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小説『海を駆ける』(著・深田晃司)の感想(4)

(4)カメラ(レンズ)が象徴するもの

もう1点、ディティール的な部分に触れておく。深田晃司の前作『淵に立つ』の感想でも少し指摘したように、映画監督として映像の分野を本来のフィールドとする深田の小説には、やはり映画作家ならではの視点や手法が見え隠れする部分がある。

そうした点は、本作『海を駆ける』においては、文学の世界では珍しいような実験的手法を取り入れるというよりは、状況や登場人物の内面の描写の中にこそ現れ出ていると感じる。

それは、端的にいえば、「カメラ(レンズ)といったもの」に対するスタンスだ。

(引用 P.69「サチコ[1]」)
タカシの真新しいスマートフォンの液晶に映るわたしは曖昧な笑みを浮かべ、まるでわたしでありながらわたしとは無関係のよそよそしい他人であるかのように見えた。
(引用 P.105「サチコ[4]」)
一方で、わたしは日本で、三月十一日の津波の被災地の写真をニュースやドキュメンタリー番組で幾枚も見てきたが、そこに遺体はまるで写ってはいなかったはずだ。

他にも、タカシはフィルム式のカメラ(写真)を趣味にしている。

(引用 P.92「タカシ[2]」)
ファインダーを覗いて世界を見ると、色褪せて退屈だったはずの景色が、息を吹き返したように様々な表情を見せてくれる。

そしてまた、主要な登場人物の一人で、個人ブログを運営するジャーナリスト志望の女性であるイルマにも注目したい。彼女は、ジャーナリスト志望ということもあって、「ネタになりそうな」物事をデジタルカメラに収めることに血道をあげているように見える。

作中で、そのイルマが「間違いなく」実際に目撃・体験し、動画に収めることにも成功した「とある不思議な現象」が、見る者によっては映像の「トリック」のように思え、ましてやそれが電波にのせて放送されるに至ると、より一層うさん臭く、現実と乖離した距離のあるものに見えてしまう、という一連のエピソードは、実に象徴的だ。

作中における「カメラ(レンズ)といったもの」の意味するところは、一定ではない。真実を映し出すものなのか、そうではないのか。平気でウソをつくのか、そうではないのか。それをポジティブに捉えるのか、ネガティブに捉えるのか(ネガ・ポジというフィルム写真用語もあるが)。

こうした一連の描写は、深田自身の映像作家としてのこだわりがにじみ出たものと読むこともできるし、またそうしたこだわりを持つがゆえの自戒や自己批判と読むこともできる。

いずれにしても、「カメラ(レンズ)が象徴するもの」の意義は小さくないと思われる。

つづき、感想(5)は、こちら。


【参考】作家・秋沢一氏のブログ「小説『淵に立つ』(著・深田晃司)の感想。」
http://blog.livedoor.jp/akisawa14/archives/1872350.html

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