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辞世 #SS

 山深み真木の葉分くる月影ははげしきものの   なりけり 

 空白に入れるべき言葉をずっと考えていた。早く決めなければ。己には時間がない。
 冬の日が弱々しく山の端に隠れようとしていた。風が出て、ふるえた。筆をおき、細くなった腕を夜着に引っ込める。その時、ぎい、と庵の扉が開いた。
「西行様、文を届けに参りました。……あっ、起きていてよろしいのですか」
 里の寺の十二になる小僧である。名を芳丸といい、食物や文を庵まで届けてくれる。
「今日はだいぶましなのだ。が、少し寒くなってきたかな」
 芳丸が駆け寄り、背に手をまわした。己を夜具に横たえる。
「文は机上に……、さ、中へ」
 芳丸は衣を脱ぐと、慣れた手順で夜具へ滑り込んだ。芳丸の唇から下腹へと愛撫を続ける。が、これまでのように最後までは至らない。老いのせいではない。死が、近いのだろう。
 己はなにをしているのかな、とふと思う。芳丸の喘ぎ声があのお方に重なる。芳丸を組み伏しながらも胸中にはあのお方が嫣然と坐しなさるのだ。己は、忘れるために少年を抱いているにすぎない。
 兵衛尉――都の警備を辞し五十年。全国を旅し歌を詠み続けてきた。今の庵は河内の山里にある。半年前から食欲が落ち、身体がだるい。終日伏せることもある。ここが終の棲処となるであろう。
 歌聖、と人は己を崇める。歌道の真髄を問われ、歌は即ち如来の真の姿なり、などと賢しらなことを言いもした。がその実、己は何もわかっていやしないし、常に心は乱れている。
 待賢門院璋子。お隠れになりずいぶん経つ。初めて拝謁を賜ったのは中宮御所での歌会だった。兵衛尉の中にとりわけ美丈夫で歌もよくする者がいると評判になり、招かれたのである。
 美を付けるのは余計と己自身は思うが、女官たちには大事であるらしい。もっとも、彼女らの口端にのぼったことが己の一生を決定づけることになろうとは夢にも思わなんだ。
 璋子は鳥羽院の中宮であった。璋子と院の祖父である白河院との噂を、無論己は知っていた。そして軽蔑していた。
 璋子は白河院の養女であるが、二人はただならぬ関係にあったという。愛人と夫の両方を手玉にとり、愛人の子を夫の子――次の帝とした悪女。
 御簾に隠したその顔はどんな面構えかと思っていた。だが目の前の、短冊に落とす玉のような瞳はまるで幼女だ。己より十以上も上なのにだ。これが二人の天上人を狂わせた女というのか。
「判官どの。そなたの歌をいつも楽しみにしている」
「勿体なきお言葉でございます」
 面を伏せるのが礼儀であろう。が、なぜか、視線を撥ね返したい衝動に駆られた。璋子と対峙する。なるほど近くでみれば肌の張りはやや衰えているものの、吸い込まれそうに白い。そうして高貴な女人が己の武骨な体躯を見据え、身じろぎもしない。薄っすら笑いさえしている。
 この女を傷つけたくて堪らない。いや、己が逃れられない。
 歌の手解きを所望されているとて、頻繁に御所に呼ばれた。あの日。己が筆を入れた箱を開けると、璋子が女官を退がらせた。
「選集に入れる歌だが、結句が気にいらぬ。見てくれぬか」
 璋子が歌稿を広げ、己に膝を寄せた。お顔が近い。息のかかるほどに。己は歌稿を受け取ったが、目は歌を見ていない。白く小さな手が赤銅の節くれた手に重なる。璋子が顔を上げると底なしの黒い瞳が己を捕えた。瞬きもしない。己は己を失った。
 璋子を抱き上げ、御簾の奥へ誘った。折れるかと思うほど細い身体を何度も突く。その度に喜悦の声をあげるこの女は妖魔だ。 

 山深み真木の葉分くる月影ははげしきものの   なりけり
 

「まだ考えておられるのですか。簡単ではありませぬか、しるき、がよろしいでしょう」
 翌朝、白湯を差し出しながら芳丸が言う。
「それはわしも思った。だが著きでは滑らかにすぎて引っ掛かりが足りぬのだ」
「そういうものでしょうか」
「わしはこれを辞世と決めた。だから慎重になっている」
 芳丸が声を荒げた。
「ご冗談でしょう。下句が直截過ぎます。もっと辞世にふさわしいお歌があるではないですか。あの望月の」 

 願はくは花のもとにて春死なむその如月の望月の頃
 

「それに、辞世だなんてやめて下さい。春になればきっとお身体はよくなります。どうか気落ちされますな。わたくしのために……」
 花のもとにて春死なむ、か。詠んだ身ながら、なんといやらしく格好をつけた歌だろう。西行は辞世の通り花の頃に死んだ、さすがは歌聖だと後世まで称えられるであろう。
 だが、まっぴらだ。己は璋子を忘れるために都を離れた。出奔の日、泣いて縋りつく娘を縁側から蹴り落とした。妻の軽蔑の双眸も忘れることはない。
 己は聖ではない。芳丸を抱きながら璋子を抱く己は、骨の髄まで欲にまみれた凡愚なのだから。
 あの世は無い。死ねば身もこころも消え失せるのみ。狂おしく恥ずかしくどうにも消し難い業。己のただ一度たるまことの生を表す言葉をこそ最期に残したい。……ならば。
 

 山深み真木の葉分くる月影ははげしきもののすごきなりけり
 

 西行は死んだ。暖かな春の午後だった。庵をめぐる桜花があはあはと日に溶けてゆくようであった。彼の願いむなしく、望月の歌が辞世と伝えられている。