元哲学徒ディレクターがVision Proを哲学的に考えてみる(第3回)ー現実とは別の仕方でー
この記事は、元哲学徒のMESONディレクター辻川が、現実とは何かという問いを切り口に、Apple Vision Proおよび空間コンピューティングについて考えてみた記事になります。
とは言っても、私は元哲学徒ではありますが哲学研究者ではないので、専門用語は最小限にさせていただいて、なるべくわかりやすい言葉で考えてみたいと思います。なお、かなり荒削りな思考になっているので、そこはご容赦いただけると嬉しいです!あと、参考文献リストも入れていません!笑
自分だけの孤独なユートピア
一年以上前に投稿されたARの画像を紹介することから始めよう。
この水の玉に人は美を感じることができるか。たぶん感じる人は多い。では、知覚(五感)によって人がその対象に美や醜を感じるとき、その対象が「実在すると感じられる」ことは重要なことであるか否か。
例えば、上記画像の水の玉は、ARのオブジェクトであるから、この世界には実在しない。それは体験者も理解していると言える。ただ、「実在しない」ことと「実在すると感じられる」ことは両立しうる。例えば、この水の玉がとてもリアルに見えるとか、近づいて触れるとすごいハプティクスがあるとか、あるいは音を発しているとか、匂いがするとか、こういった知覚(五感)が可能であることで、「実在すると感じられる」(つまり、実在感=リアリティが感じられる)ことは十分にありうると考えられる。
もっと言えば、今後広がる空間コンピューティング時代において、「それが本当に実在するか」はもはやどうでもよくて、「実在感=リアリティ」があるか否かのみが重要な指標になるのかもしれない。これは、「本当に実在するかどうかはもはやどうでもいい」と考える点で、“実在のニヒリズム“あるいは“リアリティの物神化“とでも呼べるかもしれない。
観点を変えると、この画像にはさまざまな種類の存在者が映っている。人間、自然、人工物、デジタル人工物(水の玉)。人間、自然、人工物はこの世界に実在するが、デジタル人工物は実在はしない。と、言いたくなる。その時、何が両者を分けているのか。水の玉がおそらく触れないし、匂いもしないし、味もしないからか。では仮にデジタル上でこうした知覚を全て可能にしたら急に実在するようになるのか。それも変な話である。
では、この水の玉が全ての人に同じように見えているとは限らないからか。Aさんからは水の玉だがBさんからは水の柱かもしれない。今後のデジタル世界ではこうしたことが可能であるし、実現される世界観としても十分にありうることである。
「自分にしか見えていないと分かっているもの」に、「実在感=リアリティ」をどこまで感じることができるのか。
上記の画像を改めて見直してみると、感じている違和感が何かが分かった。自分に見えている素敵な水の玉が、他の人たちや鳥居にとって存在しないものであり、彼らや鳥居と水の玉の間に双方向的な関係が存在しないことが気持ち悪いのだ。同じように知覚している対象同士なのにその間にリバーシブルな関係性が存在しない。これは“従来型“の実在世界に生きる人間にとっては違和感のあることである。ここでは二つの道があるように思われる。
①同じように知覚している対象同士であればその間に双方向的な関係性があるような体験を目指す(例えば、水の玉が人に触れるとたわむとか割れるとか。ただしこれは双方向ではなく水の玉からの一方的のみである)
②「同じように知覚している対象同士なのにその間に双方向的な関係性が存在しない」ことを“次世代の当たり前“として受け入れる(人々の世界観の変更を迫るもの)
個人的には、“従来型“の違和感を減らそうとする①の方向性がしばらくは残るが、じきに、“従来型“の”違和感を乗り越えようとする②が広がっていくのではないかと思っている。②が一般化したとき、“従来型“の諸学問(哲学、倫理学、美学、心理学、社会学、等々)は大きな前提の変更を迫られるような予感がしている。
その世界観は、つまり、「自分だけの孤独なユートピア」なのかもしれない。「自分だけの孤独なユートピア」を実現することは、果たして人類の夢なのか。自分の見ている世界と、愛する人の見ている世界と、他人の見ている世界は、すべて違う。いま各人のスマホ上に実現しているこうした世界観が、知覚される世界全体に拡張される。
世界は意図を持って他者にシェアされることで初めて現象するものに変わる。つまり、“手付かずの一つの自然“としての世界は失われる。“手付かずの一つの自然“としての世界は、実在そのものと同義であったわけだが、いよいよ私たちはその実在を手放そうとしているのかもしれない。「実在にこそ価値がある」という価値観は、あくまで一つの価値観に過ぎないのかもしれない。その価値観をアンラーンした先には、「自分だけのリアリティにこそ価値がある」という価値観が待っている。
概念とテクノロジーは共進化する
テクノロジーは人間の持つ様々な概念の意味を更新する力を持つ。その意味で、哲学はテクノロジーを無視して単独に行えるものではもはやない。では、空間コンピューティング技術は人間の持ついかなる概念を、どのように更新するのか。
おそらくその頂点に位置するのが「現実(あるいは実在(Reality))」という概念だろう。WIREDのVol.53(空間コンピューティング特集)の中で、幾人かの識者は、“プライベートでパーソナライズされたリアリティを獲得できることが空間コンピューティングの真骨頂である“、というように語っているが、本当にそうなのか。テクノロジーは概念の有り様に影響を及ぼすが、もちろんその逆も然りで、概念もまたテクノロジーの有り様に影響を及ぼす。
空間コンピューティング技術をプライベートでパーソナライズされたリアリティを実現するために使うという発想は、2024年現在の人間の思考のバイアス下にあるのではないか。雑に言えば、1968年にイヴァン・サザランドがVRヘッドセット「The Sword of Damocles」を開発した時代に、仮にApple Vision Proが生まれ落ちたなら、全く異なる思想が重ねられたのではないか。
そう考えるならば、空間コンピューティング技術を解釈するフレームは、社会や文化に相対的であると言えるのであるから、「私たちはいかなる社会を目指すのか」という問いと共進化する仕方でしか空間コンピューティング技術の意味を考えることはできなくなる。
ポストモダン思想が骨の髄まで染み込みつつある現代において、「私が他ならない私であり続けること」、つまり、「プライベートでパーソナライズされたリアリティが厳重に保護されていること」は現代人の生存条件なのかもしれない。そんな人間にとって、空間コンピューティング技術は一つの福音になるのだろう。それが識者たちの見解なのだと理解している。
しかし、ポストモダンは最良の社会思想であるのか。
その問いが成り立つなら、空間コンピューティング技術に託される意味に対する問い直しもまた成り立つはずだ。
ポストモダンと資本主義を超えて、別の仕方で
ただ、惰性的に考えれば、空間コンピューティング技術は、人間の知覚できる空間全体を商業空間にするという可能性において、資本主義と手を組み、人間の知覚すべてをGestell(資源として駆り立てる)する方向に向かわざるを得ないのだろうと考えられる。ブランドのような資本主義のある意味での権化のような存在が空間コンピューティングに期待を寄せるのはむべなるかなという感覚すらある。ここで考えたいことは、空間コンピューティングとは本当にそれだけのものなのか、ということである。
別の仕方で考えることは本当にできないのか。ポストモダンや資本主義という社会の基盤思想が激しく揺らいでいるにもかかわらず、無理やりその上に空間コンピューティングを乗せようとしていないか。うまく乗せられるかもしれないが、それでは結局社会は何も変わらない。それどころか、悪化のスピードは加速する。
1960年代に萌芽が出て、2024年にApple Vision Proという形で一つの結実を見た技術を、私たちはどう活かす/生かすことができるのか。もし空間コンピューティングが100年後も存在するとしたら、きっと100年後の人類は今とは大きく異なった常識でその技術に光を当て、今とは異なる使い方を平気でしていることだろう。その使い方を、社会や人間の在り方を先読みして、いま、考えることができるか。つまりこれは、社会変革の試みに他ならない。
現実とは何かを考える、現実とは別の仕方でー。
最後に
ここまで読んでくださった方には心から感謝したい。ただ問い散らかすだけの文章をお読みいただくのは辛かったと想像する。
私は、空間コンピューティングは「自分だけの孤独なユートピア」を作るだけの技術ではないと考えている。ポストモダン思想と資本主義が手を結んで空間コンピューティング技術を抱え込んだならば、ポストモダン思想と資本主義が強化されるためにその技術が使われることは明らかである。
いま、空間コンピューティングに必要なのは哲学である。そう断言する。
MESONについてもっと知りたい方はぜひ以下の公式ホームページを御覧ください。