「100年かけてやる仕事」
我々は、どうしても目の前の現象を比較・相対して認識してしまう。
善悪、白黒、高低、好き嫌い、というように成長するにしたがって、物事を二元化しながら対立的に判断している。
それは、ものごとや世の中は、「喜びと悲しみ」「生と死」等など全て対から成立しているので、そのことの真理とは、対になっているもの、即ち世俗がなければわからないし、本当のところが見えないし、気がつかないのかもしれない。
情報化時代の現在、瞬時のうちに新しい情報が流れ、世界はつながり、地球の表裏もなくなってきている。
社会の関心は、すぐに新しい情報に移り、あらゆるものに効率化と生産性が求められ短期間に利益を上げることが求められている。
スピード重視、短期的に成果が出ないものは、価値がないと判断され、市場からはじきだされてしまう。
市場原理主義で効率を最優先する社会、短期間に成果が出なければ、価値無しとされる。
私自身も若いころから、企業社会において、まさにこのような価値観の中で過ごしてきた。
巷には、生産性、効率化、コスト等々のワードやその種の本、或いはそれに類する主張があふれている。
その一方で、英国で、2013年末に、英国文献における「中世ラテン語辞書」を完成させたとのこと。
驚くべきは、この辞書の作成プロジェクトが始動したのは、第一次世界大戦が始まる前年の1913年ということ、つまり、この辞書の完成までに費やされた時間は丁度100年ということである。
この辞書プロジェクトを推進したのは、英国学士院、この団体が政府の財政支援をうけながらこつこつと100年にわたり辞書を編纂してきた。
この間、英国は、二度の世界大戦を経験し、それでも途切れることなく継続された。
初期にこの辞書の編纂に携わった人たちは、自分の生のあるうちに辞書が完成しないことはわかっていた。
それにもかかわらず、何故、そこまで取り組めたのか、そのモチベーションのリソースは一体、なんだったのだろうかといった点を考えてみると、気づけるものも多いように思える。
この辞書、編纂に関わった人たちの誰一人としてお金のためにやっている人は、いなかったはずである。
経済的な観点からすると、これをやることの意味は全くない。
現代に生きている我々は、ともすれば経済的な観点からものを捉えがちである。
価値を金銭に置き換え、それを手に入れたり、作り出すためにどの程度のコストがかかるかということを主眼に考えてしまう。
然しながら、金銭というものは、価値を図るひとつの道具にすぎず、全ての価値がそれに置き換えられるわけでは、決してないであろう。
また、人間は、全て経済的な利益のためだけに、動いているわけでも、決してない。
一方で、それが、正しいことだから、世の中のためになるから等といった理由だけでは、短期的には可能であろうが、長期にわたってそれを理由に活動しつづけることも難しいであろう。
正しいことよりも、楽しいから、好きだから等といった理由に支えられて取り組むことでエネルギーが生まれるだろうし、そしてそれが、世の中のためになるから余計やる気を増大させたといえるかもしれない。
さらに、人間にとって有益なこと、意味のあることに関われる機会は、それほど多くはない。
「必要とされているのか否か」、必要とされていると、経済的観念を、度外視しても人は動くのかもしれない。
それが100年という途方もない時間、辞書編纂という仕事の継続を可能にした理由では、ないだろうか?
私自身を振りかえって、自己の利益にならないことに、多大な時間とエネルギーを費やし、後世のためを考えて仕事というものに取り組んできただろうか?
つくづく考えさせられた本であった。
効率のいいもの、生産性の高いものばかり追い求めていると、心が窮屈になってしまうし、ぎすぎすした社会、分別ばかりの社会になってしまうと、穏やかな気持ちから遠ざかってしまう。
昨今のコロナ禍で、これまでとは、状況が大きく変わっていく中で、個人の生き方、働き方などに様々なことに示唆するものが非常に大きい本である。
龍雲寺細川老子の「不要不急こそ人生を豊かにするもの」といったお話や、老子の「有の利を為すは、無の用を為す為」という言をまさに思い起こさせるものであった。
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