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チャイコフスキー「悲愴」第四楽章 考察:「ありがとう」と「さようなら」の終楽章

 どうも、作曲家の井上です。今回は前回に続いて
悲愴の第四楽章について考察、というか妄想をして
いきたいと思います。
 今回は「死」という概念を深く掘り下げる内容と
なっています。そういった内容が苦手な方は、ご注
意ください。


「囲む人々」の音楽

 第四楽章は、主人公を囲む人々が主人公に語り
かける音楽だと考えています。第二楽章、第三楽章
という長い夢(回想)から目覚めた彼に、人々は感謝
を、そして別れを告げにきます。
詳しく見ていくこととしましょう。

「なぜ」ステレオ効果が必要なのか

第四楽章冒頭の弦楽器

 冒頭のロ短調の下降音階によって、終楽章は幕を
開けますが、この部分のトップノートが1音ごとに
2ndVn.と1stVn.で入れ替わります。あみだくじの
ように絡み合うこのオーケストレーションは、現代
主流の弦楽器の配置だと大した効果はありません
が、当時の主流であった「対向配置(2ndVn.が1stVn.
の対向にくる配置)」で演奏すると、左右から交互に
旋律が聴こえるステレオ効果を生み出します。
 さて、ここまでの説明はどこにでも書いてあり
ます。今回はさらに深堀りします。
ではなぜステレオ効果をチャイコフスキーは求めた
のか
。僕の考えは、「その旋律は直接歌うには
あまりにも残酷だから」というものです。

「死」という言葉

 様々な場面で、「死ぬ」という直接的な表現は
避けられますことが多いです。日本語にも「死」を
間接的に表現する言葉は沢山あるかと思います。
それくらいこの言葉には重みと恐怖があります。
 音楽においてもそれは同じだと思います。この
主題はただのロ短調の音階であり、ほとんどが順次
進行です。あまりにも単純であり、直接的であり、
主人公にとって耐え難いものでしょう。
僕の第一楽章の考察を読んでくださった方なら
わかると思います。彼はロ短調から逃走し、そして
逃れられない運命にあります。
 そんな彼に、しかしその時を宣告しなければ
なりません。彼を囲む人々が「時間が来ました」と
伝えなければいけないのです。
 だから、旋律を「散らす」のです。少しでも曖昧
に、しかし確実に伝えるために。実際、Vn.の楽譜
だけを見ると、旋律を感じることはあまり出来ませ
ん。言葉を濁しているとも捉えられるでしょう。
しかしオケ全体で聴くと、それは確かな余命宣告
なのです。

開放弦の呻き声

24m.~

 何度か主題が繰り返されたあと、1stVn.は地の底
への下降の末にヴァイオリンの最低音であるG音へ
至ります(30m.)。この音は指で抑えない開放弦であるため、倍音を多く含んだ豊かな音がなります。
 しかしそれ以上に、このG音は苦痛にまみれた音に
聴こえるのです。これ以上下がることは出来ない、
そんな声で呻くように泣くのです。
 ロ短調において、G音は属音であるFis音に向かう
エネルギーを持った音です。しかしヴァイオリンに
Fisは出せません。その苦しみは、まさに主人公の声
そのものでしょう。

ファゴットの「回音音型」

33m.~

 ヴァイオリンによるG音の呻き声と共に、
ファゴットも地の底へと落ちていきます。そして
最低音に近いC音へ到達した後、その超低音域で
「回音音型」が現れます(34m.)。
 回音音型は、「死」という概念と関わりが深い
音型です。ワーグナーのトリスタンとイゾルデの
「愛の死」やマーラーの交響曲第9番終楽章など。
とりわけマーラーの第9番は、完成された最後の
交響曲の終楽章であること、人生最期の時を
思わせる曲想であることなど、悲愴と近い属性を
持っています。
 回音音型は、前の音(C音)をターンするように飾り
つける形になっています。これはピアノで弾いて
みるとわかりやすいと思います。テンポを上げて
弾けばハイドンやモーツァルト御用達のターンに
なるでしょう。
 その効果は、「念押し」のようなものだと思い
ます。悲愴のファゴットの場合、この回音音型が
ないと少し間延びしてしまいます。低音ののばし
だけで間を持たせるのは中々難しい。そこでもう
一押し、感情を注ぎ込むためにこの音型は効果的
です。ましてはこの音域ですから、うごめくよう
な、苦しみに満ちた黒い音が響き渡ります。

「ありがとう」の音楽

37m.~

 死の呼び声に苦しむ主人公に、囲む人々は
やさしい声で愛と感謝を伝えます(39m.~)。
「今までありがとう」と。その声は次第に集まって
いき、やがて包み込まれていきます。せめてその声
が、彼にとって救いになりますように。

送り出すアウフタクト

 拍頭と同音のアウフタクトに、押し出すような
クレッシェンドとデクレッシェンド。やさしく背中
を押すようなアウフタクトです。しかし、それが
前向きな意味ではないことは言わずもがな。共に
進むのではなく、送り出すのです。

愛の声と、死の声

82m.~弦楽器

 幸せの頂点を迎え音楽が小休止した後、再び
弦楽器によって愛の声が現れます。しかしその中に
は、死の声が内包されているのです。
1stVn.とVc.の愛の声の中にある、2ndVn.とVa.(2回
目はVc.)の声。そう、第一楽章第1主題の音型です。
 共存する2つの声は、そこに深みと混沌を生み
ます。こればかりは言葉ではうまく表現できそうに
ありません。
ただ伝わってくるのは、より「その時」が近づいて
いるということです。

直接的な言葉

90m.~

 再び冒頭の死の宣告が戻ってきます。そして、
ただ再現するだけではなく、より直接的な表現と
なります。
この部分では冒頭のステレオ効果はなく、1stVn.が
ロ短調音階を完璧に歌い上げます(90m.~)。
暗喩や濁しのない「死になさい」という言葉です。

狂気という芸術

124m.~

 ホルンの首を絞めるような、あるいは何かが軋む
ようなゲシュトップの中、激しいアウフタクトと
ともに主題を連呼します。もはやそれは狂気
あり、死を目前にした人間の醜さでもあります。
 数年前から死刑を宣告されている死刑囚も、いざ
死刑台の上に立つとほとんどが正気を保っては
居られない、という話を聞いたことがあります。
滝のような汗をかき、全身を痙攣させ、中には奇声
を上げ暴れ回る者もいると。
このクライマックスは、そういった狂気の中にいる
と思います。あまりにも乱暴で、グロテスクな音楽
です。しかしなぜでしょう、美しくもあります。
まるで生贄となる踊り子が死の淵で踊るダンスの
ように、力強く優美に聴こえます。

 この曲は4分の3拍子です。とてもワルツを踊れ
るような曲ではないのですが、このクライマックス
の美しさは、この拍子でしか表せない世界です。
そして狂気とは、一種の人間の表現の限界です。
気が狂うほどに溢れ出るものがあるということ
です。その狂気の中に、ひとつの芸術が生まれる
ことでしょう。

一滴のしずく。弔いの歌。

135m.~

 この曲には明確に主人公が息絶える瞬間があると
僕は考えています。それがタムタム(銅鑼)の暗い一滴
のしずくのような音です(137m.~)。
 タムタムや鐘といった楽器の音は、異世界と
繋がるための音だと僕は考えています。死生観は
人それぞれですので具体的には語りませんが、死後
の世界へと繋ぐための役割をタムタムは担っている
と思います。
 そして弔いの歌が、神聖なるトロンボーンと
チューバによって歌われます。どうか苦しみのない
ように、残された人々の祈りの歌です。

「さようなら」の音楽

147m.~

 もう「生きたい」と望む主人公はこの世には
いません。生前にニ長調で「ありがとう」と歌った
旋律は、ロ短調となり「さようなら」を歌う旋律へ
と変わります。ヴァイオリンの弱音器とSulGの
指示。そこから生み出される音色は、哀しみに
満ちた暖かい声です。

最低音まで手を差し伸べる

153m.~

 ゆっくりと下降してゆく告別の歌は、やがて
ヴァイオリンの最低音G音に迫ります(154m.)。旋律
の到達音はFis音であり、音域的にはヴィオラや
チェロにフレーズを書いた方が妥当です。
 しかしチャイコフスキーはヴァイオリンに歌わせ
ました。その歌は最後まで歌われることはありませ
ん。ヴァイオリンにFis音は出せませんから。
それでも、最低音のG音までその旋律に付き添い、
手を差し伸べるのです。
手が届く限り、彼を冥界へ
送り届けるように。
 筆者はヴァイオリン奏者ですが、このG音を弾き
終わったあと、どうしても悲しみが残るのです。
Fis音を弾けない悲しみと、もう楽譜には休符という
沈黙しかない悲しみ。どこか後悔にも近いような
この感覚は、他の曲では味わうことの出来ないもの
です。

止まりゆく音楽

165m.~

 チェロの2回の嘆きのあと、コントラバスのリズム
とピッチカートが少しずつ止まっていきます。特に
このピッチカートは、活力を失ったスーパーボール
のように、間隔を狭めつつ消えていきます。
 まるで真っ暗闇の中で、最後の蝋燭の火が消えて
いくようです。完全に音の途切れたタイミング
など、目をつぶっていればホールでは分からない
でしょう。そしていつか訪れている無音の世界に、人々は死を、そして生を感じるのです。




…と、いうことで終わりです。ここまで読んで下さり
ありがとうございます。また語りたい音楽があれば
こうやって文章にしようと思います。
ではまたっ


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