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なぜホテルをつくるのか|自己紹介

Section Lの第一号店開業してから、4年が経ちました。

まだ4年か、と思いつつ「自分のホテルをつくりたい」という考えが初めて頭をよぎった19歳の時から、12年も経っています。

Section Lは築地や上野などの観光人気地帯を中心に、東京都内で現在9棟のアパートメントホテルを展開しています。来月にはSection Lブランドで最大規模となる10棟目が開業を控えている中、「成功したね!」と言ってくる周りの方々や、支えてくれたチームメイトや友人達には感謝が絶えません。

しかし、何かを成し遂げた気持ちには全くなれないのは、自分一人の力ではどうにもならなかった事は勿論、「なぜホテルをつくるのか」の解が、まだ形になってないからだとつくづく思うのです。

(少し話は逸れますが、起業には大きく2つの「モチベーション」があると考えています。

・「時価総額XX億円やXX年で上場」が目標
・つくりたいと決めたものがある

この二つのモチベーションにとって「会社の成長」は似て非になります。
前者にとって会社の成長は成功であり、会社の成長は、後者にとって手段の一つ。)

さて、命題の「なぜホテルをつくるのか」に対して「結論から申し上げると・・・」と元コンサルっぽく達筆したい所ですが、ズバッと出て来ないのは何故でしょうか。

最近は日々の業務に追われ続け、たまの休日も趣味や休息の誘惑に負け、気づいたら自分の人生について深く考え、向き合い、言語化することから逃げてきたのかもしれません。

なので今、1週間の休みをとり、自分のアナザースカイであるニューヨークでホテル巡りをしながら、ずっと前から始めようと思っていたNoteにようやく辿り着き、向き合うことにしました。

長い前述でしたが、「なぜホテルをつくるのか」の回答は、自分の生い立ちを振り返り(自己紹介も兼ねて)この記事で紐解いていけたらと思います。

2世としての幼少期(日本)
1993年、中国人の両親の元に徳島で生まれました。中国と日本、バイカルチャーの中で、「日本人は・・・」「中国人は・・・」を常に意識しながら育ったのだと思います。

「外国人」としての思春期(北京)
両親の転勤のため、北京に引っ越しました。ここでは日本人学校(日本人駐在員の子ども達のための教育機関)で中学を卒業するまで、お世話になりました。

高校ではインターナショナルスクールに入学し、初めての英語教育には何度も挫折しそうになりました。音楽に打ち込んでいるうち、良い友達に恵まれるようになり、卒業する頃には「もうどんな環境でもやっていける」という自信と、英語力、多様な文化への興味は身に付いていたかと思います。

中学〜高校ともに、同級生は全員海外駐在員(もしくは外交官か起業家)の子ども達と、守られた環境だったと思います。その中でも、中国の文化や言語を楽しそうに学ぶ同級生(とその親達)、中国に対してネガティブな同級生(とその親達)の両方が存在します。
中国がアイデンティティーの一部である自分にとって、後者の人達には残念な気持ちや恐怖のような気持ちもあったかと思います。しかし、それはそれで受け入れて、みんなと仲良く楽しい学校生活を送ることはできました。(寧ろ学校大好きな陽キャだったと思います。)おそらく「友と義理人情」を大事にする父親の影響が大きかったのだと、感謝しています。

ニューヨーカーとしての大学時代(アメリカ)
なぜ大学のオプションがアメリカ一択になったのか、深い理由は特になかったのですが、ニューヨークという街に大きな憧れがあり、「ニューヨークのど真ん中にキャンパスがあるから」という理由でFordham Universityに入学しました。これが結果大正解で、最初の一年は人生の黄金期というほどにニューヨークは自分の好奇心を駆り立て、行動させ、視野が広がっていく楽しみを教えてくれました。

ただし、どうしても腑に落ちなかった事が一つありました。Fordham Universityは良い大学ですが、アメリカの私立大なので恐ろしいほどに学費が高い。親に払ってもらっている以上、少なくとも自慢になる学歴を修めるべき義務感か罪悪感が、自分を駆り立てていました。

アメリカの大学ではトランスファー(編入制度)が盛んです。(当時全米で大凡1/3の学生がトランスファーをしているというデータを見て、知りました。)つまり、大学1〜2年生で優秀な成績を修めれれば、単位も移して、志望の大学に再受験ができる素晴らしい制度なのです。目標は高く、世界中から優秀な学生が集まる、アイビーリーグの大学に編入すると決断しました。この時期は人生で一番まともに勉強をしたと思います。高校3年間のみの英語教育はハンデではなく、人一倍勉強する理由でしかないと自分を奮い立たせ、成績はオールAを獲得し、一校を除くアイビーリーグの大学全てに志願しました。そして全ての大学から不合格通知をいただきました。

問題は成績ではなく、エッセイ(志願理由)の内容でした。「ニューヨークに来て、世界を見る事の楽しさを覚えたので、更に広い世界を見てみたい。」という、真実ですが薄い理由に、名門大学は限られた編入枠をそう譲らないのです。全校不合格はショックでしたが、諦める理由はなく、この先何を勉強して将来何をしたいのかを真剣に考えるきっかけになりました。

ビジネスか哲学の専攻を考えていた中、コーネル大学のホテル学科に目をつけました。名前の通り「接客を学ぶのか」と思われがちですが、実は経営学をホテルの運営・不動産投資や開発の観点から学ぶ、特殊なビジネススクールです。(コーネル大学の中では、起業家を最も多く輩出している学科でもあります。)

そもそも座学が好きではない自分にとって「楽しく学びながら、卒業ができそうだ」は大前提でした。小さい頃からホテルの世界観や、綺麗な空間が好きだった事もあり、ホテルに対してはオールポジティブの印象。そして多様な文化の狭間で育ってきた自分が、ビジネスをするならばホテルビジネスだとピンと来たのです。父親の口癖であった「人生は自己価値の実現だ」を意識し始めたのもこの時からだったと思います。

19歳、大学二年生一学期、二度目のトランスファー申請、コーネル大学一校に一球入魂し、合格を果たしました。(電話越しでしたが、両親は飛び上がるように喜んでいたはずです。)

アイビーリーガーとしての大学時代(アメリカ)
入学後は「これで俺もグローバルエリートだ」と瞬く間に天狗になり、ブレまくりました。ホテルビジネスの道は一旦忘れ、一部の同級生達の様にウォール街の投資銀行や外資コンサルから必ず内定をもらうと意気込み、少数抜粋性のコンサルクラブ(現地のスモールビジネスにコンサルティングサービスを提供する学生団体)やビジネス友愛会(Business Fraternity)の活動に時間を費やしていました。

ほとんどのアメリカの大学にはビジネス友愛会があり、インターカレッジなので、卒業後も特に政治経済界の中でのネットワーキングや、就活でとても有利に働きます。(因みに更に上をいくのが、アイビーリーグ特有のSecret Societyで、志願制ではなく毎年選ばれし数名がある夜誘拐され、入会させられるといった伝統も存在します。)

アメリカという超資本主義社会の象徴でもあるが故、好奇心とメリットから、それは無視できない存在でした。歴史が深い友愛会には毎学期数百人の学生が志願し、数々の立食会やケース面接を経て、十人程度のみ抜粋されます。抜粋後の一学期間は先輩メンバー達との面談や、ケース・プレゼンテーションを夜な夜な勉強し、記憶がなくなるほどに追い込まれ、晴れて「兄弟」となります。(最近聞いた話だと、この伝統はAcademic Hazingだと大学から指導を受け、緩和されているらしいです。)

趣味や友人関係など、様々なことを犠牲にしてしまい、早い段階で目標にしていたコンサルティングファームから内定はいただきました。「残りの大学生活は成績や就活の事を一切考えずに過ごしてみてはどうか」と幼馴染のつぶやきに感化され、すぐにサインをしました。

ビジネス友愛会には、Asian Americanや自分の様なアジア出身の外国人学生が中心の会と、ユダヤ系の白人学生が中心の会にダブル所属していました。特に後者の選抜側に立つ事で目の当たりにした、アメリカ社会の階級・人種差別の根深さは、ある意味で人生の財産です。

幸い自分の同期達は多様性への意識が強く、友愛会の選抜の在り方に異議を申し、組織の多様性を育むプログラム(Diversity & Inclusion Task Force)を設立しました。

このプログラムに関して特筆できる実績は、残念ながらありません。個々人の「正義」が思い通りには通らないのも、組織や文化の難しさなのだと、今ながら思います。

Airbnbユーザーとしての大学時代(アメリカ・欧州・アジア)
内定サイン後は、本当に成績や就活のことは一切考えず、隙あらば旅行に出かけていました。時折珍しいホテルにも泊まりましたが、安価でディープな現地体験ができるAirbnbを特に重宝していました。当時の謳い文句であった「Live like a local」を体現するかのように、現地のスーパーで食材を買い、ホストのキッチンと調味料を使い、ホストの本棚やらを覗いてみたり、新しい文化や価値観を味わう事にハマっていました。そして、この好奇心こそが、多様性を育むのではないかと。階級や人種差別をしてしまう人達は、この様な旅の経験を通し、異なるものに対する偏見が好奇心に変わるのではないかと。この時から、強く願い始めたのだと思います。そのような時代の流れがあるのならば、それに貢献してこそ「自己価値の実現」だという考えが芽生えたのはこの時でした。

「最早Airbnbに就職したい」とまで思い立ちましたが、当時スタートアップだったAirbnbの新卒ポジションはエンジニアオンリーだった為、一先ずはサイン済みのコンサルに就職してから考えようと落ち着きました。

気がついたら、大学四年生最終学期に「Airbnbが成功した理由」をテーマとした卒論で単位を稼ぎ、滑り込みで卒業していました。
(意外とトラウマになるほどのストレスだったのか、今でも「四年間で卒業できない状況」は悪夢として夢に出てきます笑)

コンサルとしての新卒時代(日本)
一時は憧れのコンサルティングファームでしたが、辞めるきっかけとなったのは、自分で考える時間や、自由な時間を全て拘束される事への敗北感でした。もっと仕事ができていたら、時間のコントロールも効いていたかもしれませんが、座学嫌いの自分にコンサル(特にジュニアレベルの仕事内容)は向いていなかったのだと思います。

語弊を生まないために、明記したいのは同期のお兄さん達は今でも仲良くしてくれますし、尊敬できるビジネスパーソンもたくさんいる、一流の会社です。

但し社内外問わず、日本でもいわゆる「エリート社会」特有の排他的な精神が一部の人達には存在するのだと感じるキッカケにもなりました。思想やバックグラウンドが異なる人々が、寛容に交流できる社会を創ることが「自己価値の実現」ならば、やはり自分の解は旅行業界にあるのだとも確信しました。

因みに新卒で入った会社をすぐ辞めると、周りは良い目をしないし、ある種のコンプレックスがしばらく付き纏います。但しそれをバネに頑張れるタイプ、手探りで経験から学ぶ(賢くない)タイプにとっては、いち早く舵を切った事は正解だったと思います。

第二新卒としてのExpedia時代(日本)
これだと思う転職先は、憧れのAirbnbとまではいかないですが、それと同じくらい面白いものでした。

アメリカ発で世界的に展開しているExpedia Groupのホームシェアリング・ブランド(民泊ブランド)のHomeAwayが日本オフィスの立ち上げメンバーを募集していました。インバウンド絶好調、一年後の民泊新法施工も決まり、宿泊業界の大きな渦に飛び込めるチャンスだと確信しました。

これは大正解で、働くことの楽しさを初めて覚え、「長期滞在型旅行」「観光立国としての日本」「アパートメントホテルブランド」の可能性を肌で実感する事ができました。

一年半程勤めた頃、現Section Lの共同創業者(兼大学の先輩)から「長期滞在の領域で宿泊施設を展開したい。不動産資金はあるので、一緒にやらないか。」と声がかかりました。
積極的な転職は考えていませんでしたが、民泊新法施行の目前。需要と供給のバランスが崩れる事は見え(後にエアビーショックと名付けられる)、自分が作りたいホテルブランドを0から創るには絶好の市場環境だと思い、サラリーマンライフに幕を閉じました。

バックパッカー時代(欧州・日本)
「泊まる」以上に、どの様な顧客体験を提供していくかを考える事が、自分の最初の任務でした。ディープでローカルな体験を提供しながらも、スタートアップなのでスケールできるモデルでないと意味がないというチャレンジがありました。そこで、アートや現地のクリエイティブコミュニティを顧客体験に絡める事に焦点を当てました。

当時日本では事例が見つけにくいホテルコンセプトだったので、始業前、ヨーロッパに5週間バックパッカーとして旅立ちました。「街もしくは宿を活性化をしている、アートコミュニティーがあるか」を判断基準にコペンハーゲン、プラハ、リブリアナ、ベルグレード、アムステルダム、ベルリン、ローマ、フィレンツェ、リズボンの10都市を回り、様々なクリエイター、ホテリエ、旅人たちと話をしました。

泊まった宿に関するレポートは他記事として後述しますが、この旅で「つくりたいと思う宿」や「宿の感動ポイント」など自分の定義が形成され始めました。同じ情報・体験でも、見せ方一つで顧客体験は大きく変わる事も、身に沁みて感じとれました。

起業家としての現在(日本)
Section Lでは高価格帯のアパートメントホテルブランドとして、快適な長期滞在空間を提供することは大前提としています。その上で、クリエイターの創作物や、ローカルなお店や街の魅力を、ブランド独特の世界観やインテリアデザインを通して宿泊者に紹介しています。宿泊者同士の交流の場となる、イベントも定期的に行ってきました。

ホテルビジネスにおける「寝る場所」以上の付加価値(お金と感動を産み出す仕掛け)には、色々な形があるから、面白いと思います。自分はこれからも、旅人(特に外国人)の感性や観点を刺激する体験に焦点を当ていきたいと思っています。そのような体験を通して思想やバックグラウンドが異なる人々が、偏見ではなく好奇心を持って交流できる社会が生まれると信じているからです。


「なぜホテルをつくるのか」
結局のところ「自分が培ってきた価値観や感性を、世の中の為に還元する」という当たり障りもない答えでした。おそらく、世のホテリエだけでなく、信念をもって仕事に取り組んでいる殆どの人の「なぜ」と同じかもしれません。

但し「世の中の為」の定義は、それぞれが歩んできた人生や得意・興味によって、十人十色の答えがあるのだと思います。自分の場合はホテルづくりを通し、多様性の共存に貢献する事が、自己価値の実現と定義しても良い気がします。

さて、たいそうな事を書きましたが、ブランドをスケールさせていく為の匙加減には創業当初から悩み続けています。また、思想やコンセプトを、限られた経験・リソースと時間で顧客体験に落とし込むことの難しさも日々痛感している中なので、今後とも応援・助言どうぞよろしくお願い致します。


後述

「弱みこそ最大の強み」「コンプレックスこそ最大の武器」という言葉は、過去のトラウマやコンプレックスを正当化するために、人は頑張れる。という事なのかなと、この記事を書いて思いました。



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