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とんねるずは「朽ちることなき華」である。

昨年末、29年ぶりに武道館で開催された〈とんねるず THE LIVE〉。

配信が始まってから1ヶ月近くが経ち、ほぼ毎日ライブを観ている。

どちらかというと「野猿」や「矢島美容室」の曲に懐かしさを感じる世代で、とんねるずのオリジナル曲はほとんど知らない。それでも、LIVEをきっかけに過去の曲を聴くようになった。

時代背景を踏まえて改めて聴くと、さらに面白い。

「あ、これアルフィーっぽい」、「これアリスっぽい」、「この表現、今だったら絶対アウトだな(例えば『一気』とか『やぶさかでない』の間奏のセリフ)」という発見があって楽しい。

入眠のお供や作業用BGMとして何気なく触れていたライブ。
その中で、ふと「老いとは何だろう?」と考えた。特に、石橋貴明さん(貴さん)の姿を観ながら。

テレビで見せてきた“暴君”や“ヒール”、そして“オラオラ”的なキャラクターとは全く違う、1人の男としての姿があり、まるでドキュメンタリーのように感じた。歳を重ねることだけでなく、それ以上に、何か深いものを感じた。

特に印象的だったのは、ライブが進むにつれて「若返っているように見えた」ことだ。


一曲目:「情けねぇ」で見えた覚悟の表情

2人が登場し、貴さんが歌い出した瞬間、その顔は硬くて怖い印象を受けた。どこか緊張感を感じる表情だったが、ネガティブな感情とは違い、「覚悟」を感じさせるものだった。

自らの役割、観客への責任、すべてを背負う覚悟。その表情は、まさにテレビで見てきた石橋貴明だった。

ライブの中で、観客を煽るような動きや表情も見せる。これぞ石橋貴明! 長年培ってきたパブリックなイメージが、そのままステージに現れている瞬間だった。


「ただいま」テレビでは観れない顔

観客に挨拶する時の貴さんの顔は、本当に嬉しそうで、その笑顔に驚かされた。

初めて見るその表情には、どこか素の部分が垣間見えたような気がした。お子さんやお孫さんに見せる顔って、これくらい柔らかいんじゃないかと思った。

心から楽しんでいるような、自然な笑顔だった。
ワンフーの人との、つながりを大切にしていることが伝わってきた。


自然体な「嵐のマッチョマン」と「炎のエスカルゴ」

往年のダンスナンバーゾーン。振り付けは揃っていないし、リズムも少しズレている。歌い出しを間違えて笑ってしまう場面もあった。でもそこに哀しみはなく、むしろ年齢相応の自分たちを受け入れ、楽しんでいるように感じられた。

60歳を超えて歌って踊るだけで十分すごい。カラオケで一曲歌うだけでも息が上がる…そんな中、ノリさんの美しく軽やかなターンに感嘆の意味で笑ってしまった。そこには圧倒的な「今」を生きる力強さと、肩の力が抜けた自然体の魅力が溢れていた。


不器用で無骨過ぎるメッセージの届け方

ライブの最後、貴さんが観客にメッセージを送る場面が印象的だった。真面目な話をしようとする貴さん。そこにグイグイとチャチャを入れてくるノリさん。でも貴さんはあえてそれをスルーして、真っ直ぐ前を向いて想いを伝えようとしていた。

無駄な装飾をせず、ただ真摯にメッセージを届けるという強い意志が感じられた。何周も回ってカッコつけているように見えるかもしれないけれど、実際には、カッコつけずに本当に心から伝えるってこういうことだよなと思わせられた。

どんなに無骨に見えても、そのシンプルで真っ直ぐな表現こそが、逆に深い魅力を放っていた。


老いとは何か?

子どもの頃、老いとは60歳の還暦を迎え、赤いチャンチャンコを着てヨボヨボと歩く姿だと思っていた。年齢を重ねることで、肉体と精神が衰えるものだと考えていた。

しかし、ライブを観ると華やかで若々しかった。
「老い」が一体何なのかを改めて考えさせられた。

かつては、老いを年齢だけでなく〈仕事ができるかどうか〉という基準で判断していたらしい。その判断には、肉体的な力だけでなく、精神的な部分も含まれていたに違いない。

「数字」としての年齢ではなく、内面を含めた「今」の状態を見ることこそが大事なんだと気付かされた。


スポーツ王で見た敬意とフラット感

お正月に観た「スポーツ王」でも、同じようなことを感じた。若いアスリートたちが「貴さーん!」「ノリさーん!」と笑顔で駆け寄り応援するシーンが印象的だった。その姿には、とんねるずからアスリートたちへの深い敬意があり、逆にアスリートたちからとんねるずへの信頼があってこその、自然で温かいコミュニケーションが生まれていた。

年齢や肩書きにとらわれることなく、誰とでも同じ目線で接し、共に汗をかき、笑い合う。

そんな姿勢から「若さ」を感じ、爽やかな笑いに元気をもらった。


「枯れて、なお咲く」という深み

ライブを観て思ったのは、「健やかに枯れる」ということについてだった。

「枯れる」とは、単に力を失うことではなく、長い時間をかけて磨かれた経験や知恵が凝縮された過程だと思う。樹木が季節を経て葉を落とし、土と一体となって栄養を蓄えるように、表面では見えない変化が内面に深みを与えていく。

「枯れることは決してネガティブなものではなく、その都度生まれる新しい可能性を開く始まりなんじゃないか」
そう思うようになった。

死んだのか?生きているのか?

「とんねるずは死にました」

貴さんのこの言葉は、当時衝撃的だった。『とんねるずのみなさんのおかげでした』の終了後、彼が「死んだ」と宣言したことは、客観的に自分を見つめつつ、新しいスタートに向かう覚悟だったのかもしれない。

貴さんのことばかりを書いてしまったけど、やっぱりノリさんの存在も唯一無二。
ノリさんは貴さんとは対照的に、自由度を増していったように思う。アーティストとのコラボ、YouTubeへの登場など、常に変化し続ける姿は、大御所でありながら身軽で自由に生きている。年齢を重ねても、その自由さがノリさんの魅力。

貴さんが「死にました」と宣言した後、同じ番組で「死んじゃいましたんで、生き返ろうと思ってます!」と飄々と言ってのけたのも“らしさ”を感じた。

とんねるずは、死んだのか?生きているのか?
ぜひライブを観て感じてほしい。


とんねるずは、「朽ちることのない華」である。

「枯れる」は、表面的な変化のこと。
見た目の若さや活力は失われても、彼らの存在感や影響力は依然として衰えることではない。

「朽ちる」ことなく、その本質的な魅力や存在感が「華」となって輝き続けている。

枯れることは終わりではなく、新たな深みを生み出し、朽ちることなく華やかさを持ち続ける彼らの姿は、まさに成熟した美しさを象徴している。

「100mを9秒台で走るのは無理かもしれないけど、最初の30mくらいなら、3秒くらいで走れるかもしれない」と、貴さんが、(確か)情熱大陸で語っていた。

ならば、その距離が“10m“でも、“5m“でも、数センチになってもその姿を観ていたいと思った。

ぜひ東京だけではなく、全国でもその「朽ちることのない華」の姿を観てみたい。
そして取り急ぎ、FODでの配信が延長されることを願ってます。


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前田 彰
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