小説『海を駆ける』(著・深田晃司)の感想(6)
(6)まとめを兼ねて最後に
今回、小説『海を駆ける』を読んで、かなり個人的なレベルで感じたのは、私(秋沢一氏)自身がこれまで地味ながら世に送り出してきた作品群と、キーワード的に重なる部分が多いという印象だった。
津波、海辺の町、叔母、男女のイトコ、散骨、月が綺麗ですね・・・。
中でも、上でも取り上げた「海」と題された冒頭のブロックと、拙作・小説『見えない光の夏』(第3回立川文学賞・佳作)のエンディングシーンは、描写的にも共通する部分が多い。
以下、小説『見えない光の夏』のエンディングシーンの一部をご紹介する。
(引用P.202~203『立川文学3−第三回「立川文学賞」作品集−』[けやき出版])
鼻と口とのどに同時に海水が入った。舌が麻痺したようになり、息ができなくなった。目は海に突っ込む直前に反射的に閉じていた。耳にはゴボゴボと鈍い水中音を感じるだけだった。肌は沖合の海水の冷たさに満たされていた。
五感がほぼ失われた暗黒の世界の中で、タケルは死を覚悟した。
[中略]
次の瞬間、タケルは冷たい海水で満たされた肌の表面に微かなぬくもりを感じた。閉じた両瞼の向こうにオレンジ色の熱を感じる。救命胴衣の浮力で、身体が海面に向けて静かに持ち上がっていくようにも思えた。
[中略]
空のような海なのか、海のような空なのか。青空とほとんど同化した色彩で揺らめく海面の向こう側に、温かな光の気配が感じられた。太陽の光のようだった。
私は『見えない光の夏』のエンディングで、主人公をバナナボートから勢いよく放り出し、海に飛び込ませた。対して、深田の小説『海を駆ける』は、同じような描写を経て、「謎の男」が陸に打ち上げられるシーンから物語が始められている。
小説『見えない光の夏』の作者である私は、まるで自分の作品のエンディングシーンからの続きを読むような気持ちで、この作品を読みはじめた。こういう経験はなかなかない、本当に稀なことだ。
深田晃司とのシンクロニシティは、2013年発表の小説『見えない光の夏』と、2014年公開の映画『ほとりの朔子』が、ともに湘南の海辺の町を舞台にしていたことあたりからも起こっていたと思う。
同じ時代の空気を吸い、全くの無名時代から時々は「同じ釜の飯」を食った、そんなバックボーン的な共通項が、こんな不思議なシンクロニシティを時々生み出すのかなと個人的には思っている。
さて、ずいぶんと長々としたレビュー(書評)になってしまったが、これだけ語らせる(語りたくさせる)ということ自体が、小説『海を駆ける』が内容の濃い、評価されるべき魅力的な作品であることの何よりの証左だろう。
前作『淵に立つ』がそうであったように、意欲的なクリエイターである深田晃司は、小説版と映画版でまた違った面白さを提示してくれるのではないだろうか。大いに期待しつつ、5月下旬の映画版の公開を待ちたいと思う。
(了)
【参考】作家・秋沢一氏のブログ「小説『淵に立つ』(著・深田晃司)の感想。」
http://blog.livedoor.jp/akisawa14/archives/1872350.html
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