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羊と鋼の森と名前の言いにくいピアニスト
とあるきっかけがあり、宮下奈都著「羊と鋼の森」を再読。再再読か。再再再読か。
調律師を目指す一人の青年が、先輩調律師など周囲の人たちとの出会いの中で成長していく物語。
概ねこういう要約を書いたり目にしたりするのだけれど、うーんと思ってしまう。そうなんだけど、そうなんだけどそうじゃないっていうか、いやそうなんだけど!
書かれてから10年になるこの物語が、今読んでも、何度読んでも、〝あたたかいミルク紅茶〟のようにお腹の辺りにじんわりくるのはなぜだろう。と言いながら、実はその答えはそれほど重要じゃないのかもしれないと思っている。それはきっと言葉や形で表せないもののような気がするから。
ピアノという森が奏でる音が物語を動かしていく。主人公の外村は、その音と格闘しながら、その音に励まされながら、調律師としての道を歩んでいく。
小説の中に、音の〝粒〟という表現が出てくる。主に外村がその音に惹かれる、双子の高校生の姉、和音のピアノについて語られる時に。
「粒が揃っていて、端正で、つやつやしていた。」
音の粒と聞いて、自分の中で頭に浮かんだ音、曲(演奏)がある。
イタリアのジャズピアニスト、エンリコ・ピエラヌンツィのアルバム「YELLOW & BLUE SUITE」、その中に入っている ♪yesterdays。
自分はピアノを弾けないし、あまたあるピアノ演奏、ピアニストを網羅して聴いているわけでも勿論ないので、トーナメントで勝ち抜くみたいに選ばれたわけではなく、ふっと浮かんだのがこの ♪yesterdaysだった。
エンリコ・ピエラヌンツィ。
言いにくい。
クレームブリュレと同じかそれ以上に言いにくい。まあ、ピエラヌンツィください!という機会はほぼほぼないのでことなきを得ているが。(クレームブリュレは一回ある)
えーっと、粒である。音の粒。
このアルバムは、ベースのマーク・ジョンソンとのデュオのライブ。ピアノとベースが織りなす、静かで鋭く、ひらめきに満ちて緻密な世界。最初しばらくの間ライブとは気づかず聴いていた。
CDを買った頃は、ピエラヌンツィをあまり認識してなかったと思うので、ジャケ買いだったんだと思う。だとすると超超大当たりだ。(よく見ればそのジャケットにliveと書いてある。おいおい)
ピエラヌンツィのピアノは、渓流の流れが岩に当たって、砕けた水の粒が弾み、転がり、またもとの流れに戻っていくかのよう。中でも ♪yesterdays は特にその〝粒立ち〟が際立っている、と感じる。1曲目の ♪Je Ne Sais Quoi も美しく捨てがたいが、やっぱりここは ♪yesterdays だ。(あくまで個人的に)
今年出た(録音は2019年)「HINDSIGHT」も、やはり粒立ちを感じる1枚だ。
前出のマーク・ジョンソンに、ドラムスのジョーイ・バロンを加えたトリオの結成35周年の再会ライブ。
「YELLOW & BLUE SUITE」と同じ ♪Je Ne Sais Quoi から始まるが、こちらはライブならではの熱を帯びていく。しかし3者の音のやり取りは、その熱に委ねないというか、(おそらく)高度に音楽的に絡み合い、絡み合いながらもそれぞれの音が粒立ちながら、ひとつの流れとなっていく。
この粒立ち感はどこから来るのか。
もちろんピアニストそのものから来るものは大きいし、録音にもよる、ピアノ(メーカー)によっても違いが、そしてそこには調律師の存在もあるのだろう。
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HINDSIGHT(llive 2019)
「羊と鋼の森」は、静かで優しい物語でもあるけれど、時にどきっとするような、ぐっと食い込んでくる言葉も出てくる。
例えば主人公外村が、自分が森に倒れて呼吸を止めてしまっても、森の木の実は秋になれば必ず落ちること、そのことに自由を感じる、というくだり。
「けれども、ここで朽ち果ててしまうこともできる自由の背後から、寒さや空腹が忍び寄る。するとたちまち生身の不自由さを思い出すのだった。」
今回読んで、一番印象に残ったところだ。
坂本龍一が、ニューヨークの自宅の庭で、ピアノを自然に還していく実験をしていた話を思い出した。
外村という主人公は、いざとなったら森に溶け込み、土に還ることもできるような、形や属することに手足を絡めとられていない自由さを持ち合わせているように見える。
「外村くんみたいな人が、たどり着くのかもしれないなあ」
外村は、いろいろなところに〝溶けて潜んでいる美しさ〟の、その側にすでに立っている人なのではないか。もしくは行き来ができる人。
外村の成長物語を見ているようで、実は彼への、美しさの側への憧憬が、お腹の中をじんわりと熱くするのかも知れない。
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