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「不安」の対義語は何だろう?

生きていれば誰しも経験したことのある、あの嫌な感じ。

不安を感じながら生きている人は多いだろうし、現に僕も毎日不安を抱えて生きています。中学3年間、仲間外れにされて不安だった。人付き合いにおびえて、高校、大学、就職してからも不安だった。今ではフリーランスで稼ぎは不安定なのに、社会保障費や生活費の請求は毎月送られてくる。毎年2月は(誕生月なのに)確定申告もしなくちゃいけない。

一体、いつになればこの感情から解放されるのだろうか?わからないけれど、宝くじでも当たってもろもろお金の心配をせずに済むようになれば、確かに「安心」できるようになる気もする。

不安⇔安心?

でも、ちょっと待ってほしい。
不安の対義語は、本当に「安心」なのだろうか?

僕はこの疑問について3年ほど考えてきたのだけれど、今ではこの問題提起自体に違和感を感じている。例えるなら、赤色の対義語が「青」なのか「緑」なのか、で迷っているような不毛な感じ。

なぜなら、視点を変えればどちらも間違ってはいないのだから。

では考えてみよう。
不安⇔安心 というのは、どのような視点を前提にしているのだろうか?


パッと思い浮かぶのは、「快⇔不快」の関係。

モヤモヤして気持ちが悪い、不快な感情が「不安」。
それに対して、スッキリした心地よさを含む感情が「安心」だと捉えられる。

この意味で、不安の対義語が安心だという考えに反論はないし、妥当に思える。


では、試しに別の視点で捉えなおしてみよう。

知識欲としての「不安」

不安という感情は、知識欲としても捉えることができる。
平たく言えば「知りたい」という感情のこと。

じゃあ、不安な時に何を知りたくなるだろう?

例えば、こんな独り言をしたとする。
まさか自分がこんな逆境に立たされてしまうなんて・・・。ここから抜け出すには、どうすればいいのだろう?そもそも、自分はいったい何に苦しんでいるのだろう?なぜ、苦しいのだろう?」

こうした自問自答は誰しも少なからず経験したことがあると思うし、今まさに答えを探している人もいると思う。

もしこの手の感情が本人にとって不快なレベルのプレッシャーをもたらすとしても、生き延びるために必要な手段や情報への注意を促しているのであれば、それは知識欲として解釈することはできるのではないだろうか。

(たとえ一時的な答えとして、身を守るために引き籠る という手段を選んだとしても。)


では、ここでの対義語は何だろう。
つまり、快い知識欲とは何だろう?


不安⇔好奇心 だと考えると?

個人的に、次のように解釈している。

不安は、生存のための感情
生き延びるために必要な問題解決を行うための感情。

視野を狭める代わりに、普段は出ないような圧倒的な集中力をもたらしてくれる。森でクマに出会ったとしても、必死に大声を出して威嚇しながら攻撃すれば何とか生き延びれるかもしれない。もしくは、脅威に目を付けられないために部屋で引き籠るのも悪くはない。プレッシャーは不快だし、根本的な解決に至らなかったとしても、今ここで殺されてしまうよりはマシだ。

好奇心は、繁栄のための感情
生きるための余剰を使って、新規探索を行うための感情。

視野を広げて新しい発想を思いつくためには、固定概念を外してゼロから考える必要がある。だから人は意味のない遊びをするし、意外な出来事を見て笑う。そのことに快感を覚える。新しい経験が増えるごとに自然と知識は更新されて、より豊かな方向へ発展することができる。


「不安」と「好奇心」を対応させて生存⇔繁栄 という関係はなんだか違和感を感じるかもしれないけれど、知識欲という観点で見れば快⇔不快は成り立っているように見える。

なら、「不安」と「好奇心」も対義語なのではないか?


ただ、話はここで終わりじゃない。


感情を一対一対応させることの不健全さ

これまで、知識欲を「不安」と「好奇心」の2つに分類した。

けれど実は、情報を求める感情(=知識欲)は、知識の対象を基準に5つに分けることもできてしまうのだ。

不安利用(この問題を解決するにはどうすればいい?)
不足の確認(手順に間違いはないだろうか?)
共感的好奇心(あの人はどう考えているのだろう?)
リスク探索(もっと他の方法はないだろうか?)
喜びの探索(より楽しむにはどうすればいいだろう?)

こうなると、話は変わってくる。
並列する分類が3つも5つも出てくるのであれば、そもそも1対の対義語について考えることにどんな意義があるのだろうか?

こと感情においては、正しさ<実用性

種明かしをすると、上に挙げた5つの分類というのは、例えば心理学的に正しい概念ではない。ただ、好奇心という要素に性格特性のビッグファイブを掛け合わせることで予測されたものだ。(上から神経症的傾向、誠実性、協調性、開放性、外向性)

そして、仮に正しいものでなかったとしても、分類することで「自分が今何を求めているのか?」がはっきりするのであれば、そこには一定の実用性がある。

恐らくほとんどの人は、5つの分類を見て普段の生活に当てはめて、「それぞれ、違った状況で抱く感情だ」と区別できたと思う。それぞれの感情に対して、そのあと執るべき行動が違うことにも気付けるだろう。

違った感情として区別することで状況を判断できるのなら、それでいいのだ。他人が決めた正しさが、必ずしも役に立つわけではない。

実際、「感情の定義や捉え方は、本人の役に立つならそれでいい」という考えは認知行動療法の世界でも一般的になっている。ACT(アクト)などはその典型例。



また最近は、「人間の感情は○○種類」という考え方自体が否定され始めている。この考えは構成主義的情動理論と呼ばれており、要するに「本人が定義できる限り、感情の数は無限に生み出せる。」という考え方。

この理論については、『情動はこうしてつくられる』という本に詳しく書かれているので興味があれば内容をさらってみて欲しい。

(この本は内容が専門的なので、大きな書店に行かないと置いてないかも。ただ、個人的に装丁が好きなので、内容はさておき見かけたら一回手にしてみて欲しい。ハードカバーの本なのだけれど、シリコンコーティングみたいなのが施されていて、手で持った時の肌触りが良いんですよ。)


さて、冒頭でも書いたけれど、「不安 ⇔安心」という解釈自体はあながち間違っていない。それに対義語を考えることは、感情を理解するための一つの手法として有効ではある。

ただし、その先があることも忘れてはならない。


不安⇔安心 に話を戻すと…

実は、この不安⇔安心 という関係も、視点を変えることでさらに掘り下げることができる。

不安⇔安心⇔克服(自信) 

安心した状態を、快い状態としてではなくニュートラルなものだと捉えてみるとどうだろう?

一時的に問題と距離をとるだけでなく、問題について知り、意図的に対処する経験を積み、克服することで自信を身に着けることができる

自分の力で解決できることを身をもって知って初めて、本当の意味で安心することができるのではなかろうか。

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