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狐棲む杜 〈4166字〉

「じゃあ、みんな元気で夏休みを過ごして下さい。遊び過ぎて宿題を忘れないようにね」
 先生の声に、クラス中が歓声で応えた。
 いよいよ明日から夏休みだ。
 みんな両手いっぱいの荷物で、わっと一斉に教室を飛び出した。

「なあ。夏休みの自由研究、何やる?」
「オレ、父ちゃんと飛行機の模型作るんだ!ほんとに飛ぶやつさ。オレの父ちゃん、めっちゃ器用なんだぜ」
「僕んちは夏休みにヨーロッパ行くから、外国の言葉をたくさん調べようかなあ」
「へっ、金持ちはいいよな。悟、おまえは?」
「え……」
 急に話を振られた悟は思わず口ごもった。
 悟の家は母子家庭だ。一緒に工作をやってくれるような父親はいない。看護師の母親は優しかったが、病院の仕事で毎日忙しく、とても悟の宿題を手伝うような余裕はなかった。

「ま、まだ決めてない……」
 ともすれば俯きそうになるのを堪えて、曖昧な返事をする。
「まあ、夏休みはこれからだもんな。時間はたっぷりあるぜ。じゃあ、オレこっちだから。またな!」
 それを合図に、みんなそれぞれの家の方角へ散りぢりに駆けていった。
 ――自由研究かあ……。
 肩に食い込むランドセルの重さに顔をしかめながら、悟は深いため息をついた。

「悟、これお昼のお弁当ね。じゃあお母さん、仕事行くから」
 母親は朝食を食べている悟の前に、慌ただしく弁当箱を置いた。
「冷めたら冷蔵庫に入れてね。食べる時はレンジで……」
「判ってるって。いつもと同じだもん」
 母親は困ったような顔で微笑んだ。
「そう、ね。もう慣れっこよね……じゃあ行ってきます」
 母親は小さく手を振り、急いで部屋を出て行った。気忙きぜわしい足音が遠ざかると、悟は椅子にもたれて天井を仰いだ。

「あーあ……」

 夏休み初日から、一人で母親の作った弁当を食べるのはどうにもわびしい。
 もっとも夏休みに限らず、普段の週末や祝日でもよくあることだった。それどころか夜勤ともなれば、夕食すら一人で食べることも珍しくない。
 母親が看護師として一生懸命働いていることは判っていたし、そんな母親を誇らしくも思う。だががらんとした家の中で一人箸を動かす自分の姿を想像すると、言葉にできない寂しさが湧き上がってくるのもまた事実だった。

 やがて昼時になると、悟は弁当を片手に家を出た。外で食べれば少しは侘しさが紛れるかと思い立ったのだ。
 だが真夏の太陽が容赦なく照りつけるアスファルトの上は、蒸し上がるような暑さだった。これなら家にいた方がまだマシだったかもしれない。
 強烈な日差しから逃れるように、悟は目についた木立の中へふらふらと足を運んだ。
 そこは地元の小さな稲荷社だった。鬱蒼とした樹々に囲まれた境内はしんとした静けさに包まれ、心なしか暑さも和らぐようだ。深い木陰に染まった石段に座り込んだ悟は、ほっと一息ついた。

 実のところ、憂鬱の種は寂しさだけではなかった。あのとおり忙しい母親に「自由研究を手伝ってほしい」とは、とても言えない。言えば必ず母親は、自分の寝る時間を削ってでも手伝おうとするだろう。悟はそろそろ、母親の不在を寂しいと思うだけの年頃から抜け出し始めていた。
 だが自分一人で一体何をやればいいのか、全く見当もつかなかった。

 ともあれまずは腹を満たそうと、悟は持ってきた弁当を広げた。気は重くとも腹は減るものだ。
 蓋を開けると偶然にも稲荷寿司が入っていることに、ふと笑みがこぼれる。

 『や、稲荷寿司。われの好物、ひとつ馳走してくれぬか、こまいの』

 悟は口に入れた稲荷寿司をうっと飲み込み、慌ててむせた。

『お、大事ないか』

 突然の声に、げほげほと咳込みながら涙の滲んだ目を上げた悟は、再び息を呑んだ。
 そこには白銀に輝く一匹の狐がちんまりと座っていた。苦しさも忘れてあんぐりと口を開ける悟に構わず、しげしげと鼻先をひっつけんばかりに弁当箱の中を覗き込んでくる。
 突如湧いた非日常の事態に狼狽えつつも、箸で挟んだ稲荷寿司を恐る恐る差し出すと、白狐は遠慮の欠片もなくぱくりと丸呑みした。

『――ふむ、たいそう美味。久方ぶりに喰ろうたわ。ところで細いの、何ぞ浮かぬ顔をしておるな』

 満足げに舌を鳴らす白狐に鋭く見透かされ、ついぽろりと本音が漏れる。
「あの……夏休みの自由研究で悩んでて」
『ジユウケンキュウ?』
「好きなテーマで何か調べるんです」
『調べて何とする』
 そう言えば調べてどうするんだろう。悟は考えたこともなかった。

「さあ……そういう宿題なんです」
 白狐はすい、と首を傾げた。
『奇妙な真似をするものよ。して何を悩む』
「テーマが決まらなくて……友達はみんな親に手伝ってもらうけど、ウチは父親がいないし、母親は毎日仕事で忙しいんです。だから手伝ってもらうどころか、お昼もこうして一人でお弁当を……」
『それよ』
「え?」
 唐突に言葉を遮られ、悟はきょとんとした。

『それ、その弁当よ。てておらずとも、かほどの弁当を作るかかがいるのであろう?その弁当をとくと見よ。さすれば何やら見えてこようぞ』
「お弁当を?で、でも何を調べれば……」

 悟がそう問いかけた時には、既に白狐は忽然と消えていた。文字通り狐につままれたような気分で、悟は目の前の石畳を呆然と見つめた。

 あれこれ考えた末に、悟は翌日から『弁当日記』をつけることにした。
 こんなものでいいのかと不安ではあったが、これなら一人でできるし、特別な道具や材料も必要ない。何よりテーマが決まっただけでも、かなり気が楽になったのは確かだった。

 悟は色鉛筆を使って、ノートにその日の弁当のイラストを丁寧に描いた。もともと絵は得意なほうだ。それからメニューと食材、そして調理方法を書く。判らないものはさりげなく母親に聞いた。
 だが母親には『弁当日記』の話はしないことにした。聞いて妙に力の入った弁当を作られ、結局余計な手間をかけさせるのでは本末転倒だ。
 あとは一週間ごとに図書館に行って、使われている食材の栄養価や効能を調べた。魚に多く含まれるDHAが頭の働きを良くするらしいと知って、悟は嫌いな魚も我慢して残さず食べるようにした。
 そうして毎日コツコツ書き続けるうちに、悟はあることに気がついた。

「ごはんてさ、緑があると美味しそうに見えるよね」
 ある日、悟は夕食の時に母親に尋ねた。
「緑?」
 母親は怪訝そうに箸を止めた。
「うん。このパセリとか、菜っ葉とかさ」
 皿に盛られた付け合わせのパセリを取ったり添えたりしてみせる悟に、母親はああ、と頷いた。

「食べ物はね、赤っぽい色が美味しそうに見えるものなの。そう、例えばお肉とかトマトとか。緑はその赤を最も引き立てる色なのよ。補完色って言うんだけど」
「ホカンショク?」
「補う色。赤と緑はお互いに補って引き立て合うの。それで美味しそうに見えるのよ」
「へえ。そうだ、クリスマスも同じ色だね!だから楽しそうなんだ!」
 母親は疲れた顔を綻ばせて何度も頷いた。

 夏休み明けの教室は、いつにも増して騒々しい。
 立派なケースに入った昆虫標本や複雑な仕掛けを施した工作の陰で、何の変哲もない一冊きりのノートはいかにも見劣りした。
 ――こんなの自由研究じゃないって先生に怒られたらどうしよう……。
 悟は今更ながら心配になったが、もはやどうともしようがない。
 幸い、先生はちらっとノートの表紙を見ただけで何も言わなかった。悟はそそくさとノートを提出し、逃げるように自分の席に戻った。

 二週間後、提出した宿題が返された。
 それぞれ先生からもらった評価に一喜一憂、大騒ぎの中で恐る恐る自由研究のノートを開いた悟は、驚いて目を見開いた。巨大な花マルが最後のページいっぱいに描いてあるではないか。
 その余白に、小さな字で先生からのコメントが書き込まれていた。

『とてもよくできています。先生はお料理が苦手なので(汗)こんな素敵なお弁当を作れる悟君のお母さんはすごいと思います!
補完色、先生も知りませんでした。教えてくれてありがとう』

 よく見ると大きな赤い花マルの下に、緑色の葉っぱがちょこんと描いてある。
 騒がしさに紛れてそろそろと顔を上げると、ちょうど先生と目が合った。悪戯っ子のように笑って赤と緑の二本のペンをかざしてみせる先生の仕草に、頬を染めた悟の顔にも思わず笑みが浮かぶ。
――お稲荷様にお礼しなきゃ。
 悟は何度もノートを見返しながら、心の中で呟いた。

 次の日曜日、悟は今日も出勤の母親に頼んで、またも稲荷寿司の弁当を作ってもらった。
「はいこれ、リクエストのお弁当。悟ってそんなにお稲荷さん好きだった?」
「うん……まあ最近、ね」
 訝る母親へ曖昧に答えを返した悟は、昼時になるや待ちかねたように神社へ飛んで行った。強い日差しは相変わらずだが、ふとした拍子に頬を撫でる風は、微かにひやりとした空気を含んでいた。

 色褪せた朱塗の鳥居をくぐり、左右の樹々が影を落とす参道を足早に歩く。
 やしろの奥にある小さな祠の前に立った悟は、ぎこちない手つきで柏手を打った。そのまま手を合わせて、むにゃむにゃとお礼らしき言葉を口の中で呟く。だがそれも何やら気恥ずかしく、悟はそそくさと祠の前を離れた。
 そしてこの前と同じ石段に座ると、持ってきた弁当を広げた。きちんと詰められた稲荷寿司がよく見えるようにして、きょろきょろとあたりを見回す。
 だがしばらく待っても、この前の白狐が姿を現すことはなかった。
 できれば直接お礼が言いたかったが、会えないものは仕方がない。諦めた悟が一人で食べようと箸をつけたその時、後ろの祠で「ぱきん」と乾いた音がした。はっと振り返り、祠とその向こうの木立にじっと目を凝らす。
 そのまましばらく息を殺して見つめていたが、結局風に揺れる樹々の葉以外に、動くものは何もなかった。

 気のせいか、といささか拍子抜けして大きく息を吐いた悟は、膝の上の弁当箱に目を戻した途端、あっと声をあげた。
 黒塗りの四角い弁当箱にきっちりと行儀よく並んでいた稲荷寿司は、ほんの僅かの間に、ひとつ残らずきれいになくなっていた。

――やられたぁ。

 深い緑にちらほらと紅が混じり始めた鎮守のもりに、こぉんと高い鳴き声が冴え冴えと響きわたった。


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秋田柴子
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