはできないだろうか。
セミパブリックという事故
表題を裏切ってしまうが、セミパブリックな空間が対話を起こすかはわからない。起こりうる空間ではあるし、起こりやすいとは思う。
セミパブリックはある意味で事故のようなものである。
セミパブリックな空間によって、会話ではいけなくなってしまうのだ。
見知らぬ他者ではない人として、内部と外部が接近してしまう以上、会話は対話へと変容を促される。変容に迫られる。
この「事故」の、クッションのように対話がある。
私たちは居合わせてしまったら、コンテクストのズレの無視に耐えられないのかもしれない。
見知らぬ他者ではなく、誰かとして居合わせるとき、
その緊急事態に対話を発動させるのだ。
セミパブリックを身に纏い、セミパブリックを生み出す
対話が生まれるとき、お互いが自分の空間から身を乗り出している状態だともいえる。
私的空間や公的空間にはない、「関わり合える余白」の上で、お互いが接近しているのだ。
セミパブリックな空間が対話を生み出す流れは、以下のように整理できるかもしれない。
セミパブリックが対話を生み出す流れ
①他者が外部として存在できる
②関わり合いの余白が生まれる
③コンテクストのズレが自覚される
④会話が対話へと変容する
対話が生まれるというのは、何もないところから対話が生まれるのではなく、会話が対話へと変容するということだ。
それは、お互いに自覚されたコンテクストのズレを擦り合わせるような力が働いて起こる現象ともいえるだろう。
ここで、逆に考えることはできないだろうか。
対話がコンテクストのズレを補うような現象なのであれば、
対話は「コンテクストのズレを許容できる振る舞い」
とも言い換えられるかもしれない。
すると、対話はセミパブリックな空間から生み出されるものとしてだけではなく、セミパブリックな振る舞いとして捉え直すことができる。
対話は、最小のセミパブリックな空間である。(名言風)
最後に
読書記録なのでいいなと思った部分を記録しておきます。
オリザが優れた芸術について説明している文です。
「このような世界の見え方があったのか」
「たしかに私は、このように世界を見た瞬間があった」
という覚醒は、受け取り手の側の知覚を刺激し、新しい世界の見方の模索を促すからだ。
そのとき生まれる新しいコンテクストは、決して表現者である私のものでもなければ、鑑賞者だけのものでもない。そこに、コンテクストの共有、新しいコンテクストの生成が起こるはずなのだ。