憧れを超えて〜シューベルトとベートーヴェン
ウィーンの人びとがベートーヴェンの革新的な音楽に熱狂していた頃、ひとりの天才少年が宮廷礼拝堂の少年合唱団(現在のウィーン少年合唱団)に入団しました。フランツ・シューベルトです。
少年合唱団員たちは、寮に入って共同生活をしながら、音楽の専門教育を受けます。寮には学生オーケストラもあり、シューベルトはセカンド・ヴァイオリンを弾いていましたが、その音楽のセンスが一目置かれ、やがて指揮を任されるようになりました。中でも、モーツァルトの交響曲第40番ト短調、ベートーヴェンの交響曲第2番ニ長調には強く心惹かれ、後々までその魅力について語っていたといいます。このように、シューベルトは、奏者・指揮者として、先人たちの傑作に直に触れ、その滋養を吸収していきました。
この寮学校で作曲を教えていたのが、イタリア人の宮廷楽長アントニオ・サリエリでした。当時、歌が大好きな少年合唱団員たちの間では、ヨハン・ルドルフ・ツムシュテークのドイツ語によるリート(歌曲)が流行っていました。
シューベルトもリートの世界に夢中になり、自分でリートを作り始めたりもしましたが、オペラの都イタリアから赴任したプライドの高いサリエリ楽長には、その魅力がまったくわかりませんでした。音楽後進国ドイツで流行っている、取るに足らない流行歌、ぐらいにしか思っていなかったのではないでしょうか。そして、師弟の齟齬は最後まで埋めがたいものでした。
サリエリはシューベルトに昔のイタリアの楽匠たちの譜面を勉強のため与え、彼もこれに取り組んだが、同じ頃に譜面で知ったモーツァルトのオペラやベートーヴェンの諸作品が与えてくれたような満足感はまるで得られなかった。(友人シュパウンの証言より)
その後、シューベルトは、短い生涯の大半をリートの作曲に捧げました。新しいリートができると、寮時代の気のおけない友人たちの前で試演をして、意見を求めました。これが、シューベルトを囲む“シューベルティアーデ”の集いへと発展していきます。彼が父親と衝突して家を飛び出してからは、寛大な友人たちが次々と寝床と食事を提供し、時には五線紙を買い与えて彼の生活を支えました。《魔王》《糸を紡ぐグレートヒェン》などの初期歌曲集の出版も、友人たちの後押しがありました。
あるとき、友人のヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーが、マティソンの《アデライーデ》の詩に曲をつけないのかと聞くと、シューベルトは、「ベートーヴェンのように書かなければならないだろうから、書くつもりはない」と一蹴しました。この詩には、ベートーヴェンのすばらしい歌曲があるのです。しかし、シューベルトは17歳(1814年)の時に、すでに同じ詩への作曲を試みていました。おそらく、その試みは彼自身を満足させるには至らなかったと思われ、それを気恥ずかしくて友人に隠していたこと自体、ベートーヴェンを意識している証に違いありません。
こんなこともありました。同じヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの回想から。
シューベルトは、私の下宿にしばしば遊びに来ましたが、あるとき、ここで一緒にベートーヴェンの《エグモント序曲》を連弾で弾いていたところ、同じへ短調による序曲(2台ピアノのための序曲 D675)の作曲を始め、没頭して食事をとり損ねてしまいました。
こんな風に、シューベルトは、ベートーヴェンに大いに憧れ、影響を受けてきましたが、19歳(1816年)の時、日記にこんなことを書いています。
奇抜さ(Bizarrerie)、これこそまさに当今のたいていの作曲家を支配しているものであるが、それはほとんど我々のドイツの最大の芸術家の一人のみの功績によるものである。この奇抜さは、悲劇的なものと滑稽なもの、快いものと不快なもの、英雄的なものと弱々しいもの、神聖なものと道化じみたものとを一つにし、混同して、区別せず、人間を愛に溶け込ませる代わりに狂乱に追い込み、神へと高める代わりに笑いに誘うものである。(6月16日)
この日記は、グルック礼賛の文脈で書かれています。グルックは、オペラから華美な技巧を排し、シンプルで美しい音楽を聴かせようとしました。シューベルトは、ベートーヴェン的なアジテーションから距離を置き、自分の音楽の本分をグルック的な自然さに見出したのです。それは、思春期を経て青年に成長したシューベルトが、自らの持ち味を客観視できるようになったのだとも言えるでしょう。彼は、憧れのベートーヴェンとは異なる道を選び取ったわけです。
筆者によるグルックの「精霊の踊り」の演奏をついでに貼ってみますので聴いてみていただけると嬉しいです。
とは言え、シューベルトの中で、ベートーヴェンの存在は大きく生き続けました。無名のシューベルトが、上演や出版のあてのない交響曲やピアノソナタを書き続けたのも、ベートーヴェンと同じフィールドで自分の足跡を刻もうとしたからにほかありません。
シューベルトは、21歳(1818年)の時、フランスの歌による変奏曲 D624をベートーヴェンに献呈しました。シューベルトがこの曲の印刷譜をベートーヴェン宅に持参したとき、ベートーヴェンは不在で、シンドラーが受け取ったようです。
シューベルトはこじんまりとした交響曲をいくつも書きましたが、第9番ハ長調D944(1826年、通称「グレイト」)で、満を持して、規模・編成ともに大きな交響曲にチャレンジしています。これは彼の自信作だったようで、意気揚々とムジークフェラインに提出したものの、シューベルトの生前には演奏されませんでした。
この交響曲は、ベートーヴェンのような劇的な高揚はありません。淡々と気ままに旅をしていくような趣で、歌曲王シューベルトならではの叙情的な世界が広がっています。ベートーヴェンが第6番「田園」(彼の中では異色作)で開拓したような世界を、独自の形で発展させたとも言え、この感じは、のちのブルックナーやマーラーへと受け継がれていきます。シューマンは、この交響曲のメンデルスゾーン指揮による蘇演を聴いて、ベートーヴェンの模倣ではない独創性に言及し、
この曲は天国のように長い。全曲にみなぎる豊かな感じも、どれほど人の心をさわやかにすることだろう。この曲は永遠の青春の胚芽を含んでいる。
と賞賛しました。
この交響曲の終楽章に、ベートーヴェンの第9交響曲の歓喜のテーマそっくりの旋律が登場します。紛れもなく、ベートーヴェンへのオマージュでしょう。
ベートーヴェンの“ほらふき秘書”シンドラーは、シューベルトへの共感が強かったらしく、ベートーヴェンが亡くなる前、病床の彼の気晴らしになれば、と、シューベルトのリートの楽譜を見せに行きました。
彼がその内容を知った時、彼は最高度の驚嘆ぶりを示した。数日間ずっと彼は全くそれから離れられず、毎日何時間も《イフィゲニアの独白》《人間の限界》《全能の神》《若い尼僧》《すみれ》《美しい水車小屋の娘》などの譜面を眺め続けた。「本当に、シューベルトには神の火花が宿っている!この詩を持っていたら、僕だってこれを作曲していただろう!」
作り話である可能性もありますが、これが本当であったら素敵なことです。
シンドラーの計らいで、ベートーヴェンの死の直前に、ヒュッテンブレンナー兄弟と一緒に見舞ったのが、シューベルトとベートーヴェンの最初で最後の出会いでした。そして、ベートーヴェンの後を追うように翌年(1828年)病死したシューベルトは、ウィーン中央墓地で、ベートーヴェンの隣で眠ることとなりました。
参考
友人たちの回想録が集成された、シューベルトの一次資料として必読の書。「彼は非常に誠実で、率直で、策略を弄せず、親切で、感謝の心を持ち…」(シュパウン)「控えめであけっぴろげで子供っぽい…」(マイヤーホーファー)―ここで語られるシューベルトの人物像は、彼の音楽そのものであり、彼が音楽的にもピュアで無防備でいられたことがよく分かります。気の置けない友人たちの輪のなかで音楽を楽しんでいたシューベルトは、大衆を熱狂させる音楽を追求していたベートーヴェンとはまるで違っていました。
痛みと愛をキーワードに、作品や日記などからシューベルトの音楽の本質に迫る優れた評伝です。
こちらも必読の、シューマンの評論集。シューベルトやショパンの作品への言及も非常に興味深いものです。
シューベルトの交響曲は、ケルテス指揮ウィーンフィルが最高です。ケルテスはハンガリー人で、かつてウィーンフィルから絶大な信頼を得ていた、ナチュラルな音楽をする人です(残念ながら43歳で事故死)。シューマンの言うような「永遠の青春の胚芽」が息づいた演奏。
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