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クワドアクセル
北京五輪・男子シングルフリースケーティング。
日本のエース・飛鳥弓真は冒頭、クワドアクセルに挑戦するも、転倒。
結果、全体4位。3つ目の五輪金メダルを逃した。
演技が終わり、飛鳥弓真は名残惜しそうに時間をかけ、観客に挨拶をした。リンクから出る際、深くお辞儀をし、氷に手をついた。
それは、リンクにさよならを告げているようにもみえた。
場内が拍手と溜息に包まれる。泣いている者もいた。
審判の審議が終わり、スコアが出る。
――そのとき、後ろから画面を覗き込む一人の老人がいた。
セルゲイ・メドベージェフ、80歳。
ロシアの皇帝と言われたイワン・ティモシェンコを指導し、彼を五輪2度の金メダル、2度の銀メダルに導いた。スケート界で知らない者はいない重鎮である。
クワドアクセル。
そりゃあ私だって、死ぬまでにその成功を目にしたい。だがユウマ自身も言っているが、まこと、死にに行くようなジャンプである。
私の最愛の弟子、イワンもトライしていたが、転倒した際の衝撃はもちろん、転倒はまぬがれても足を着く際のダメージは相当なものだ。これを繰り返していれば、必ず身体を負傷する。イワンは一度、ほんとうに脳震盪を起こしたため、やめさせたのだ。
ユウマアスカ。
彼のクワドアクセルのトライに、私はずっと注目してきた。弟子の大会が一緒になった際はユウマの練習を動画に撮り、FSR(ロシア・フィギュアスケート連盟)で分析をしている。
私が見たトライのなかで成功といえるジャンプは一度も無い。しかしアンダーローテーション(1/2回転不足)やq(1/4回転不足)は、全体の20%ほどはあった。アンダーローテーションまでいけば、クワドアクセル認定となる。そこまでいった選手は、未だひとりもいない。
最初は私も、ユウマの成功を後押ししたい一心で、アドバイスを授けていたのだ。他国の選手に、私もおせっかいというものだ。だが何かに憑りつかれたようにジャンプを繰り返す彼の姿に、しだいに危機感が募ってきた。
これを続けていれば必ず故障し、他のジャンプにも影響しかねない。年末のナショナル試合が彼の五輪前最後の舞台だったが、そこでのトライは両足着氷のダウングレードであった。あれだけの努力を重ねても不成功だったのだ。私には右足のダメージがかなり進んでいるのがわかった。
クワドアクセルはたとえ成功したとて、基礎点が12.5点しかない。ルッツより1点高いだけだ。私はこれに異議を唱え、せめてルール改正前の15点に戻すようISUに働きかけているが(本音では20点は欲しいが)、今のところ答えはノーだ。身体を壊すのでするなと言いたいのかもしれない。
練習で体をボロボロにしたうえ、点数的には旨味がない。勝ちたいなら入れるべきではないジャンプである。
こんなことは君も承知のうえで、突き進もうとしている。君の努力には心から敬服する。
だが試合で一度も成功していないジャンプを五輪でトライすべきではない。3つ目の金メダルを自ら手放すようなものだ。
君ならクワドアクセルが無くても勝てるではないか。
試合後、そう、本人に告げた。
しかしユウマは言ったのだ。
「アクセルは王様のジャンプだから。誰も成しえていないクワドアクセルを五輪で成功させることが、子供の頃からの夢なんです」
先の大戦時、私はまだほんの子供だった。だから、大人たちの会話に身が震え上がったものだ。
「日本人は死ぬとわかっていて戦艦に突っ込んでくる、実にクレイジーな奴らだ」
転んでも傷ついても挑戦しつづけるユウマの姿に、話に聞いた神風アタックが重なって見える。
死を厭わず、自らの信念をつらぬこうとする若者の姿が……。
足が折れても構わない覚悟の、凄まじい回転だった。
私はこの4分間、サムライの幻姿を見ていたのだ。
主審が得点発表のボタンをクリックしかけた、そのとき――
「待ちたまえ。クワドアクセルはqではないか」
「はっ、ミスターメドベージェフ……実は技術審判の審議も分かれておりまして、1対2の多数決でダウングレードと……」
「私は50年以上、クワドアクセルの研究をしている。複数のスタッフで先ほどのアクセルを様々な角度から撮影し、分析結果を得た。私自身もそれをこの目で見たが、qだ」
「いくらあなたでも承服できません。ISUから審判を任命されているのは我々です」
「ISUの審判技量も、地に落ちたものだ。わがFSRと比べるべくもない。君たちは今すぐ審判席を去るがよい」
「……時間がありません、ミスターメドベージェフ。こうしましょう。間を取ってアンダーローテーションに」
「仕方がない。いいだろう」
score please.
世界で初めての、ISU公認大会におけるクワドアクセル認定の瞬間であった。
【この短編はフィクションです。実在の人物や団体などとは全く関係ありません】
……ですが、作者もqと思いましたですよ。