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THINK TWICE : 20200419-0425

4月19日(日) ウォーキング・デッド


 ウォーキングのついでに、街なかの大きな郵便局で用事を済ませた。
 ぼくの住む街では緊急事態宣言後、最初の週末だったが、郵便局周辺の商店街はかなりの店がクローズして、さながらゾンビ物の映画のように閑散としている。
 ところが、家に帰ってニュースを見ると、江ノ島や鎌倉などに多くの人が集まり、渋滞まで起きていたのには驚いた。道が徐々に混みはじめた時点で、引き返そうという気持ちにはならないものなのか。

 今、この世界に生きていて、COVID-19が会話で話題に上がらないことは無い。ウィルスとの接触をどう避けるか、あるいは自分たちの商売、会社、家庭生活をどう存続させていくか(or 畳むか)という現在進行形の話と、アフター・パンデミックの社会はどう変わるか、そういう変化に対して自分たちはどう備えるべきか……という未来予想系の話が綯い交ぜになる。

 普段からほとんど他人と接触を持たずに暮らしているぼくは(どう考えてもレギュラーメンバーは10人以下)これまでの社会や環境が、過去に発生したウィルス禍によってどのような変容がもたらされてきたか、パンデミックの本質、歴史といった部分について、とても知りたい。

 そんな折、4月3日付けの朝日新聞本紙に寄稿された後、ネット版でも公開された分子生物学者の福岡伸一さんのコラムを読んだ。

「ウイルスは撲滅できない」福岡伸一さんが語る動的平衡https://www.asahi.com/articles/ASN433CSLN3VUCVL033.html?iref=pc_ss_date
*朝日新聞は今、無料会員に登録すると、有料会員限定のコンテンツもCOVID-19関連の記事にかぎって全文読むことができる。


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 この文章の下敷きになっているのは、福岡さんの著書『生物と無生物のあいだ』(2007年・講談社現代新書)の第二章「アンサング・ヒーロー」だ。

 ウィルスの存在は、ロシアの微生物学者ドミトリー・イワノフスキーによって、1892年(日本でいえば明治25年)に発見された。
 それまで確認されていたどんな小さな菌でも濾過できるフィルター(当時は陶板)をすり抜ける、もっともっと微小な病原体があることにイワノフスキーが世界で初めて気づいたのだ。

 ウイルスは、単細胞生物よりもずっと小さい。大腸菌をラグビーボールとすれば、ウイルスは(種類によって異なるが)ピンポン玉かパチンコ玉程度のサイズとなる。光学顕微鏡では解像度の限界以下で像として見ることはできない。ウイルスを「見る」ことができるようになったのは、光学顕微鏡よりも十倍から百倍もの倍率を実現する電子顕微鏡が開発された一九三〇年代以降のことである。(福岡伸一『生物と無生物のあいだ』より)

 人の髪の毛の太さが約90マイクロメートル(μm)に対し、スギ花粉は30μm、一般的な細菌が1μm、ウィルスは0.1μmから0.02μmくらいの大きさだ。
 ウィルスがパチンコ玉、大腸菌がラグビーボール大とするなら、スギ花粉はおとなのヒグマくらいのサイズである。
 それに対して一般的な不織布マスクの穴は5μm
 ヒグマの突進をかわしつつ、飛んでくるパチンコ玉を避けるというのは、どう考えても至難の業である。

 細菌とウィルスの違いは大きさだけではない。

 科学者は病原体に限らず、細胞一般をウェットで柔らかな、大まかな形はあれど、それぞれが微妙に異なる、脆弱な球体と捉えている。ところがウイルスは違っていた。それはちょうどエッシャーの描く造形のように、優れて幾何学的な美しさをもっていた。あるものは正二十面体の如き多角立方体、あるものは繭状のユニットがらせん状に積み重なったまゆ構造体、またあるものは無人火星探査機のようなメカニカルな構成。そして同じ種類のウイルスはまったく同じ形をしていた。そこには大小や個性といった偏差がないのである。なぜか。それはウイルスが、生物ではなく限りなく物質に近い存在だったからである。(同書より)

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COVID-19のイメージ(国立感染症研究所 HPより)

 ウィルスを生物と見なすか、無生物と見なすかは、科学者のあいだでも議論が分かれるらしい。
 この生命とも生命でないともはっきり区分できないユニークな性質が、福岡さんに「ウィルスは撲滅できない」という表現に繋がる。

 『生物と無生物のあいだ』のなかで、ウィルスに直接言及してるのは、第二章だけだが、福岡さんの科学者人生を自伝的に語りながら、帯にもあるような〈生命とはなにか〉という大きなテーマに対し、DNAや細胞など生物を形成するもの、また〈動的平衝〉という考え方からアプローチしている。
 専門的な用語や説明が避けられ、文系の人でも非常に読みやすい語り口で書かれているので、未読の方にはぜひおすすめしたい本だ。

 もうひとつ考えさせられたのが、WIREDのウェブ版に先月末に掲載されたこの記事。

新型コロナウイルスとの戦いの行方は? 「全人類に感染の恐れがある」と、天然痘の撲滅に貢献した疫学者は言ったhttps://wired.jp/2020/03/25/coronavirus-interview-larry-brilliant-smallpox-epidemiologist/

 ラリー・ブリリアントは、スティーブン・ソダーバーグ監督のパンデミックをテーマにした映画『コンテイジョン』(2011年)で、テクニカル・アドバイザーも務めた、疫学の世界的な権威である。

 もっとも興味深かったのは、このやりとり。

──以前、今回のコロナウイルスは「新型(novel)」であるから深刻だと話されていました。
ノヴェル(novel)といっても、“架空”のウイルスという意味ではありません。小説(novel)のようにフィクションではないんですよ。
──そうだったらよかったんですが……。
新型とは、そのウイルスに免疫のある人間がいないことを意味します。つまり、78億人の人類全員に感染の恐れがあるのです。
*インタビュアーは米WIREDの編集主幹スティーヴン・レヴィ

 いわゆる〈新型コロナウィルス〉は英語で"Novel Coronavirus"
 つまり、Novel〈新型〉と和訳しているわけだ。

 Novelと言えば多くの場合、小説(ミステリー・ノベルとかサイエンス・ノベル)という意味を想像する。
 しかし、英和辞典で引くと、Novelの意味としては「〈考え・ファッション・経験などが〉(よい意味で)新しい,新奇な,奇抜な」「小説」よりも先に説明されている。

 Novelはけっして悪い意味で新しいわけではない。
 良い意味で新しい、のだ。

 ウィルスや感染学を長年研究してきた福岡さんやブリリアントさんは、ウィルスを完全に撲滅し、人間が制圧可能だと考えていない
 新型のウィルスがNovelなのは、福岡さんの表現を借りれば、ウイルスこそが生命の進化を加速してくれるからだ。
 親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかし、ウイルスが宿主に介在することで、情報は水平方向に、場合によっては種を超えて伝達しうるからだ。

 勝ち負けでいえば、大部分の人類が免疫をもたないNovelなウィルスが発生し、パンデミックを起こした時点で、人間社会が試合に勝つことは無い

 もちろん負けると言っても、全人類が死に絶えるわけではない
 ウィルスに感染するか、もしくはワクチンによって全人口の70〜80%がCOVID-19に対する免疫を有した状態───いわゆる集団免疫を持つことで、今回のパンデミックは終息=ゲームオーバーになる。

 どれだけワクチン開発を急いだとしても、遠い道のりになるのはまちがいなく、来年のオリンピック開催などは正直、夢のまた夢だと思う。経済や文化活動など、なにひとつ無傷ではいられないし、その修復にかかる時間と費用は計り知れない。

 ブリリアント博士はWIREDのインタビューで「社会生活をなるたけクローズドにし、感染がピークに達した時の患者数をできるかぎり少なくすることこそが、医療崩壊を防ぎ、医学者たちがワクチンを完成させるための時間的猶予を稼ぐために肝心」と語っている。
 要するに、ウィルスのワンサイド・ゲームではなく、ギリギリまで人間が善戦し、グッドルーザーになるということだ。
 生命のプロセスにウィルスが重要な役割を担うなら、勝負には負けても、試合には勝つことを目指すべきなのだろう。
 たとえ時間がかかっても、このパンデミックはいつか終わりがくる。
 折れた骨が再生することで強くなるように、そのときぼくたちは生命体としてひと段階強くなれるはずだ。

わたしは科学者ですが、同時に信仰も持ち合わせています。世界の事象を見つめるときは、常に何らかのかたちでわたしたちの最良の部分を引き出すために至高の力が働いているのではないかと、自らに問いかけています。
 (中略)
今回のパンデミックが、わたしたちが「最良の自分」になるために経験しなければならないことだとは言いたくありません。ただ、いまが前例がないほど困難な時期であることは間違いないでしょう。すべてが終わったとき、第二次世界大戦の終結時と同じように、わたしたちはこの国を細かな断片に分断してしまった原因について考えることになるはずです。
ウイルスは誰に対しても平等です。わたしたちも自らをそのように見るべきではないでしょうか。人間は異なっている部分よりも似ている部分のほうが多いのです。(同インタビュー)

 数日前、アメリカではトランプ大統領が「パンデミックのピークは過ぎた」と発言し、経済活動を段階的に戻すプランを進めようとしている。
 それに抵抗したミネソタ、ミシガン、ヴァージニアといった民主党系州知事にはツイートでプレッシャーをかけ、支持者たちによる外出規制反対デモまで発生した。

 遅きに失した感もある非常事態宣言によって、日本の多くの施設や企業、イベントなども休業状態に入った。多くの人たちが自宅待機を強いられている中、もう何十年も自宅が仕事場であるぼくは、これまでとあまり変わらず仕事を続けている。しかし、これが月単位から年単位の対処が必要だと考えれば、今までのようにのほほんと暮らせなくなるかもしれない。

 その行く末が「最良の自分(The Best Version of Ourselves)」であっても「最低の自分」であっても、このパンデミックによって与えられたモラトリアムが、少なくとも自分たちにもたらすものが何なのか、決して悲観的にならず、ある時はそれを楽しみながら、冷静に見極めたいと思っている。
 
  そういえばゾンビも生物と無生物のあいだにいる存在ですね。

4月20日(月) マシュー・セリグマンの死

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 COVID-19絡みの話題ばかりで申し訳ないが───ほとんど毎日チェックしている音楽情報サイト「amass」である記事を見て驚いた。

トーマス・ドルビー、マシュー・セリグマンに捧げたトリビュート・パフォーマンス映像公開(2020/04/20 15:49掲載)
http://amass.jp/133741/

 マシュー・セリグマン(Matthew Seligman)の名前を知っている人は、相当に重度のニューウェイヴ好きに違いない。
 ぼくはあることがきっかけで彼と知り合わなければ、名前を意識することは100%なかったし、この訃報もそこまで気に留めなかったと思う。

 マシュー・セリグマンは1955年、キプロス出身、ウィンブルドン育ちのベースプレイヤーだ。
 ブルース・ウーリー&ザ・カメラ・クラブ───その後、バグルスで有名になる「ラジオスターの悲劇(Video Killed the Radio Star)」のオリジナル・バージョンをレコーディングしたグループの創立メンバーだ。

 このバンドでキーボードを担当していたのが、のちにソロアーティストに転身したトーマス・ドルビーだった。

 トーマス・ドルビーのデビューシングル『彼女はサイエンス(She Blinded Me with Science)』は、生まれてはじめてぼくが自分のお小遣いで買った7インチシングル。実はこの曲でシンセベースを弾いている人もマシューだ。
 マシューとトーマス・ドルビーは死ぬまで盟友だった。

 ロビン・ヒッチコック率いるザ・ソフト・ボーイズや、「ホールド・ミー・ナウ」などで大ヒットを飛ばす前のトンプソン・ツインズのメンバーとしてもマシューは活動していた。
 他にも、元ジャパンのスティーヴ・ジャンセンとリチャード・バルビエリが結成したドルフィン・ブラザースのアルバム、デヴィッド・ボウイのシングル「ラビリンス」「アブソリュート・ビギナーズ」ステレオMC's「コネクティッド」モリッシーの初期のソロシングル「ウィジャボード、ウィジャボード」など、ぼくも大好きなアルバムや楽曲でベースを担当している。

 また、デヴィッド・ボウイの「ライブ・エイド」のパフォーマンスでも彼がベースを弾いている。キーボードがトーマス・ドルビーなので、彼がバンマスとして集めたメンバーだったのかも。


 ぼくの大好きなアレックス・チルトンのサポートもしていて、30年以上も愛聴してるライブ盤『Live In London 1982』でも、マシューがベースを弾いてることを、さっきWikipediaを見て初めて知った。


 しかしながら彼は、どこかひとつのバンドに腰を下ろして、じっくりと活動を続けていくようなタイプのミュージシャンではなかった。
 後年は音楽活動と並行して、人権問題に関する弁護士として働いていたという。2005年には仙台へ移住し、何年かごとにイギリスと日本を行き来しながら、仕事を続けていたらしい。

 ───と、あれこれ書いてきたが、これらはあることをきっかけにして、すべてあとから知ったことである。

 そのきっかけは、2006年に参加した"stop rokkasho"というプロジェクトトだ。

 青森県の六ケ所村で建設されている核燃料再処理工場の稼働を差し止めようと、さまざまなクリエイターが音楽、映像、テキストなどで呼びかけを行なった。坂本龍一さんとラッパーのShing02さんらが発起人となった活動だったが、再処理工場の建設は今も続いていて、来年度に竣工を控えている。

 この活動のためにShing02のラップ(アカペラ)が提供され、ぼくもトラックメイカーの1人として、"Rokkasho (PAM a.k.a AKIRA MIZUMOTO REMIX)"という曲を作り、公式ページにアップした。

 それからしばらく経ったある日、ぼくが作ったリミックスを元に、手弾きのベースなどをオーバーダビング/リエディットしたダブヴァージョン、"Rokkasho PAM a.k.a AKIRA MIZUMOTO REMIX - MATTHEW'S UNDERDUB)"という音源がアップされていることに気づいた。

 ぼくとShing02に並んでクレジットされていたのは、Matthew Seligmanという見慣れない名前だった。

 最初は「マシュー・セリグマンって誰?」って感じだったが、調べてみると先述した彼のキャリアがわかり、「なんだすごい人じゃん!」と驚いた。
 だいぶ前なので記憶がちょっと定かではないのだが、ひょっとすると公開前にマシューから連絡があったかもしれない。

 それがきっかけになって一緒に新しい音楽を作るとか、実際に会うなんてこともなく、ネット上でそういう接点をわずかに持っただけだ。 でも、彼の訃報を目にした瞬間、なぜかとても親密な人を亡くしたような気持ちに襲われた。

 PAMというぼくのサイドプロジェクト名は、このリミックスを発表する時にはじめて使った。ちょうど都内から湘南に引っ越したばかりの頃で、それまで暮らしてきた東京中心の人間関係から距離を置き、誰も知り合いの住んでいない場所で仕事をしたり、とりとめなく音源を作ったりしていた。

 主戦場だったサブカルチャー系の雑誌やCDなども、徐々に売れ行きも下がっていて、よく仕事をしていた雑誌なども次々と廃刊したり休刊したりした。出版社やレコード会社からの仕事の依頼も以前よりも減り、将来への不安がとても大きい時期だった。

 そんなときだったからこそ、縁もゆかりもない遠い存在のマシューがぼくの音楽を気に入ってくれて(「なんだこれ、ひどいな。俺がベースを入れて、もう少しマシにしてやるか」という気持ちだったかもしれないけど)余計にうれしかったのだ。

 おそらくマシューは虚栄心やお金のために音楽をやるタイプではなかったのだろう。彼のキャリアを見ると、そういう欲の無さが伝わってくる。ぼくもどちらかと言えばそういうタイプだし、そんな彼とたとえ一瞬でも関わりを持てたことは、自分の人生で誇りに思える出来事のひとつである。

 彼への追悼の意味を込めて、ぼくが作ったオリジナルヴァージョン、そしてマシューが作ってくれたダブ・ヴァージョンをsoundcloudにアップロードした。聴いてもらえたらとてもうれしい。


4月21日(火) 雪の中の見棄てられた消防車

 先週の金曜に〈芸術家による災害対策の提言チームを〉という文章を書いた。また、映画「コンテイジョン」の監修をしたラリー・ブリリアントのことを今週日曜に書いたところ、さっそくアメリカでこんな動きがあった。

「コンテイジョン」ソダーバーグ監督、新型コロナ後のハリウッドの安全対策制定を指揮

 新型コロナウイルスの感染拡大によって制限されている経済活動の再開に向け、未知のウイルスのパンデミックを描いた「コンテイジョン」のスティーブン・ソダーバーグ監督が、ハリウッドの安全対策作りを指揮することが明らかになった。
 アメリカの映画監督やテレビ演出家が所属する米監督協会(DGA)はこのほど、公式サイトで所属会員に向けたメッセージを発表。トーマス・シュラム会長とラッセル・ホランダー理事長が連名で出したメッセージには、「みなさんから寄せられるもっとも大きな不安は、いつ仕事に復帰できるのか、そしてどうやったら安全に再開できるのかということです」「あいにく、いつ再開できるのかは分かりませんが、それが実現したとき、安全に対処するために手立ては取っています」と記されている。
 DGAは、所属会員が仕事を再開するにあたり、取るべき安全対策を検討するために特別委員会を設置。専門家の意見を取り入れながら、他組合と協力してハリウッドとしての安全基準を設けたいという。そして、この委員会のトップに指名されたのが、スティーブン・ソダーバーグ監督だ。「オーシャンズ11」シリーズや「トラフィック」などで知られるが、新型コロナウイルスの感染拡大にともない、2011年のSFスリラー「コンテイジョン」の注目度が飛躍的に上がっている。

https://eiga.com/news/20200421/7/

 感染症対策の専門家や医療関係者ではなく、映画監督であるソダーバーグに指揮を執らせるところがなんともハリウッドらしいというか、アメリカらしいというか(ちなみに『コンテイジョン』はパンデミックがどういうふうに終息していくか───という後半30分の展開がおもしろいです)。

 そんなアメリカから今日、だいぶ前に注文していたレコードが到着した。

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 世界的なシティポップブームの波に乗って、1983年にユピテルから発売されたPIPERのサード・アルバム『GENTLE BREEZE』を、ニューヨークのレーベル"SHIP TO SHORE"がアナログ再発した。

 PIPERとはセッションギタリストの山本圭右を中心としたユニットで、このアルバムには山本の盟友だった村田和人(ヤマタツのバックコーラスなどでもおなじみのSSW)や鳥山雄司などが参加している。

 いつかは手に入れたいと思っていたレコードだった。
 なぜならジャケットを飾っている雪の中の消防車の写真は、なんとタモリさん(クレジットではタモリ一義)が撮影しているのだ。しかも、アートディレクターは安齋肇さんが担当───つまり、空耳アワーのコンビ仕事(その頃はまだ空耳アワーはおろか、安齋さんはタレント的な仕事はしていなかったけど)だ。

 もともとそこまで売れたアルバムではなかったはずなので、オークションや中古レコード店でもほとんどお目にかかれなかった。
 中身は正直どうでもよかったし(ごめんなさい)、中古相場はだいたい3,000円前後で、ジャケットのためだけに出費するにはやや予算オーバーだった。CDも再発されたが、そういう理由で探していたから興味は無かった。いずれ1,000円とか2,000円くらいでふと見つけられないかな……なんて考えて、ずっと見送ってきたのだ。

 ところが、ここ2、3年のシティポップ〜ライト・メロウ再評価の影響で、中古価格はグングンと上がっていき(その分、ネットで見かけることも多くなった)、相場も数千円〜1万円に高騰してしまった。


 タモリさん関連盤で収集すべきアイテムは、もうあと1枚か2枚。アメリカ盤というのも逆におもしろいかなと思って、ちょっと悩んだけど購入した。
 予定よりもずいぶん遅い到着だったが(COVID-19の影響)ようやく今日、手元に届いた。シュリンクを開けてびっくり。約1メートル四方のポスター(ジャケと同デザイン)が封入されていた。

 イラネエ〜、とウレシイ〜〜がきっちりハーフ・ハーフ。

4月22日(水) どうでんぐりがえたって

 1ヶ月ほど前から、STAY HOMEのお供になるような音楽をミックスして、mixcloudに毎週末アップしている。
 しかし、毎日この文章を書くようになったので、さすがに作業がしんどくなってきた。断腸の思いではあったけど、先週土曜のアップ分以降は気が向いたときに更新するというスタンスに変更しようと決めた。

 ところが、だ。
 前回の更新からわずか4日で新しいミックスが完成してしまった。

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 気が向いたら───ってアナウンスしていたし、ウソはついてない。インターバルが長かろうが短かろうが、ぼくの気が向いたんだから仕方ない。

 やらなきゃいけないことがあるときにかぎって余計なことをして、後悔する人も多いだろう。でも、そういう時は、まずその時の気分を優先したほうがストレスがたまらなくて結果的に良い……というのが、在宅勤務30年以上のぼくの考え方だ。

 やらなきゃいけないこと……というのは、どうでんぐりがえったってやり終えなきゃいけないわけなので、間に合わなさそうなら、睡眠を削るなり、恋人と会う約束をすっ飛ばしたりして、帳尻さえ合わせればよいのである。

 帳尻合わせのために締め切り直前になって慌てるのが逆にストレスで───と考える人もいるだろうが、こういうものは成功体験の積み重ねなので、それでうまくいけば、いずれハラハラもしなくなる。

 昼寝だろうが、昼風呂だろうが、プラモデルづくりだろうが、マスターベーションだろうが、やりたいことに没頭していると、心がかろやかになってくる。〈やらなきゃいけない〉ほうのアイディアが、ふと下りてきたりする。しかも、けっこうな割合で。そういうときは〈やりたいこと〉をいさぎよく中断して、そちらにとりかかるといい。

 目の前にあるやらなきゃいけない仕事を片付ければ、またやりたいことの続きができる───という気持ちになるので、締め切りではなく、好きなことのためにそれをやっている、という気分にすり替わる。
 最初はまったく見込みのない相手でも、心から好きだ、好きだ、と繰り返していると、向こうも「あれ? ひょっとしてわたしも好きかも」なんて気持ちがすり替わってくれて、付き合えたりすることだってあるわけだし(=わかりやすく例えたつもりだが合ってるだろうか?)。

 余計なことをするのはちょっと───というあなたには、締め切りまでずいぶん余裕がある仕事を先に片付けるという技もおすすめです。

 まあ、そういうわけで、さっきのミックス。
 けっこういいので、仕事しながらでも聴いてください。

4月23日(木) サーカス・オブ・ブックス

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 Netflixで『サーカス・オブ・ブックス』(R-18)を鑑賞した。

 ロサンゼルスのサンセット・ブルバード沿いに存在した、ゲイ専門の書店&ビデオショップと、そこの経営者であるメイソン夫妻の数奇な人生を描いたドキュメンタリー映画。


(今からこの『サーカス・オブ・ブックス』について、ネタバレまで踏み込んで書きますので、情報を入れずに鑑賞したい方は読み飛ばしてください)


(では、いきますよ) 



 夫のバリー・メイソンはハリウッドで光学合成の仕事をしていた。関わった作品は『2001年宇宙の旅』や『スター・トレック』など名作だらけだ。
 しかし、自分の父親が使っていた人工透析機の使い勝手が悪く、それが原因であやうく父親を亡くしそうになる。そこで彼はハリウッドで培った技術を応用して、機械に改良を加えた。
 改良した透析機はすばらしい出来で、飛ぶように売れたことから、バリーは映像の仕事を辞めて、そちらの仕事に専念しようとするが、いろいろあってビジネスは頓挫してしまう。

 妻のカレンは元・ジャーナリスト。
 ウォール・ストリート・ジャーナルなどで仕事をした経験があった。夫が職を失って困っていたところ、かつてインタビューをしたラリー・フリント(伝説のポルノ雑誌『ハスラー』を創刊)が、自分の出版物を販売するディストリビューターを募集していることを知って、応募する。

 夫唱婦随でポルノ業界に足を突っ込んだ彼らは、破産寸前だった「ブックス・サーカス」という書店を買収。ロサンゼルスのゲイコミュニティの中心地に店があったため、ゲイのための雑誌、ビデオ、大人のおもちゃに特化した品揃えにして、名前も「サーカス・オブ・ブックス」と改める。

 3人の子持ちだった夫妻は、子どもたちには家業のことを徹底的に内緒して、生活のためだけにゲイ相手の商売に邁進していた。やがて、お金になりそうだから───という理由で販売だけでなく、ポルノビデオ(もちろんゲイ向け)の制作にも乗り出す。

 これだけ見ると、アメリカの村西とおる(バリーも村西監督同様にある罪でFBIに逮捕される)みたいだが、バリーとカレンのユニークなところは、自分たちが扱っている商品に対して、なんの思い入れも持ってないことだ。
 カレンに至っては、ポルノの見本市に出かけても、展示されている商品をほとんど目に入れることもなく、馴染みのディーラーに必要な注文だけ済ませて、そそくさと帰ってきてしまう(笑)。

 かと言って、性的少数者の人たちに対して偏見を持っているかというとそうではなく、いい意味で彼らの性的嗜好には無関心で、寛容に接してきたことが元店員たちのインタビューで掘り下げられていく。

 しかし、80年代以降、HIVが急速に広まっていくことでゲイの人々の命を次々と奪っていく。そのあとインターネットの時代がやってきて、出会いや買い物の場もネットに移行して、ポルノ雑誌やビデオの売れ行きも低迷していく。メイソン夫妻だけでなく顧客たちもみな老人ばかりになり、「サーカス・オブ・ブックス」の行く末は明日をもしれぬ状態になる。

 実はこの映画の監督はメイソン夫妻の実の娘が務めている。
 インタビュアーである娘とインタビュイーである母親が、カメラを挟んで口喧嘩するところなんかが出てくる。そういう"ファミリー・アフェア(家庭の事情)"も微笑ましくて、シリアスになりすぎないところがいい。
 また、子どもたちの人生にも驚くべき展開があり、メイソン家の物語は「小説よりも奇」になっていく。

 日本でも『サムソン』が今月発売の6月号をもって廃刊と報じられていた。ゲイ向けの雑誌はこれで日本からすべて消えてしまうことになる。

 出版元のホームページに掲載されていた最終号の目次で「ゲイのあんしん老い支度」という連載記事を発見した。まあ、ゲイ向けの雑誌やAVだけでなく、ストレート向けのAVだって、買い支えているのはぼくと同世代のおじさんか、老人ばかりだ。

 「サーカス・オブ・ブックス」の存在はこの映画をきっかけに初めて知ったが、ロサンゼルスはレコード屋時代の買付旅行や、雑誌の仕事などで何度も訪れたことがある、勝手知ったる街だ。
 サンセット・ブルバードも、定宿だったチャイニーズ・シアター近くのモーテルから、サンセット・ストリップ、ビバリーヒルズ、サンタモニカ方面へ行き帰りする際に何度も通った。
 店の目の前にある中型のショッピングモールは、特に車が停めやすかったので、ホテルに戻る前、そこのスーパーマーケットに立ち寄って、ビールや夜食なんかを買い込んだ。

 ダウンタウンをストリートビューでウロウロしてみた。
 最後に訪れたのはもう15年も前なのに、町並みが基本的に変わらないのに驚く。
 ひさしぶりに遊びに行きたいなあ……と旅心に火がついてしまった。この騒ぎが終息したら、やりたいことをやりたい。

 ファミリー・アフェアといえば、イギー・ポップが自分の73歳の誕生日(4月21日)を祝して、スライ・アンド・ザ・ファミリーストーン「Family Affair」をカヴァーして公開した。


 こういうイギーの押さえた感じのヴォーカルって昔からすごく好きだ。


4月24日(金) s道(えすどう)

 朝9時ちょっと過ぎ、自宅のチャイムが鳴る。注文していたiPhone SEがもう届いた。
 Appleからは昨日の夕方まで発送連絡が来なかったので、夕方か、ひょっとしたら夜になるだろうな、と覚悟し、籠城(STAY AT HOME)するつもりで食料なども買い込んでいたのだが……嬉しい誤算

 2015年秋に買った6sをしつこく使っていたので、約5年ぶりの機種変
 この5年の間に携帯のキャリアをソフトバンクからmineoという関西電力がやってる格安スマホの会社に変えたので、今回はすべてオンラインと自宅での作業になる。
 とはいえ、SIMを差し替えて、自分の回線用のプロファイルを新しい方のスマホにダウンロードし、6sから設定などもろもろを移せば、簡単に作業も終わるはずだ。

 特に今回は、前回の機種変時には無かった機能「クイックスタート」で移行作業で行うつもりだった。古いほうの画面に映ったモヤモヤ(映画『メッセージ』のトライポッドが使う言語みたいなやつ)に新品のSEのカメラをかざすだけでデータが移動できるらしい。マジかよ。

 そして、すべての作業は45分程であっけなく終わった。
 使っていた6sとサイズも同一なので、見た目には何の変化もない。背面がガラス仕上げのおかげでケースなしでもホールドしやすそうなこと、カメラの画質が上がったこと、ApplePayが使えるようになったのが嬉しいくらいだ。

 ああ、昔の高揚感が懐かしい。

 最初に買ったのは3GSだった。
 これが2009年。そのあと4s→5s→6sとずっと"s道(えすどう)"を歩んできた。

 3GSからジョブズ生前最後の"作品"になった4sに変えたときの衝撃ったらなかったな。フルHDで動画が撮れるようになり、iCloudやSiriが登場したのも4s以降だった。

 あの頃はiPhoneを持つだけで自分がものすごく大きなムーブメントに参加しているような気がしていた。それが高揚感の源だったが、いま思えば、恐ろしい徴候だった。でも、反省するつもりはない。

 テレビを持たない生活はあるかもしれないけれど、スマートフォン無しの暮らしはもはやありえない。だからこそスマートフォン=iPhoneじゃなくてもいいんだよな、って最近思っていた。だから今回はAndroidに変えることもかなり真剣に検討していた。仕事もプライベートもメールはGmailだし、ネットを見るのもChromeを使っているし、Google Pixelのカメラ機能にも惹かれていたので。

 最後の最後で今カレ(Apple)が「別れないでくれ!」と言わんばかりの商品を出してきたので、元サヤにおさまったんだけど、やっぱりあまり新鮮さはなかった───という話。まあ、この性能でこの値段は破格だと思うけどね。


4月25日(土) NOT GROW, BUT WISE

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 iPhoneのおまけで、Appleの動画サーヴィス「AppleTV+」の無料体験1年分というのが付いてきた。絶妙なタイミングで『ビースティ・ボーイズ・ストーリー』がAppleTV+で公開されたので鑑賞。

 2012年にMCAが亡くなったあと、残されたマイク・Dアドロック彼なしの活動はありえない……といさぎよくグループの活動を停止すると宣言。
 ぼくが17歳のときに出た『ライセンス・トゥ・イル』を聞いて以来、25年にわたって彼らとのあいだに感じてきた時間がスパッと断ち切られ、なんとなく今でもその呆然とした感覚が続いているような気さえする。

 やり場のない悲しみを埋めたくて、こんなミックスも作ったっけ……。

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 そんな中、2018年に『Beastie Boys Story』という分厚い自伝本がアメリカで発売され(未邦訳)、その内容を舞台化したトークショーツアー「Beastie Boys Book : Live & Direct」を行った。

 そのイヴェントをさらに下敷きにして、今度は盟友のスパイク・ジョーンズが演出に加わって、2019年春にフィラデルフィアとニューヨークで「Beastie Boys Story」というイヴェントが開催され、それがこのたび映像化されたというわけだ。

 流されるすべての映像、すべての音楽、ふたりが語るすべての物語に、ぼく自身の思い出も重なっていく。
 個人的にグッときたのは、結成時のドラマーで、その後、ルシャス・ジャクソンを結成するケイト・シュレンバッハ、同じく結成時のメンバーだったジョン・ベリー(2016年逝去)、LAからニューヨークへ帰還するきっかけになった友人の死をふりかえったあと、アドロックが言った「俺たちは成長したんじゃなくて、賢くなったんだ」という言葉だった。

 ぼくにもビースティについては、本が1冊書けるくらいの思い入れがある。いつか書く機会があればいいけど。

 個人的な思い出をひとつ挙げれば───普段、どれだけ好きな相手でも、インタビュー相手にこちらからサインを求めることは自分のルールとして禁じていたけれど(モー娘。時代の後藤真希や松浦亜弥にさえ!)、アドロックがBS2000というサイドユニットのプロモーションで来日した時(2000年)にASAYANという雑誌の仕事でインタビューした。
 その時だけはどうしても辛抱できずにサインと写真を頼んだ。

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 ビースティとして、ではなく、BS2000として来日してるし、相方のAWOL(スーサイダル・テンデンシーズのオリジナルメンバー)に悪いから───と、サイン用に持参したのはビースティではなく、BS2000のアナログ。気遣いができる31歳のアキラ。

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 それにしても、なんでツーショットを頼まなかったんだ、31歳のアキラよ……。


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