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類想について

たまに、俳句・短歌雑誌、新聞の投稿ページの隅に「お断り」が載ることがある。「先月号の~(作品)~は類想句があるため、入選を取り消します」という文言だ。類想句が先行句、二重投稿の場合もある(句が歌も同じ)。

NHKテキストなら、本来なら入選作品が大きく載っているスペースが、放送後にそういった作品と判明したため載せられず、大きな真っ白で抜かれていることがある。

侘しい気持ちにはなるが、これを選者や編集部の不勉強と断言したくはない。色んな媒体に掲載される膨大な量の作品の全部を把握はしきれないだろう。ネットで掲載されなければ検索に引っ掛からない。選ぶ側、チェックする側はたいへんだなあと思う。

投稿する側の良識にゆだねるしかないのだろう。しかし、罪の意識なく「忘れていてつい、やっちゃった」人も少なからずいると思われる。年齢にかかわらず、管理の苦手な人間なら。自戒を込めて、重々気をつけたいと思う。

一方、類想句、類想歌が必ずしも悪とはいいきれない例がある。俳句に限らず文芸の世界では有名な話かもしれない。皆さんならどちらの句をとるだろうか。

いきいきと死んでをるなり兜虫

いきいきと死んでゐるなり水中花


私は圧倒的に一句目である。カブトムシがひっくり返り足を天に向けて死んでいる。あの死にざまは、死んでからもいかにも堂々としている。兜虫、の漢字の選び方もいい。甲虫だったらここまでの迫力が出ない。一読し100%の納得感があった。

対して二句目は私には言葉の上だけの句に思われ、水中花が「いきいきと」死んでいる像がどうしても浮かんでこない。言葉の上だけの句がすべて悪いとは思わないが、この句ではうまく嵌まっていない気がする。

種明かしをすると水中花が兜虫の先行句である。

いきいきと死んでゐるなり水中花  櫂未知子

いきいきと死んでをるなり兜虫  奥坂まや

櫂氏が抗議文を発表した結果、奥坂氏が櫂氏の句を知っていたと認め兜虫の句を抹消されたが、私のなかで作品としては圧倒的にこちらの方がいい。もし、櫂氏の句から発想を得て、とか、オマージュで、などと添えていればまた違ったのだろうか。抹消となったのは残念である。

ただしこれは、自分が「第三者」ゆえの感想なのだ。

もし自分が自分の句や歌の類想を詠まれた場合、正直、まず不快さは出る。次に、本当に故意の類想か? を疑う。発想が似通う、短詩型なので字も似通う可能性がゼロとは言い切れないからだ。

結果、故意の類想を疑う場合でも、そちらの方がいいなあ、好きだなあと感じる場合、不快さの一部がくやしさに変わる。自分はどうしてこう詠めなかったのかと。そして、お見事、と感嘆する。

櫂氏は兜虫の句を評価しなかった、から、抗議されたのだろうか。色んな考え方があるので櫂氏を批判するつもりは毛頭ないが、評価しないなら放置する、あるいは静観するのもひとつの態度かもしれない、と思う。

実をいうと以前、櫂氏に何度か句を採用していただいた。深く感謝している。類想について述べたくて例を紹介したが、だからこんなことを書くのは心苦しい気持ちがある。櫂氏の心情はわからなくもない。自分なら、感嘆はしても不快さがゼロにはたぶんならないからだ。

好きな句です。

どの家にも修羅一人あり墓洗ふ  櫂未知子

雪まみれにもなる笑つてくれるなら  櫂未知子

つばくらめナイフに海の蒼さあり  奥坂まや

蘭鋳の爆発寸前のかたち  奥坂まや