界のカケラ 〜第二部全文〜
私には生野さんがあの声を聞いたことは確かだと思っている。声に返事をしているのが何よりの証拠だからだ。だがそれを聞くような野暮なことはしたくないと思った。
世の中は不思議なことだらけだ。私は救命医として働いているが、目も当てられないほどひどい怪我を負った人が息を吹き返して生き返ることがあれば、命に関わらない怪我や病気でも死んでしまう人がいる。人の命とは何なのだろうか。生と死を分けるものは何なのか。
生きようとする意思があるかないかなのか、死を受け入れることが死ぬことの前提条件なのか。
そしてもっとも疑問なのが、良い人ばかりが先を急いで死んでいくということだ。若くして、人によって年齢が変わってしまうが、そういう言い方をされる人ほど早死にする傾向が高いと私は思っている。あくまで私の主観だから違うかもしれないし、そうかもしれない。それは私でもわからないし、医者でもわからないし、生きている人間にはわかることはないだろう。
多くの疑問が頭を駆け巡る中、私たちが座っているベンチの隣の二人がけのベンチに男の人が座っていたことに気づいた。
彼はいつから座っていたのだろう。髪が乱れているから、わりかし長い時間座っていたのかもしれない。もともと髪をセットしていなかったことも考えられるが、彼もまた泣いていた。
私はどこかで見た顔だと思い、頭が痛くならないようにゆっくりと最近の出来事から入院前のことまでを思い出そうとした。
「私が入院してからは一度も会ったことがないなー」
「ということは入院前に会ったのかなー」
「救急搬送ではなくて、通常入院で入院した方なのかなー」
私は色々思い出しては、記憶と照らし合わせていった。
「うーん。やはり思い出せない。こうなったら失礼を覚悟で話を聞いてみるか」
私はいつからこんなお節介になったのだろう。しかも失礼極まりない行動だ。ただ私は生野さんの話を伺ってきて、少し人に対して積極的になっている状態だった。ちょうど、仕事などで褒められたときやいいことがあったときに、その調子で次の仕事やできる私風に同僚や後輩に接するように調子に乗っている感じだ。病院でそれをやる人はほぼいないと言っていいが、なぜか私はその男の人に興味が湧きすぎてしまっていた。
もはやどこにでもいる近所のおばさまのお節介である。関西でいえば飴ちゃんをくれる人だ。しかし私はまだ28歳でアラサーだけども、おばさんという年齢ではない。そう言い聞かせて私は勇気を出す必要もなく、自然と男の人に話しかけた。
「あの・・・」
私が話しかけようとしたタイミングで男の人は私の方を向いてきた。私は一瞬、ギョッとしたが、逆に気づいてもらえてよかった気がする。
「あ、すみません。なぜ泣かれているのかと思って・・・ もしよろしければお話を聞かせていただけますか?」
「すみません。大の大人の男がベンチに一人座って泣いているなんて変ですよね」
男の人は声に覇気がなく、今にも死にたがっているような感じで答えた。
「いえいえ。そんなことはありません。人にはそれぞれ事情がありますから」
普通こんな時は声のトーンを落としたりするのだろうが、私は普段以上に声のトーンをあげて答えてしまった。さっきの不思議な体験をしてしまった影響なのだろうか。少し自分が恥ずかしく、申し訳ない気持ちになった。
想定外の反応であっけに取られていたのか、もともとそういう顔立ちなのか、特に表情を変えずに言葉が返ってきた。
「盗み聞きをするつもりはなかったのですが、生野さんと四条さんの話を聞いていまして。途中悪いと思い、場所を変えようとしたのですが、話の展開に動けずにいまの今まで座って聞きこんでしまっていました」
「そうだったのですか。悪いと思いつつも話を聞いてしまうときってありますよね。全然お気になさらずに」
「そう言っていただけると罪悪感が少しなくなります。
あ、遅れましたが、私は市ヶ谷 徹と申します」
「はじめまして、市ヶ谷さん。
私はこの病院で救命医師として勤務しております四条 薫と申します」
「救命医師でしたか。でしたらお世話になりました」
「救急で運ばれてきたのですね。大きな外傷もないですし、内臓系か消化器系ですね」
「その通りです。生きていくのが嫌になって、睡眠薬を大量に飲みました」
「胃洗浄は辛かったでしょう・・・」
「はい。まだ胸焼けっぽい感じが続いていて、ご飯を食べるときものどの辺りがまだ痛くなります」
「直接胃までチューブを入れて炭やら色々なもので薬剤を吸着させて吐き出させますからね。私はそれを見ているだけでいつも胃がムカムカしてましたよ」
「あんなに苦しいものだとは思いませんでした。意識が朦朧としていても吐き出している意識は残っていましたし」
「いつ頃運ばれたのですか?」
「三日前です。今は容体観察と精神状態を安定させるために入院中です。」
「通りで私が知らないはずです。私は十日前から入院しているので、その頃だったら覚えているはずでしたから。主治医の意見もありますが、今話している分には少し落ち着いてきているようですね」
「そうですね。少しは・・・」
声のトーンが少し落ちたのが私には引っかかった。
私はこれ以上、話を聞くかどうか迷っていた。
人それぞれ事情があるし、睡眠薬を大量に飲んだことから明らかに自殺しようとしていたはず。それに精神的ケアは病院が精神保健福祉士を依頼しているだろうし、すでに面会していることだろう。変に私が介入してしまえば、その人のケア方法が無駄になるばかりか受け付けなくなることだってある。それくらい精神ケアが必要な患者は全てのことに繊細になっているのだ。
救命医として様々なケースの患者に触れることが多いことから私も精神科の勉強は積んでいる。しかし、専門でなければわからないことなど山ほどある。だから私はこれ以上深入りすることはやめようと思った。
私は少し空いた気まずい間を埋めるため、会話を終えるために話しかけようとした。
「そ・・」
「ダメだよ」
「え?・・・なんでゆいちゃんが?」
私は市ヶ谷さんとはおそらく何も関係のないゆいちゃんが声をかけてくるとは思いもせず、表情は変えなかったが内心混乱して慌てふためいていた。
「ダメだよ。話をしないと。
あの男の人は、かおるちゃんが助けないといけないんだよ」
「いや、いけないって・・・
あの人は私と今日初めて会った人だよ?受け持った患者さんならともかく、なんの予備知識もないのに変なことを言ってしまったら、あの人だけでなく、ケアする人やご家族、その周りの人たちに迷惑をかけてしまうんだよ?」
「大丈夫だよ。そんなことにはならないから」
「なんで大丈夫だってわかるの?」
「わかるから。でもちょっとだけ時間が必要だから、できるだけ話を長く続けていてね」
「まあ、ゆいちゃんがそう言うなら・・・」
私はいつの間にかゆいちゃんのことを信頼していることに気づいた。
人というのは不思議なものだ。
最初は怪しい存在であったとしても、接触する回数が増えたり、言っていることが正しかったり、当たっていたり、自分が得をすると、その存在を認めるか、信じてしまう。人が集団で生活し、数千年生存できた要因はこういう部分が備わっていたからであろう。そこに騙されるという要因も含まれているのが玉にキズだが・・・
何はともあれ、ゆいちゃんを信じて、市ヶ谷さんとの会話を続けようと思った。
「市ヶ谷さん、もし良かったら・・・
その・・・
なぜ睡眠薬を飲んだかお話を聞かせていただけませんか?」
「わかりました」
市ヶ谷さんはそう言いつつも少し苦しそうな顔をして、膝に顔が付くくらいまで背中を丸めて話し始めた。
「生きているのが嫌になったんです」
まあ、そう睡眠薬を大量に飲む時点でそうだろう。どうしてそうなるに至ったのかを私は知りたいのだ。私は理由を知りたい欲求に急かされてしまい人として、医者としてあるまじき思考だったことを瞬時に反省した。そんなことを知る由もなく市ヶ谷さんは話を続けていた。
「私はなぜ生きていなければいけないのかと思うのです。
生きる目的が何か一つでもあれば生きていなければいけないです。それを奪おうとは思いません。でも生きる目的がないのに生きていなければ、生きているのは、酷だと思うのです」
少しずつ市ヶ谷さんの感情が言葉に混じってくる中、矢継ぎ早に言葉を発していく。
「生きているけど死んでいるのと同じような人がたくさんいるのに、なぜか彼ら、彼女らは生きる目的を探さない!
どうして生きている人を殺す!
どうして生きている人を平気で傷つける!
なぜ人は動物を殺すのに、自分は殺されたくないと思う!
命ってなんですか!
息をして、ご飯を食べて、寝ているのが生きているっていうことなんですか!」
次第にヒートアップして興奮状態になっている市ヶ谷さんをただ見ていることしかできなかった。
「はぁ・・・はぁ・・・」
まだ落ち着きを取り戻していないので、私はまだ様子を伺っていた。
隣にいる生野さんも市ヶ谷さんの大きな声に反応し、市ヶ谷さんを落ち着かせるように、いつもの優しい口調で話しかけた。
「市ヶ谷さんと申しましたね。私は生野と申します」
「生野さん・・・申し訳ありません。つい興奮してしまい大きな声を出してしまいました」
「いいんですよ。私も同じようなことを経験しましたから。私は時代が時代でしたから自分が生き残るためとはいえ、人を殺した立場にあります。それまで私は今まで生きるということに真面目に向き合ってこなかった。ですが、戦地で人を殺し、いつ殺されるかわからない状況で、ようやく生きる目的を見つけることができました」
「それは何ですか?」
私と市ヶ谷さんはほぼ同時に聞き返した。
「私の場合は、赤橋が守ってくれたこの命を大事にし、人の役に立つことをする。
とりわけ自分が大切にしたいもの、赤橋が大切にしていたものは何に変えても大切にすることを生きる目的にすることでした。
私には自分の命の他に、赤橋の命も背負っている。だから私は赤橋に恥じない生き方をしようと心がけた。
まあ、これは時代背景があるからそう思うようになったのだと思っている。今の時代だったら私は今の私の生きる目的を持てるかはわからない。むしろ持てないと思うことの方が大きい。それくらい今の世の中は生と死の境目を意識するような環境ではなくなっているからだ」
「確かにそうですね。私はたまたま医者として生死の境目を身近に感じていますが、あくまでこれは他人のもの。自分の生死の境目には立ったことがありません」
「逆にいえば、それが生きている証拠でもあるのだよ。ただな、多くの人はそれが生きていることの証拠だというのをわかっていない。なぜ生きている実感がないのかというと私は死を意識したことがないからだと思っているよ。だからそれを意識するために動物を殺したり人を殺したりする衝動に駆られる。ではなぜ自分を殺さないかというと生きている証拠に出会いたくないからなんだよ」
「それはどういうことなのですか?」
市ヶ谷さんは少し戸惑い気味に生野さんに聞いた。
「彼ら、彼女らは生に対して執着をしているようでしていない。要は、生も死も曖昧なままなのだ。
だから他の生き物を使って生に対しての執着を確かめているに過ぎない。決して死を見たい、感じたいという感情だけではないものがあるのだと思うよ」
私は生野さんの口から発せられる言葉が、あの日のことからずっと考えている疑問の答えに少し近づいているように感じた。
「だが、そのために人に危害を与えたり、命を奪うことはしていけないがね。そういう感情は中毒のように頭の中に残る。そしてどんどん行為がエスカレートしていき、頻度も多くなる。快楽的になって行くのだよ。そして何も感じなくなる。私も経験したことだからはっきり言える。連続殺人鬼がいい例だ。だから制御する必要性があるし、静止させる人間が必要なのだ。放っておくと絶対に止まらないからな」
「戦地でそれを経験している生野さんにとっては赤橋さんですか?」
「そうだよ、四条さん。だから心が壊れずに済んだ。だが昔も今も戦争でも同じような境遇をした人たちはいるが、心に病を抱えてしまった人は大勢いる。その違いはよくわからない。戦争の仕方や武器が変わってしまったことも要因の一つだと思っている」
「人間は個体だと肉体的にも精神的にも弱い部分が多いですからね」
「ああ、だから集団でいることを昔から続けているし、これからもそうだろう。それゆえに集団の恐ろしさも続いていくだろうよ。攻撃的な例だが集団になれば何でもできるという勘違いから大きなことをやろうとする。そして歯止めもそれに比例して効かなくなる。歯止めをするにはそれ以上のことをしなければいけなくなる。反対にパニックになることもあるな。これも同じように歯止めが聞かなくなり、周りに伝染する。そうなると周りが見えなくなり攻撃的になったり、自分の殻に閉じこもってしまう」
「人は攻撃的にも悲観的にもなりうるということですね」
「ああ、多くの人は正常な状態で生きているという定義をするが、実際にはこういった状態も生きているということに目を向けようとしない。むしろ避けたがる。
病気もそうだ。病気になった原因は生きている状態を自覚しないで好きなものだけを食べたり、寝不足だったり、本来の人間のリズムと食生活を忘れてしまったから起きてしまう。
さらに言えば、自分が本当に心から望む行動をしていないと病気になりやすい。これは生きるという目的を思い出させるためのものだと余命宣告されて、闘病のための入院している間、色々な人と話してわかるようになった」
「普段の生活が病気になりやすいというのは理解できます。でも心から望む行動をとっていないと病気になりやすいとはどういうことですか?」
私は医師として興味が湧いていた。普段、容態観察で担当した患者さんに話を聞くことがあるが、私生活までには踏み込んでいない。全員が全員話すわけではないし、話さない人の方が多い。だから上辺だけというと語弊があるが、表面的な質問などに限定しがちだ。
もしかしたら生野さんの話を聞くことで、病気を根本的に捉えることができるかもしれない。私は少し期待しながら聞くことにした。
「私は心や感情というものが体に与える影響は大きいと思っているのだよ。だが、ほとんどの人はそれを過小評価している。自分たちが自覚しているのにもかかわらずな」
おそらく生野さんは心と体の関係を学問として学んだことはないだろう。しかし経験からそうであろうことは分かっているのだ。経験から発せられる言葉には重みがあり、たとえ相反する意見であってもそう思い込ませてしまう。それほど経験からの言葉は重厚感があるのだ。本を読んだり、人の話を聞きかじった程度の知識を話されても心に響かないのはそのためだ。
「自覚していてもですか?」
久しぶりに市ヶ谷さんが口を開いた気がする。もともと積極的な方ではないが、これから生野さんが話すことは市ヶ谷さんの今までの行動を否定してしまうかもしれないのに随分と冷静だった。
「そうだ。私がそうだったのだよ。話を聞いていたかもしれないが、私はもともと農家の出だ。ほぼ毎日農作業でいくら食べていくためとはいえ次第に飽きがきて、仕事が嫌になってくる。農作業をしていても豊かにはならず、貧しくなるばかりだった。
そうなるにつれて心も次第に荒んでくる。仕事も適当になってくる。適当になれば作物が育たない。結果的に自分を苦しめることに繋がっていく」
確かにそうだ。私も生死のかかる緊張感の中でも、同じ症例が続いたりすると起こりやすい。それは一瞬だが、その一瞬でも命取りになる場合もあるので気をつけている。
「しかしそれだけではないのだよ。そういうことが続いていくとある変化が起きる」
「ある変化?」
私と市ヶ谷さんは変化という言葉に勢い良く反応した。
「体の不調だよ。誰にでも必ず起きる。まず、体のどこかが痛くなってくる。仕事の関係で痛む場所は違うが反応が起きてくる。まあ、ここで多くの人は病院や薬局へ行き、湿布やモーラステープなどで治療する。しばらく治療すると治ってくる。が、これは大きな間違いだ。治るがまた再発する。これが何度も続いていく。これがただの肉体労働で起きているならば大きな問題にはなりにくい。問題は心が原因で痛くなっていることに気がつかないことが問題なのだ」
確かに聞いたことがある。心の状態で病むのは精神だけではなくて、肉体にも及ぶことがあるのだ。胃潰瘍や過敏性腸症候群などがいい例だ。うつ病やガンになるリスクも高くなる。治療をしても根本的な原因を探って取り除かなければ再発リスクが高くなる。
生野さんは経験からこのことを知っていたのだろうか?病院で会う人たちからそう考えるようになったのだろうか?
話の続きをもっと聞きたくなった。
「私たちが生きていくには仕事をしてお金を稼がなければいけない。だから仕事をすることを目的にしてしまい、自分が何をしたいか、得意分野や好きなことを仕事にしたいということを後回しにしてしまうか、最初から諦めてしまう。最近はそうでもなくなっているらしいが、それでも多くの人はまだそうではない。
割り切ることも必要なのだが、あまりにも自分のことを知らなさすぎて、本当に自分があう仕事を選択していないのだ。
私がここに入院して、たくさんの人と話してきたが、あまりにもそういう人が多いことに驚いたよ」
私は両親が医者だった関係で医者の道を選んだ。そもそも医者になるために得意なことや好きなことはなかったと思う。特に器用だったわけではないし、勉強も得意だったわけではなく、好きでもなかったのに都内の難関の医大に受かってしまった。そして他の学部の試験には落ちてしまうという学生だったから消去法で医者になる道を選んだだけだったからだ。
医者の仕事の素晴らしさは両親を見ていて理解していたから抵抗はなかったが、自分でも医者を選択するとは思わなかった。医療系なら薬剤師や麻酔科医、臨床工学技士など他にも道はあったのに外科を選択し、今は救急救命科で分野にかかわらずオールマイティに医療行為をしている。だから生野さんの言葉に私は自分のことではないかと思い、一瞬ドキッとした。
「この歳になると寂しくて話好きになるのか色々と聞いてしまうのだよ。相手が失礼と感じない程度にだがな。この病院にくる人がその傾向にあるのか、どこもそうなのかは私は知らないが、そういう人は一目でわかるようになったよ」
この発言で私はまたもやドキッとした。動揺しているのがバレなければ良いが・・・どうしても怖いもの見たさ、怖いもの聞きたさとここでは言うべきだろうか。私は自分のことを聞かずにはいられなかった。
「生野さんから見て、私はどうですか?」
「四条さんはよく分からないな。医者として充実しているが、それだけではないような気がするな。さっき久しぶりに会った時は後ろ向きというか気持ちが落ちているような気がしたが、今はそうではないし。仕事が嫌いとか辞めたいとか、合っていないというのは感じないな」
やはりこの人は観察力が鋭い。だが医者があっていないと言われなかったことが何より救いだ。自分のことは自分が一番わかっていると思いがちだが、実際そうでないことは自覚していた。
しかし生野さんの「それだけではないような気がする」という言葉が妙に引っかかっていた。
さっきの言葉が引っかかったままだが、このまま黙っていると変に不安にさせてしまうと思い、正直に返答をしようと思っていたが、最初の言葉がなぜか思うように声が出なかった。
「あ・・ たっ・・・ ています・・・ 私は医者として充実しています。もっと患者さんを救いたいと思っていますが、入院してからは気持ちが落ちていました」
「そうだろうな・・・ いつもの四条さんとは雰囲気が違っていたからな」
「そんなに違って見えましたか?」
「ああ。昔の私のようだったしな。だからそういうのには敏感なのだ。
話が少しそれてしまったが、病気とか怪我というのは本当の自分に戻すための体の反応なのかもしれないということだ。人間は脳が発達していく過程で生き残る方を最優先にしたがる。それは当然のことだが、それを理性で押さえつけて最優先にしたがるということが問題だと思っているよ。
つまり、生きていくのに必要だからという思いが、いつの間にか思い込みに変わり、そうでないといけないように他の考え方と行動を頑なに閉じてしまう。それしかないと思い込んでしまうのだ。他の可能性がたくさんあるというのにな。
だが本能というか、命というか、魂とでもいうのか、本来の自分、これも曖昧なのだが、素の自分を思い出させるために病気というものを自分で生み出して強制的に止めてしまうことがあるのではないかということだ。病気や怪我でなければいつまでも続けてしまうようになってしまっているからな。病気や怪我でなければ、自殺や自殺未遂をしてでも止めてしまうかもしれない。この先も生きるために逆のことをしてしまうように」
生野さんは続けざまに話した。
「生きるというのは本来の命、魂のままに行動していくことなのかもしれないな」
生野さん自身も自戒しているような、声のトーンを徐々に落としていくように呟いたことが、一つの真理なのかもしれない。
市ヶ谷さんはずっと黙ったままだ。
だが、それは生野さんの言葉を頭の中で反芻させているからかもしれない。それがなぜわかるかというと、生野さんの目を見て話を聞いては空を見上げて考え込んでいる節があるからだ。私は市ヶ谷さんが少し前向きに捉えていることが感じ取れた。
人は上を向くときは前向きかポジティブなことを考えることしかできないからだ。逆に下を向くとマイナスな面を引き出してしまい、ネガティブな思考が多くなる。上を向きながらネガティブなことも考えられるが、大抵は深くは考え込めない。よくできた本能だと思う。行動は思考や感情には嘘をつけないのだ。訓練次第ではできるが、無意識からの行動は本人にも気がつかない。
もしそれができてしまうなら、他人からはそれが不自然に見える。そういう人間はどこか冷たく、ロボットのようであり、死んだ魚の目をしていることが多い。まあ、私はそういう人を見たことがないから、似たような人を想像してしまうが。
市ヶ谷さんは今までどのような人生を送ってきたのだろう。
コミュニケーションはしっかりとれているから、生まれつきこのような性格や人格であったわけではなさそうだ。彼の考え方や性格を変えてしまうような出来事があったはずだ。私はそれを引き出して彼の助けになりたいと思っていた。
助けたいというのは私のエゴだ。彼を助けることで自分を見つめ直したいのだろうか。いや、そうではないと思いたい。
医者として助けたいというのが半分以上を占めてはいるが、彼の抱えている何かが私に必要な答えの一部であるかもしれないことに期待をしていることの方が気持ちが優っている気もする。
それはきっと生野さんのためにもなっているのかもしれない。なぜだか私は直感でそう思ったのだ。
だから私は彼が不機嫌になり、心を閉ざしてしまうかもしれないリスクを覚悟して聞くことにした。
しかし、話を聞くきっかけは何にしたら良いのだろう。唐突に言っても警戒されてしまうだろうし。こういうときにコミュニケーション能力を磨いておくべきだったと後悔するのはいつものことだ。医者としてのコミュニケーション力と人としてのコミュニケーション力は全く別物である。
あれこれ考えてもらちがあかない。この低いコミュニケーションスキルでなんとか聞き出すしかないので、直球勝負で勇気を出して聞こうとしたときに、生野さんが市ヶ谷さんに話しかけた。
「市ヶ谷さん、あなたにとって『生きる』とはどういうこととお考えですか?」
そうだ。シンプルにこの言葉で良かったのだ。深く考えすぎたのだ。最初から彼は生きることとは何かを問いていた。それならそれを聞けばいいだけだった。なぜこんな普通のことが思い浮かばなかったのか。きっと頭を打ったせいということにしておこう。私は市ヶ谷さんの返答に静かに耳を傾ける準備をした。
「私にとっての『生きる』ですか・・・」
「そうです。あなたは『生きる』と『死ぬ』を必死で考え、私たちにもそれを問うてきた。でもあなたにとってのそれがまだ何なのか聞いていなかったので知りたいのだ。人に問うだけではなく、市ヶ谷さん、あなたの考えや思っていることを。それが今のあなたに至るまでずっとそばにあったものだからです」
生野さんの優しくも的確で、人に寄り添う、もっといえば同化してしまいそうな言葉と口調は誰にも真似できない。彼が今までの長い人生で経験した様々なことが土台になって作り上げられたものだ。市ヶ谷さんに語りかけているのに、思いがけず私が答えそうになってしまった。こういう医者がいたら何でも話してしまうだろうと私は思っていた。
「私にとっての『生きる』とは・・・
『生きる』とは・・・
『生きる』とは・・・
何をしても意味がないことをただ淡々とやっていくこと・・・ です。」
予想外の言葉に私たちは戸惑った。
彼の中では全てが意味のないことが前提になってしまっている。生きることが意味がないことだということを意味している。しかしそれで自殺未遂をするというのはなぜだろう。何かに絶望したり、悲観的にならなければ自殺をしようとは思わないだろう。
もっと彼の中でそう思うに至った過去を掘り下げなければいけないと生野さんと私は目を合わせて無言の会話を交わした。
少しの間、沈黙が続いた。この沈黙が起きるのが事前に分かっていたように、さっきまで人が十数人ほどいた中庭には私たち三人以外いないことに気がついた。この機会を逃しては市ヶ谷さんの過去を知るタイミングが来ないことは直感で分かった。なるべく人が来ないうちに核心へとたどり着きたい。急ぎながらも慎重にしなければいけない。ここはやはり生野さんに口火を切ってもらいたかったが、そうはいかないだろうと思い、私は聞き返した。
「『何をしても意味がない』とはどういうことですか?」
「普段、私たちがやっていること全てですよ。寝ること、ご飯を食べること、働くこと、楽しいと思われることなど全て。私はこれら全て興味など湧かない。食べ物はお腹を満たせれば何でもいい。眠ければ寝てしまえばいい。最低限の衣食住ができればそれでいい。それ以上は望まない。楽しいことだってその時間が過ぎれば楽しいなんて思いません。そればかりかそればかり思い出して浸るなど無意味です。つまらないことなんてもっと無意味だからやらなければいい。人と話すのさえ無意味です。その時だけの話なんてもっと無意味です」
私の予想通り。というか誰でも予想がついた返答だった。
彼の意見に同意する部分もあるが、人は先々にとって無意味、無意味ではなくても忘れてしまうようなことでも、その時その時で意味のあることは多い。その一瞬を楽しむことも大事である。それを楽しむ余裕がなければ、人は肉体も精神も健康を保つことはできないだろう。
現に市ヶ谷さんはそれを楽しめていないから、あの行動をとったのだろうと思っている。心の奥底ではそれを望んでいるのかもしれない。だから自分の体を傷つけてまで今までの思考や感情を一時的に止めることを無意識にしたのだと思う。それが死ぬことになってもだ。死んでしまえば思考や感情をリセットできる。肉体は死んでしまうリスクもあるのだが、そうしないと命、魂というものが壊れてしまうのかもしれない。
何にせよ彼のこの言葉の裏にあるものをきちんと理解し、共感した上で彼自身が答えを出さなくては意味がない。人から答えを聞いたところで本人の心が変わることはなく、また同じ行動をしてしまう。もはや正義感やエゴではなく、医者としてでもなく、ただ一人の人間として純粋に救いたいのだ。
その上で彼が生きていく方を選ぶのか、死ぬ方を選ぶのかを決めるしかない。医者としては死ぬほうを選ぶことはつまり自殺することだから避けたいが、一人の人間としてでは止めることはできない。
だから私は迷うことなく彼に正面でぶつからなければならない。心を鬼にしてでも、自分の感情を無にしていくしかない。
「この会話もその時だけだから無意味だと思いますか?」
私は不躾にならないように注意しながら聞いた。
「わかりません。意味がないのか、意味があるのかも。
だから私は迷っているんです。不安なんです!普段なら無意味ということで済んでいたのに今は違う!」
急に声を荒らげ、空気が張り詰めた。しかし、それも一瞬だけで、すぐに落ち着きを取り戻して、元の口調で続けた。
「三人で話しているうちによくわからなくなってしまったんです。私は死にたかったのに助けられ生きてしまった。そしてこの場で生野さんと四条さんの話を聞いて、なぜ私が生きているのかを考えるようになってしまったんです。今まで生きることより死ぬことの方を考えていました。だから意を決して睡眠薬を飲んで痛い思いをしないで楽に死のうとしたんです」
「そんなことを言うもんじゃない」
生野さんの大きな声でも、怒鳴ってもいないが、重厚感があったその一言に、私は背中に汗が流れるのを感じた。
「でも私は死ぬことしか道はなかったんです!
生きる意味がわからなかった!
でも死ぬ意味もわからなかった!
だから私は死ぬことにしたんです!」
あの一言でもひるむことなくすぐに言い返す彼を見て、これが彼の本音だったのだろうと思った。
きっと彼は生きていたいとも死にたいとも思っていなかったのだ。ただ「意味」を見出したかった。自分が生きている意味を彼の周りの世界では見つけられなかった。だから死ぬことの意味を見つけるために自殺をしようとした。だが、助かってしまったことで死ぬ意味を見つけられないまま、生かされてしまった。
生かされてしまった彼は以前と変わらず、生死の意味を考える、見つける世界にさまよい続けていた。そこに私たちがこのベンチで話していたことを偶然聞いてしまうことになり、生きる意味と死ぬ意味の両方を自分の世界の外から投げかけられた。そのことでさらに彼の中で迷いが生まれていったのだ。
彼の元いた世界では私たちの話を聞く機会はなかったのだろうか。いや、そうではない。
例えそうだったとしても、あの年まで聞かないなんて言うのはあまりにも不自然すぎるし無理がある。彼の周りでも一回くらいはあったはずだ。ただ聞くことを拒んでいたのだ。つまり今までの彼の頭の中の世界を肯定するものしか受け入れることはできず、相反するものはシャットアウトしていた。
しかし、自殺は未遂に終わったことで、彼の中で何かが変わっていった。その何かはわからないが、本人が今迷っているのを見ると気づいていないのは明白だ。間違いなく無意識の領域で変化があったのだと思われる。
彼の心の奥底にあるものが徐々に現れようとしていた。
「だがな市ヶ谷さん。あなたが死ぬことでだれかが悲しむことだってあるだろう」
「私にはそんな人はいません。両親ももうこの世にいないですし、親戚付き合いもないですし」
「そうなのか・・・ だがそうだとしても、もしあなたがこの病院に運ばれ、治療の甲斐なく死んでしまったとすれば治療してくれた医者や看護師の方達は悲しんだはずだ。あなたが他人であってもな。そして助けられなかったことを悔やむのだ。
そのことを想像したことはあるかね?」
「自殺をするような人はそこまで思ったりはしませんよ。自分のことしか考えていませんし、事前の身辺整理はやりますが、自殺した後のことなど考えたりしません」
確かにそうだ。死んだ後のことまで考える人はいまい。残された家族や未練があるなら別だが、彼の場合はそうではない。後のことなど考える必要がない。もしあったとしたら踏みとどまるだろう。
しかし生野さんの言うことももっともだ。それに医者や看護師など医療に携わっている人なら感じることだ。あの時の処置はもっと早くできなかったのか、違う方法でやっていた方がよかったのではないかなど助けられた患者さんでも考えることが多い。最適な処置をするために悔いを糧にして命を救うという仕事をしている。
だがその反面、自殺しようとした人を助ける必要があるのかとも思う。本人が望んで命を絶とうとしたのだから、それを反故にするような処置をして良いのだろうか。人としても医師としても倫理観から助けるが、それが本当に良いことだとは私は思っていない。
そんな私は冷徹で非情な人間なのだろうか。一部の人間は非難するだろが、それは似非の正義感を振りかざしているに過ぎない。人の命とひたすらに向き合い続けてきて、自殺しようとした患者を助けたとしてもそれは一時しのぎであり、再び自殺を試みて命を絶つ人は統計を取らなくても多いのは察しがつく。その時の絶望感は医療に携わる人間と家族や近しい人にしかわかるまい。
命は助けられるが、命を絶とうとする「人間」は医療では助けられないのだ。
「市ヶ谷さん、私はあなたが命を粗末にするような人には思えません。今までの言動は共感できるかといえばできないことの方が多いです。でもそれはそれをしなければ市ヶ谷さんという人格が壊れてしまいそうだったからではないのですか?」
「私が壊れる?」
「はい。自殺をしようとする人は必ず理由があります。普通に生きている人がいきなり死のうなんて考えて死ぬことはまずありありません。だから市ヶ谷さんが死のうとしていたのは『何をしても意味がないことを淡々とやる』ことで壊れてしまいそうな状態にあった。だから本当に壊れる前に擬似的に壊そうとしていたのではないかと思うのです」
「四条さん、なぜそう思うのですか?」
「はっきりとはわからないですが、市ヶ谷さんの中に『生きる理由』があった。だけどそれは壊れてしまいそうな状態では見えないものだったから、死ぬリスクをとってまで一度壊してしまおうとしたのではないかと。それが睡眠薬を大量に飲むことに繋がったんだと思います」
「そんな突拍子もないことを信じられると思いますか?」
「確かにそうですね。でも、私たちの話を今日偶然にも隣のベンチで聞いたことで心が動き出したのではないでしょうか?
生野さんには生きる理由があったことで、そのことから市ヶ谷さんは何かを感じ取った。そのため今まで考えていたことに迷いが生まれた。以前は自分で出した答えが全ての結果自殺をしようとした。
でも今はそれが違うかもしれないと思い始めている。
市ヶ谷さんの中に『生きる理由』がなければ本来迷うことも心が動かされることなどないはずなんです。だから今の迷い始めている状態が本当の市ヶ谷さんに繋がる機会であって、見なければいけない部分をしっかり見えるように私と生野さんがそばにいるんです」
「それはたまたまではないのですか? 私たちは今日初めて会って話をしたのですよ?」
「たまたまかもしれません。でも偶然でもないかもしれません。私は生野さんとさっき話していて、今はまだ自分でも戸惑っているので詳しいことは話せませんが、私に起きたこと、私と生野さんが会って話すこと、市ヶ谷さんと三人で話すことは偶然とは思えないのです。だっていつも賑やかな中庭が今日だけ私たちだけなんてありえないんです。雨の日や天候が悪い日ならわかりますが、今の天気はポカポカしていて暖かいんですよ。これが偶然だなんて信じられません」
自分でも支離滅裂で説得力がないのはわかっていたが、非現実的なことを恥ずかしげもなく言い切ってしまった。
市ヶ谷さんは私のことを不思議な人だと思ってはいないだろうか。普通に考えればそんなことは信じることはできない。しかし私はこの数時間で信じることができないようなことを体験した。それが自信になったのかは定かではないが、自分が体験したことでないと声に説得力が出ないことは確かだ。この説得力が彼にも届いていることを甘い考えではあるが期待していた。
「確かにそうですね。周りには私たち以外誰もいない。病院という場所なのに不思議です」
少しだけ納得してもらえたようで安堵した。このまま私の流れに巻き込んで彼がまだ自覚していない本質の部分を引き出させなければならない。焦らず慎重に進めていくことには変わりない。
「たぶん、私たちが思っていることより不思議なことってたくさんあると思います。
例えば、何気ない会話からお互いの共通点が見つかったりします。それも一般的な趣味とか、好きな場所とかではなくて、同じ時期に同じ場所へ行ってすれ違っていたことをお互い覚えていたり。でもそれはきっと偶然ではないはずなのです。私たちにはわかりませんが、何かが作用して仕向けられたとでも言いましょうか。そういうことって私たちが自覚してないだけでたくさんあると思います。今回はそれだと思っています」
「本当にそんなことってあるのでしょうか? 私には簡単には信じられません。だってそんなこと誰もわからないでしょう?」
「ええ。ですがないとも言い切れないでしょう? わからないことだから意味がないということにはなりませんよ。わからないから考えるんです。なぜそれが起きたのかって。大方意味がないかもしれません。でもそうではないことだってあるはずです。心を閉じてばかりでなくて、自分で開いて見つけようとしなければ意味があるのかないのかなんてわかりませんから!」
私はつい数時間前の自分の状態を引き合いに出し、さもいつもそうであるかのようなふりをして市ヶ谷さんに語っていた。
「確かにそうですね・・・」
市ヶ谷さんは静かにそう呟く。こればかりは彼自身が心の扉をこじ開けない限り、私たちは手も足も出せない。彼が変わるためにはまず自分自身の力で立ち上がり、今まで過ごしてきた年月でがんじがらめになっていた鎖を解くしかない。その機会がこの瞬間に訪れていることはこの場にいた三人にはわかっていた。
しかし、同時に難しいことだということもわかっていた。人の思考がすぐに変わることはない。あるとすれば衝撃的で人生を変えるほどのものでないと難しい。しかもそれには本人が感動するレベルでないといけないという前提がある。今回はそれとは違う。多少はあるだろうが、見るからに感動するほどの衝撃は受けてないのは一目瞭然だ。この状態ですぐに今までの考え方を変えろという方が無理がある。私だって無理だ。変えろと言えば言うほど意固地になる。
そのため次なる一手を考えなければいけない。畳み込めるような何かを。こういう時に生野さんを頼りたくなる。年長者ならではの、生野さんの一言と雰囲気と口調で一気に彼の心を開いてほしいという淡い期待を膨らませた。
「無理にわかろうとしなくても良いのだよ。生きている限り何度もあるだろうから。でもこれだけは言わせておくれ。
今までわかろうとしなかったことを、少しでもわかるように考えを新しくしてみたらどうだろうか。
きっとな、あなたがまた生きられるようになったのは、新しい思考を試す機会が与えられたんだと思うのだよ。少しずつでもいいから、今まで意味がないということを意味があるならどういう意味があるのだろうと考えて行動してみてはいかがかな」
期待通りの生野さんの言葉に彼はどういう反応をするのか気になった。意外と直球で来た感が否めないが、変に回りくどく言っても通じないこともあることを考えればこれが最善なのだろう。
「少しずつですか・・・」
まだ煮えきらない反応に少し腹立たしくなってきたが、彼の年齢から察するに二、三十年くらいは先ほどの思考で生きてきたのだろうから難しいだろう。何か彼の心に突き刺さり思考を変えるような事柄が他にないだろうかを考えていた。
「市ヶ谷さんは、いつからそういう考え方になったのかね? 小さい頃からそのような考え方をしていたのですか?」
生野さんが話したこと私もちょうど考えていたところだ。さすがに小さい頃からこんな考え方をする人はいまい。いたとしたらそれはそれで不気味だ。なかなか可愛がりづらい。想像しただけでも私は受け付けない。
「たぶん小さい頃だと思います。中学生の時はすでに今の考え方になっていたと思います」
「小さい頃からか・・・」
私はつい心の声が口から出てしまった。幸い残念そうな口調ではなかったので助かったが無意識で言葉が出てしまうのは反省しなくてはいけないし、意識して気をつけないと今後の社会生活に影響が出てしまいそうだ。心の声をごまかすように話を続けるしかなかったが、言葉が出てくるか心配だった。
「中学生より前ってことは、小学校の高学年ですか?」
「高学年・・・ その辺は曖昧です。小学生の頃のことをほとんど覚えていないのですよね。それが普通かもしれませんけど」
私も小学校の頃の記憶は曖昧だ。覚えているのは夏休みに海に行ったり、昼寝したり、冬休みはお年玉をもらったことくらいしか記憶がない。その頃の記憶を思い出せという方が無茶だ。でもその無茶をさせたい衝動が湧いてしまっている。ここで話を終わらせてしまうと、二度とこの機会は巡ってこないことを感じていた。そうしたらまた市ヶ谷さんは自殺を試みてしまうだろう。そうさせないためには、無茶をさせてでも原因を見つけなければいけない使命感でいっぱいだった。
「そうですよね。私も小学生の頃の記憶を覚えているかと聞かれると、ほぼ覚えていないですし。楽しかった記憶はかすかに覚えている程度です。市ヶ谷さんは小さい頃の楽しかった記憶って何ですか?」
「楽しい記憶ですか・・・ ほとんどなかったような・・・」
これを答えてくれなかったら本当にお手上げになってしまう。楽しい記憶は一つや二つくらいあるはずだし、記憶に残っているはずだ。楽しかった記憶から話を展開させていけば、もっと踏み込んだ内容を聞くことができる。
「何をして遊んでいたとか、誰といるのが多かったとか、なんだっていいんです」
「そうだなー すぐには思い出せそうにもないから時間をいただけませんか?」
「はい。ゆっくりでいいですからね。なるべく記憶がはっきりしたものを教えてください」
「わかりました」
どうやら私の必死さや熱意がようやく伝わったようで、とりあえず胸をなでおろした。ひとまず思い出させるように仕向けられたことを目で訴えようと生野さんを見た。私たちのやりとりが上手くいった様子にかすかに口角が上向いていた。
私には自分で命を絶とうとする人が考えるようなことは考えつかない。死にたいという感情がないといえば嘘になるが、普段は全く思わないのは今まで生きてきて出逢った人達や学んだこと、楽しかったことなどがあるからだ。人と一緒に何かをして共通のものを作り上げたりするなどして共通言語ができた経験は何かしらあるはず。それを思い出させてあげるのが一番いい方法なのではないかと思い始めていた。
共通言語。これは誰とでも作れるものであるが、これさえも不思議なことが起きているのかと疑問に思い始めた。友達になるときや親交を深めるために共通のものや言葉を作るのが人のコミュニケーションの一つだ。しかし、それを誰でも作れるかというとそうではないと思っている。どんなに長く付き合っていてもなかったり、少なかったりもある。言葉ではなくて、モノであることや体験も含まれる。それさえも私がさっき体験した信じられないことの中に含まれているのだろうか。私は次にゆいちゃんが現れた時に聞きたいことの一つに入れた。
市ヶ谷さんの様子を見るとまだ思い出している最中だ。記憶を辿る邪魔をしないように音を立てないようにしていた。相変わらず中庭には私たちだけだ。最初に生野さんと話を始めてから二時間くらい経とうとしているのにこの静けさは異様で気持ち悪くなってきた。しかし市ヶ谷さんの邪魔をされないように後一時間ほどは誰も来ないことを願っていた。
生野さんに話をしたかったがやめておくことにした。この三人とも無言の時間は居心地が悪かったが、幸い空は雲ひとつない晴天だったので空を見上げることで気持ちが紛れた。
そういえば、いつから空を見上げることがなくなったのだろう。最近ではいつだったかも記憶にない。気持ちに余裕がないときほど空を見ることがなくなるのだろうなと空の青さに懐かしさを感じていた。時折吹く桜の蕾を開かせるような暖かい風が頰に触るたびに優しい気持ちになった。
青空と暖かい風に癒されていた数分間は私の心をすっきりさせていた。もうそろそろ記憶が見つかったと思い市ヶ谷さんの方を見ると、まだ市ヶ谷さんは両膝に頭がつきそうなくらい顔をおろし、記憶を遡らせている途中のような姿勢をしていた。まだ時間がかかりそうだと覚悟し、空をまた見上げた。
「ゆいちゃんはまだかな・・・」
私にしか見えない彼女を待っているが未だに戻ってこない。戻ってこないという表現は適切ではないが、こちらが必要になりそうなときは現れないようになっているのか、姿はまだ見えていない。あの子のことを少しは信じるようになったけれど、大人の私が見続けられる保証はない。実はすでに彼女は戻ってきていて私が気づいていないだけなのではないかと思い始めた。疑うとますます見られないような気がして疑わないようにしていたが、そろそろ不安になってきていた。
不安になっているとはつまるところ期待を持っているということだ。私は気がつかないうちに期待をしていた。きっとゆいちゃんが何かヒントを持って戻ってくることを。しかし、いつどのタイミングで戻ってくるかがわからないことを前提に市ヶ谷さんと接し続けるのは失礼だし、もし待っている間に市ヶ谷さんが病室に戻ってしまえば意味がない。私や生野さんでなんとかやり切るしかないのだ。何度もそう言い聞かせるのは私自身のためである。常に言い聞かせていないと閉じている人の心を開かせることはできない。開かせる前に私の心が閉じてしまうからだ。
私は静かに後ろを向き、桜の木を見た。樹齢六、七十年くらいだろうか。どっしりと大きな幹で存在感がある。定期的に樹木医が来ているようで、作業をしているのをたまに見かけていた。木にも医者が必要なように人間にも医者が必要なのだ。無論、自然の方が偉大なので、人間が手を加えても雀の涙くらいの効果しかないのは百も承知だ。だが人間が自然に手を貸したいというのは人間が自然の一部から生まれたからなのだろう。同じように人間が人間に手を貸したいというは当然のことなのだ。
いつの間にか桜の木と会話しているのか、自分自身と会話しているのか境界線が曖昧になっていた。同時に私は目を開けているのか閉じているのかもわからなくなっていた。
目の前は暗いが眩しい感じがしている。だけど不思議と怖くはない。まるで夢を見ているような感覚だ。しかも明晰夢のように自分の意思がはっきりしている。これは一体何なのだろうか。経験したことがない状況に手が汗ばんできた。
汗ばんだ手を太ももに擦り付け状況を把握しようとしたが、その動作さえもしているのかわからなくなっていた。初めての状況に私はどうしたら良いのだろうか。冷静になろうと努めてきたが、徐々に落ち着かなくなってきていた。
「あ! お姉ちゃん!」
急に聞こえた声はすぐにゆいちゃんの声だとわかった。
しかし姿は見当たらない。今の状態では彼女は見えないのだろうか。今日だけで数回経験したことに当てはめただけなので、見えないかどうかは真実ではない。声が聞こえるということは近くにいるはずだ。辺りをもう一度見回してみることにした。
「ゆいちゃん、どこにいるの?」
声が届くかどうかもわからなかったが出してみた。心で語りかければ相手にも通じることも知っていたが、声を出すことに慣れているのでとっさに声が出たというのが正しい。声を出したら生野さんや市ヶ谷さんにも聞こえるリスクもあったが、この時は聞こえないだろうと確信していた。
「お姉ちゃん、まだそっちには戻れないの。もう少しかかりそうだから先に声だけでも伝えようと思って」
「そうなのね・・・ でも何をしているかは教えてくれる?」
「そういえばまだ言ってなかったね。あの人に必要な人を探してて・・・
でもまだ見つからなくて、いろんなところに行って探してるの」
「必要な人? その人を探していたのね。彼とは色々と話しているけれど、そろそろ厳しくてね。なるべく早めに探してきてくれると嬉しいな。それまでは私も精一杯頑張ってみるから」
「うん! 待たせててごめんね。あともう少しで見つかりそうだから」
「わかった。ゆいちゃんも頑張って探してきてね!」
「ありがとう! じゃあまた探しに行ってくるね」
「いってらっしゃい」
テレパシーとでもいうのだろうか。声だけでも届くことを初めて知った。距離は関係ないのだろうかと疑問に思ったが、とりあえずゆいちゃんの声を聞けたことで落ち着きを取り戻せた。まだ時間がかかりそうなことの他に、誰かを探していると言っていた。これからのやりとりの中で話に詰まったときに使えるかもしれない。その人が市ヶ谷さんの重要人物なのだろう。期待が持てそうだ。
いつもならこのタイミングで次に繋がっていくのだがどうだろうか。市ヶ谷さんの方を見た。
まだ下を向いたままだったが、頭を少し上に上げていて、独り言をブツブツと唱えていた。独り言はほとんど聞き取れなかったが、かろうじて人の名前らしき単語は聞き取れそうだ。独り言に注意を向けて、名前らしきものを聞き取ろうとした。
「お姉ちゃんと・・ 遊んだ・・・ お姉ちゃんと・・・ 遊んだ。毎日。シャボン玉・・ 楽しかったな。かくれんぼもしたね」
同じ言葉を繰り返しつぶやき続けていた。過去の記憶に浸かりすぎて抜け出せなくなってしまったのだろうか。精神を病んだ患者を見たことがあるがそれにそっくりだ。もしくは子供の頃の記憶が蘇って自分が子供時代に戻ったことも考えられる。このような場合、一気に現実に戻してしまうと今の人格を壊してしまい、日常生活に支障が残るような精神崩壊も考えられるので注意しなくてはいけない。なるべく子供をあやすような感じで一つひとつ聞いてあげていくことが大事だ。もう少し様子を見て、話かけるタイミングを見計らってみることにした。
「いつも笑っていた・・・ たまに怒ったりしたけれど・・・ いつも優しかった・・・ 勉強も教えてくれて・・・ テストで満点を取ったら・・・ いつも笑顔で喜んでくれた・・・ だから満点が取れるように頑張ったんだよ」
ポツリポツリ話す言葉は、小さい子供が話すような邪気がなくて温かみもあった。今までの彼の口から出ているとは思えないもので、これが純粋な頃の市ヶ谷さんなのだ。この純粋な頃の彼を何が変えてしまったのか。やはりお姉さんという存在なのか。これがもしかしてゆいちゃんが探している人なのか? 少しずつ結び目がほどけてきた感じがした。
どのタイミングで話しかけようか。お姉さんという言葉が出てきたらか、遊んだ内容が出てきたらか。この選択によって反応が変わってしまうかもしれない。どちらか迷ってしまうが、ここはゆいちゃんがヒントをくれた「お姉ちゃん」の単語が出たら話しかけることにした。
「大きな公園への遠足・・・ 楽しかったな・・・ お菓子の工場も楽しかったな・・・ 甘い香り・・・ おやつももらった・・・ 車の工場も楽しかった・・・ 定規をもらえた・・・ 」
待っているときほど出てこないのは良くあることだ。この不可解な現象をこの時ほど恨めしいと思ったことはない。早く出てこないか気持ちだけが先行していく。こういうときに気をつけたいのは自分のことだけを考えて突っ走ってしまうことだ。単語だけに集中しすぎて話の流れや分脈、間などを読み取れなくなってしまう。きちんとこれらを踏まえた上で聞き返さないとチャンスをふいにしてしまう。何度も自分に言い聞かせてはやる気持ちを抑えているようにした。
「お姉ちゃん・・・」
ようやくこの単語が出た。長かった。あれから十分以上過ぎていた。あとはどういう流れになるかだけだ。慎重に耳をすませてこの後の展開につなげていこう。
「いつも笑っていたのに・・・ なんで死んじゃったの?」
なんてことだ。お姉さんは死んでしまってこの世にもういない。生きていればお姉さんのことを深く知ることができたのに、彼が子供の頃の記憶でなくなっているということは深く探ることはできない。子供の記憶は曖昧な部分が多いから一気に難易度があがってしまった。
まだ様子を見ようか悩む。しかしここで入らなければ真相には近づけない。
「お姉ちゃんはどうして死んじゃったの?」
「わかんない・・・ でも目の前でね・・・ 真っ赤になっているお姉ちゃんがいて・・・」
しまった。彼の目の前でお姉さんが死んでしまっていたのか。最悪の展開になってしまったが、ここで続けないと後が困る。彼の様子を見ていると挙動不審になっていたが、深刻そうな雰囲気には感じられない。彼の中では過去に置いてきたものなのかもしれない。
「その前のことって覚えている?」
「覚えてない・・・」
「よーく思い出してみて。お姉ちゃん何かしていた?」
「うーんとね・・・ お姉ちゃんが向こうの道路にいて・・・ 手を振ってくれてたよ」
「そのとき徹くんは、どういう気持ちだった?」
「お姉ちゃんに会えて嬉しかった! だから走った」
「お姉ちゃんのところに行けた?」
「ううん。行けなかった」
「行けなかったんだ。どうしてだと思う?」
「わかんない」
「そっか。でもお姉ちゃんは近くにいたんだよね?」
「うん。なんでか近くにいた。向こうにいたのに」
「近くにいると思ったより前のこと覚えている?」
「えーとね、笑ってたのに、急に怒りだしたよ」
そうだったのか。これで「お姉ちゃん」と呼ばれる人が死んでしまった理由がわかった。でもこれが理由で今の彼が出来上がったわけではないのは確かだ。辻褄が合わない。まだ見えていないことがたくさんある。もう少しだけ小さい頃の彼に聞きたいことを聞かなくてはならない。
「何て言っていたかわかる?」
「ううん。わからなかった。だからお姉ちゃんのところに行こうとしたの。そうしたらお姉ちゃんが真っ赤になって」
「徹くんは赤くなってなかったの? 痛くなかったの?」
「うん。なってなかった。痛くなかった」
「お姉ちゃんは痛くなかったのか?」
「お姉ちゃんは泣いていたから痛かったと思う」
「そのあとは?」
「お姉ちゃんは笑って、そのあと目を閉じたまま開けてくれなかった」
「そのあとは?」
「いっぱい知らない人たちが来て、大きな声を出してた。あ、それと救急車が来てたよ。お姉ちゃんも僕も一緒に乗った」
「それがどういうことかわかっているの?」
「お姉ちゃんは赤かったからケガをしたんだと思う。でもそのあとお姉ちゃんを見てないんだ」
「お姉ちゃんはかわいそうだったね。それからどうだったの?」
「なんかたくさんの人が集まってお坊さんも来てた。お母さんとお父さんは、お姉ちゃんのお母さんとお父さんに泣いて謝っていたよ。他の人も泣いていたよ」
「徹くん、お姉ちゃんが死んでしまったっていうのはわかる?」
「うん・・・ お姉ちゃん死んじゃったのはこのときわかった。だから悲しかった・・・」
「もう会えないし、一緒に遊べないもんね」
「うん・・・ もっと遊びたかったし、勉強も教えて欲しかった」
「そうだよね・・・」
「でもね、もっと悲しかったのは、お姉ちゃんが死んじゃったことをみんなが忘れていってしまったことなんだ」
「なんでそう思ったの?」
「だってね、お姉ちゃんのお母さんに聞いたんだ。お彼岸でお墓参りに行くたびにお花が少なくなって、命日も誰も来た様子もなくなって、仲良くしていた友達も連絡がこなくなったって」
「そっかあ。それは悲しいね」
「だからね、僕はそのとき思ったんだ。生きているときは覚えていても死んでしまえば忘れてしまう。それなら誰にも覚えてもらわなくていいって。だってどうせ忘れちゃうんでしょ? だから無駄なんだって。話していることも一緒に遊んだことも忘れちゃうんでしょ? 覚えていてもしょうがないじゃん」
「それは違うと思うよ」
「違わないよ! じゃあなんで誰も会いにこないの! 僕はお姉ちゃんにいつも会いに行ってたよ! でも僕の親もお墓参りに行かなくなったよ! みんな忘れちゃうんだよ! だから僕は誰のことも覚えない! 誰にも覚えてもらわなくていい! みんな無駄なんだ!」
彼はこのまま口を閉ざしてしまった。
彼の心には大きな傷があった。すごく純粋な心を持っていた子供の頃の市ヶ谷さんは、このことがきっかけで今のようになってしまったのだ。子供の頃の傷は大人になっても残ってしまうことの方が多い。お姉ちゃんが亡くなったことで彼の傷を癒すことは難しいが、ゆいちゃんがお姉ちゃんを連れてくることができれば癒せるかもしれない。ゆいちゃんが戻ってくるまでは何もしないほうが良いのだろうか迷っていた。
子供が拗ねるように、体を反対側へ向かせて頭を下げている市ヶ谷さんに声をかけづらくなってしまった。見た目は大人だけど子供の心に偶然にも戻ってしまったのは誤算だった。大人の状態であれば対処できる方法はあったのだが、子供の心を開かせるにはそれなりのコツがいる。残念ながら私にはそのコツを持ち合わせていない。
さて、どうしようか。普通の叱りや喧嘩ではないから食べ物などでは釣ることはできない。かと言ってこのままの状態が長引けば、さらに意固地になってしまうだろう。生野さんも困り顔だし、もはや今の時点では打つ手はない。ゆいちゃん頼みになった。
ゆいちゃんを待つ時間は長く感じた。一分が恐ろしく長い。空気の重たさも相まって余計に時間の進みが遅くなっているように感じる。この状況を早く終わらせて楽になりたい。しかし、そう思えば思うほど時間が長く感じてしまう。時間のドツボにはまって抜け出せなくなってしまった。
仕方ないので、自分の子供の頃を思い出してみた。
両親は医者でいつも忙しかった。開業医なら時間の自由も増え、お金もたくさんあって、家も広かっただろうが病院の勤務医だったのでそうではなかった。あまり長い時間を過ごしたことなどなく、どこかに出かけるとか旅行さえも行った記憶はない。しかし勉強にはうるさく口を出しし、医者にさせようとしてきたことが鬱陶しかったが特に勉強が嫌いではなく、むしろ好きだったから学年で一番を取るのは容易かった。それに医者になることに対して抵抗感はなく、むしろそうなるものだと思っていた。親の背中を見ていたからというだけでなく、幼稚園に入る前から思っていた。
多くの人には理解できないかもしれないが、なぜか漠然とそう思うことはあるはずだ。テレビなどで一流選手ほどそうなるのが当然のように思っていたと答えている。そのために何をすれば良いかを自分で考え、愚直にそれをやり続ける。人はそれを努力と伝えているが、本人にとっては努力でも何でもなく、それが普通だと思っている節がある。むしろ努力という言葉を使う限り努力していないのと同じで、他人と比べた時点で努力の方向性が間違っているのだと常日頃から思っていた。周りからみると変人として映るだろうがそういうものなのだ。
しかしながら、昔を振り返って改めて思うのは、私は変人だったのではないか。私はそう思っていなかったがそう思う人はたくさんいたかもしれない。そんな私を理解してくれた人がいたのは高校生の頃くらいからだった。それまでは一人で行動することが多かった。友達は普通にいたが、理解を示してくれた人はいなかったのでいつも心は寂しかったのかもしれない。もう昔のことだから忘れてしまったが、人はやはり自分を理解してくれる人がいた方が心は安定する。市ヶ谷さんの場合は、周りにそういう人がいなかったから今のようになってしまったのだ。もし一人でもいてくれたら違った人生を歩んでいたかもしれない。
だがそうは言ってもあくまで仮定の話だ。もし理解を示した人がいても本人がそう思わなければ変わらない。人は自分で決めたことでしか行動や思考を変えることはできない。変えられたとしても時間が経てば元の思考や行動に戻ってしまう。セミナージプシーや本やネットに書いてる内容を真似しても人が変われないのはそういうことが理由の大半だ。しかし信頼している人から理解されたり、出会った当初からお互いを知っているたりする錯覚をした場合は、そうではなくなる。その理論からいえば、市ヶ谷さんにとっては「お姉ちゃん」になる。お姉ちゃんからの言葉には反応するだろうし、聞く耳を持つだろう。考え方や行動も変わるはずだ。もちろん内容によってはという前提条件付きだが。
人との縁は不思議なもので、自分には必要のない縁でも自分の思考から切り離して考えてみると必要になっている。人だけでなく動物とも言えるのだが、それをどう自分のために生かしていくかが人生の勉強なのだろうと思うことが多々あった。たとえ親であっても反面教師にして生きていくかどうかで人生は大きく変わる。自分が良い人間であろうと言動や行動に気をつけて、人の役に立つ、喜びや幸せを振りまける人間になろうと行動していれば周りにそういう人が寄ってくる。逆にそうでない人はそうでない人が寄ってくる。
人には生まれながらに決まっている縁と自分で選びとれる縁がある。どう区別するかは難しいが自分の考え方や行動と同じような人と仲良くなれば自分で選びとった縁であることは確かだ。類は友を呼ぶというのもそういうことを先人が理解していたことから作られた慣用句だ。よくできた言葉だと感心する。
果たして「お姉ちゃん」と話して思考も行動も全て変わるのか。変わってほしいという希望と期待で誘導してしまわないだろうか。多くのことに細心の注意を払うことを心に刻みながら待っていた。
少しずつ陽が傾き、さっきまで暖かかった風が少しずつ冷たさを増していった。あまり冷えてくると生野さんの体には辛いだろうし、風邪をひかしてしまってはいけない。私もそろそろこの状況に我慢しきれなくなっていた。
待てば海路の日和ありという言葉があるが、本当にそうなるだろうか。いっそ彼はこのまま子供の頃の心の状態でいた方がいいのではないかという医者としても人としても不謹慎な考えを持ってしまったことは否めない。誰かこの状況を変えるような何かを持ってやって来ないか。そう思えば思うほど広い中庭に私たちしかいないことを認識させた。まるで異次元の世界に入り込んでしまったと言わざるをえないほど不自然に三人しかいない状況がおかしすぎる。お願いだからそうであって欲しい。
しかしこれは紛れもなく現実だ。現実の世界で起こっていて目の前には救いたい人がいる。でも救えない可能性が今はあるので、早くゆいちゃんが「お姉ちゃん」という人物を連れてきてくれないか。他人任せでも良い。何かの縁で三人が中庭にいるこの状況が本当に起こらなければいけない出来事ならば、きっともうすぐ打開するものがくるはず。そう信じようと思った。
私はベンチから久しぶりに立ち上がり、桜の方に体を向けた。生野さんはそんな私を見上げて呟いた。
「やはり結衣にそっくりだ」
唐突な一言に私は思わずドキッとした。
「え?」
生野さんの顔を見ようと斜め下に顔を降ろした瞬間、暖かく、どこか懐かしい感じのする風が中庭に咲いている黄色のフリージアの香りと一緒に舞い上がってきた。
「ようやく見つかったから連れていくね」
聞き覚えのある声に耳を傾けると、ゆいちゃんの声だった。姿はまだ見えないが近くに来ていることはわかった。ようやく「お姉ちゃん」とやらが見つかったらしい。これでようやく状況を打開できる安心感で、つい欠伸が出てしまった。
「うん、待ってるね」
意識の世界だから距離は関係なく、時間もかからずにくるのだろうなと予想できた。たった数時間で意識の世界のことを学習して慣れてしまった自分が怖くなった。これが一次的ではなくて、この先一生続いていくことを何となく感じとった。
「お待たせ! ようやく『お姉ちゃん』を探すことができたから連れてきたよ」
「ありがとう! これで市ヶ谷さんが変わってくれると良いんだけどね。もう私の力じゃ心を開かせることはできなくて、諦めかけていたところだったよ」
「遅くなちゃったね。でもやりとりはかおるちゃんの意識を通して知っていたから大丈夫。それじゃあ、紹介するね」
あれ?また私の名前を出した。教えていないのに。ここはきちんと聞いたほうが良いのだろうか。いや、今はそれどころではない。今は市ヶ谷さんのことが先決だ。自分の名前を知っているかを聞くのは後でもできる。
「うん。紹介して」
「あの人が話していた『お姉ちゃん』の深鈴さん」
「はじめまして、深鈴さん。私は四条と申します。この度は市ヶ谷さんのために申し訳ありません」
「はじめまして、四条さん。市ヶ谷さん、いえ、徹くんのことでご迷惑をおかけしてしまったようで、こちらこそ申し訳ありません」
魂なのか意識体なのかわからないが、「お姉ちゃん」は品の良い肩下まである黒髪のロングヘアーの女性だった。目鼻立ちがはっきりしていて左の首筋に黒子があった。自分の意見をはっきり言うような印象だが、話すときの優しい感じは子供に好かれやすいだろうと思った。
「深鈴さんはね、もう他の人に生まれ変わっていたから探すのに時間がかかっちゃった」
「生まれ変わっていた? やっぱり輪廻転生ってあるんだね」
「うん、あるよ。私もそうだもん。何度も何度も生まれ変わって、いろんなことを学んだり、やれなかったことをやったりしていくんだよ。人が生きている世界での良いことも悪いことも両方やっていくんだ」
「そうなんだ。市ヶ谷さんの様子をみると、小学校低学年くらいの出来事みたいだから、二、三十年は経っているから生まれ変わっていてもおかしくはないよね」
「そうだよ。生まれ変わる年数は魂によっても違うけどね。早い人は早いし、遅い人は遅い。もう生まれ変わらないのもいるしね」
「そうなんだ・・・」
私は普通に突拍子のないことを会話していたが、私たちが生きている世界とは別に、それ以上の大きなことを知ってしまったことに言葉が出なくなってしまった。
「四条さん、徹くんはどんな様子ですか?」
深鈴さんの言葉で今やらなければいけないことにハッと気づき、すぐさま彼の方を見ながら伝えた。
「彼は今、子供の頃に心が戻ってしまって、あのように背中を丸めて縮こまっています」
「昔と変わらないな・・・ 昔も叱るとああやって背中を丸めて顔を見ようとしないんですよ」
「そういう時はどうしていたんですか?」
「何もしないですよ。そのうち体が痛くなって、こっちを見てきますから。その時に喜びそうなことを言ったり、飲み物をあげたり、おやつをあげたりすれば機嫌が良くなりますよ。なんせまだ子供ですからね」
「そんな単純なことでいいんですか?」
「ええ、昔はいつもそんな感じで対応してましたし、今もその癖が抜けていなければ同じことをしますよ。ああなってからどのくらい時間が経っていますか?」
「もうすぐ十五分くらいですかね」
「それならもうすぐこっち向きますよ。それがチャンスです」
そう言い切る深鈴さんに妙な安心感があった。彼と長く時間を過ごしただろう唯一の人がそう言うのだから、きっとそうなるだろう。面白そうなのでそうなるのかどうか静かにずっと様子を見ていた。
「・・・」
音をたてずに、そうっと丸めた背中と腕の間から覗き込むような姿勢でこちらを見ていた。
深鈴さんの言う通りだ。心が子供なら、行動も子供だ。このチャンスを逃す手はない。こちらには深鈴さんという彼の思い出の人がいる。これで反応しないことはないだろう。しかし気がかなりなことが二つだけある。もっとも大事なことだ。
「ねえ、ゆいちゃん。思ったんだけど、深鈴さんから市ヶ谷さんをは見えているけど、彼からは深鈴さんは見えるの?」
「見えるはずだよ。彼が深鈴さんのことを忘れていたとしても、無意識では覚えているから」
「そうなんだ。私の場合もそうだったの?」
「うーんとね、少し違うけど、大体は同じことかな」
「あ、あと深鈴さんって生まれ変わっているんだよね?」
「うん、そうだよ」
「深鈴さんの生まれ変わった体ってどうなっているの?」
「生きているよ。ただ魂を抜け出させるために起きている状態だとできないから、少しの間だけ寝てもらっているよ」
「それならいいんだけど」
「でも、あまり長くは肉体から離れていられないから、早めに戻してあげないといけないけどね」
「やっぱりそうなんだ。元の体に負担をかけないように早くしないとね」
「うん。お願いね。きっとこのことが終わったら彼と深鈴さんは会うことはないだろうけど」
「え? それってどういう・・・」
「今は彼と深鈴さんに集中して早く解決してあげて」
ゆいちゃんは初めて話を遮った。遮った理由はいろいろと考えられるが、とりあえず今はあの二人を引き合わせなければ。
ゆいちゃんとやりとりしていても、まだ市ヶ谷さんはこちらを見たままだった。声をかけて欲しそうにモジモジしている様子はいささか可愛かったが、ずっとそのままにしていくわけにもいかない。私はできる限り子供をあやすような声で話しかけた。
「徹くん、徹くんにどうしても会わせたい人がいるんだけど会いたい?」
「会わない!」
「本当に?」
「会わないったら、会わない!」
「そっかあ。残念だなあ・・・ 徹くんに会いたいっていうお姉さんがいるんだけどなあ・・・」
「だれ?」
「誰だろうだろうねえ・・・ 会えばわかるよ」
「じゃあ、会ってみる」
「良かったあ・・・ じゃあ呼ぶね」
「うん」
「深鈴さん、徹くんが会いたいって!」
「徹くん、久しぶり! 元気だった?」
「えー! なんでお姉ちゃんがいるの? だって死んじゃったのに・・・」
「そうなんだけど、今日は特別に徹くんに会える許しが出てね。だから会いにきちゃった!」
「本当に? 別な人なんじゃないの?」
「違うよ。だって誰が徹くんに勉強を教えたの? 黒い紙に虫眼鏡で太陽の光を集めて文字を焼いたりして遊んだよね?」
「うん! 本当にお姉ちゃんなんだね! また会えて嬉しい!」
「お姉ちゃんもだよ! 徹くんのことがね、ずっと心配だったから」
「お姉ちゃん・・・ いなくなってからずっと寂しかった・・・」
悲しそうに話す彼の口調は、殻に閉じこもる前の心の状態と同じだった。あの時の思いを深鈴さんはどう受け止めるのか、深鈴さんが彼に伝えたいことは何か。二人のやりとりに耳をすませた。
「お姉ちゃんも寂しかった。最後に会ったのがあんな状態だったもんね」
「お姉ちゃんが真っ赤になって、動かなくなって・・・ 痛そうにしてて・・・」
「そうだったよね・・・」
「でもなんで死んじゃったの? あんなにいつも笑っていて楽しそうだったのに」
「え? それは・・・」
「お姉ちゃんが死んじゃってから寂しかった。涙がずっと出てた。会いたくて毎日お姉ちゃんのお家に行った。でもお母さんに止められて行けなくなっちゃったから会えなくなっちゃった。だからお墓に行ってた」
「そうだったの・・・」
「でもね、お姉ちゃんの家に行く人もお墓に行く人もどんどん少なくなって・・・ お姉ちゃんの友達も見なくなって・・・ お姉ちゃんのことを忘れていっちゃった・・・ 僕はそれが一番悲しかった!」
「・・・」
「なんでみんなお姉ちゃんのこと忘れちゃうの? あんなに仲良くしていた友達だったのに。おばさんやおじさんも。お墓に行ってもお花もなかったし、匂いがするやつもなかったし。なんで? なんで?」
「それは・・・」
「それでお姉ちゃんは良いの? 忘れられちゃうんだよ。死んじゃったから忘れられちゃうんだよ?」
「とお・・・」
「だったら・・・ 忘れちゃうんだったら・・・ 覚えようとしなくていい! 仲良くなんてしなくていい! いなくてもいい! 全部いらない! みんな嫌い! 全部嫌い!」
「徹くん!」
深鈴さんの大きな声に彼は体をビクッとさせ、固まったまま大人しくなった。
「徹くん・・・ あのね。みんな忘れたわけじゃないんだよ。そう見えてしまったかもしれないけれど、心の中では覚えていてくれているんだよ」
「うそだ! だったらなんでお姉ちゃんに会いにこないの? 話をしないの?」
「うそじゃないよ。みんな一人一人、思い出してくれていたんだよ。お姉ちゃんは死んじゃってから少しの間だけお家にいたし、学校にもいたし、徹くんのそばにいたんだよ。その時ね、みんな昔の記憶を思い出してくれたり、悲しんでくれたり、寂しがてくれたり、また会いたいって言ってくれたりしたんだよ。徹くんと同じようにね」
「でもそんなのわかんないよ・・・」
「だよね。それに言葉にすると悲しくなってしまうし、だから中々会いに行くこともできないんだよね」
「うん。僕もそうだった。だけど言葉にしたし、会いに行った」
「ありがとう。知っていたよ。徹くんがいつも来てくれたこと。話したくても話せないし、声を出しても聞こえないから、もどかしかった。だからお姉ちゃんはいつも徹くんの肩に手をあてて『泣かないで。強い男の子になってね』って言っていたんだよ。少しでも伝わっていればいいなって思って」
「そうだったんだ・・・」
「そうだよ。本当はそばにいたかったんだけど、そうもいかなくなっちゃって徹くんには会えなくなってしまったけど」
「どれくらいいたの?」
「二ヶ月くらいかな?」
「そんなにいてくれたんだね」
「本当はもっといたかったんだけどね。次の生まれ変わりのためにやることがあってね」
「ふーん。そうなんだ。そんなのがあるんだね」
二人のやりとりは昔はいつもこのような感じだったのだろうと思わせた。お姉ちゃんを慕う市ヶ谷さんの様子から、もし深鈴さんが生きていたら、今の市ヶ谷さんはこの状態ではなく、素直で立派な大人になっただろうと思った。
「でもあのとき、徹くんが無事で良かったよ。安心したんだよ」
「無事って何のこと?」
「そうか・・・ 徹くんはまだ知らなかったんだ」
「何を言っているの?」
「徹くん、あのね・・・ あの日、徹くんと交差点で会ったときね。手を振った後、徹くんのいる道路に向かって車が猛スピードで走ってきていたの。だから『逃げって!』って大きな声で叫んだんだけど、徹くんには届いていなくて・・・ だから走って徹くんを助けにいったの」
「そうだったの? 何も聞こえなかったよ。車も周りになかったよ」
「それはきっとお姉ちゃんが徹くんを勢いよく突き飛ばしたショックで記憶が飛んじゃったのかもしれないね」
「そうなのかな?」
「そうだよ。車がなかったのは、お姉ちゃんを引いた車はそのまま逃げちゃったからだよ。でもお姉ちゃんはそんなことより、徹くんが怪我をしなかったことが良かった。あの車に引かれてたら徹くんが死んじゃっていたと思うから」
「お姉ちゃん・・・ ありがとう・・・」
「どういたしまして。 あれから徹くんは大きくなって、大人になって、ちゃんと立派に生きている?」
「えっと・・・ そうじゃない・・・」
「正直でよろしい。実はね、大人になった徹くんの様子やお姉ちゃんがここに来るまでの様子をゆいさんから聞いていたんだよ。だから嘘をついたら叱ってやろうと思ったんだけど、心は素直で正直なままだったんだね。それは嬉しいよ」
「立派に生きてなくてごめんなさい・・・」
「ううん。謝らなくていいよ。あの時のことが忘れられなくて、それをちょっと考えすぎちゃったり感じすぎちゃっただけだもんね。だからね、もうこれで悲しまなくていいんだよ。心の中にそっとしまいこんで、お姉ちゃんのことをたまに思い出すくらいでいいからね。今の自分をこの正直で素直な心のままで生きていって」
「うん。お姉ちゃんのことは一生忘れない。お墓参りも行く。お姉ちゃんが守ってくれた命を大事にして生きていく」
深鈴さんはそっと徹くんを抱きしめた。
市ヶ谷さんの様子が見るからに変わっていくのを目の当たりにした。血色が冴えなかった顔に赤みが増し、雰囲気も会った当初よりも優しい感じになった。冷たい印象もなく、きっとこれが本来の市ヶ谷さんなのだろう。深鈴さんが来てくれて本当に良かった。深鈴さんを探して連れて来てくれたゆいちゃんにも感謝だ。
二人の邪魔をしないように少し後ろに下がり、二人が離れるのを待っていた。
その間、いくつか考えごとをしていた。一つは、深鈴さんを引いた車のこと。二つ目は深鈴さんの生まれ変わった人物のこと。三つ目は深鈴さんの生まれ変わった人物と市ヶ谷さんは今起きたことを覚えているかということだ。
全て答えてくれるかはわからないが答えてくれる範囲だけでも知っておきたかった。事故の犯人が捕まったかどうかは知りたかったが、生まれ変わった深鈴さんに会いたいとかそういうわけではない。ただの好奇心である。不思議な現象が起きているこの数時間に体験したことは、きっと多くの人が経験したことはないことだろう。だから単純に知らない世界のことを知りたかった。それにこのタイミングでしか聞けないことかもしれないから、遠慮なく聞いておいたほうが良いのだと自分に言い聞かせた。
でもなぜ私はこの出来事を経験しているのだろうか。
今までこのような体験はしたことがなかった。病院特有の怪談はうちの病院にもあるが大して怖くもなく、深夜の院内や中庭に休憩に出ていても怖いと感じない。慣れと言ってしまえばそれまでだが、一つや二つは経験していてもおかしくない年数はいる。私には霊感がないものだと信じ切っていただけに今経験していることは夢ではないかと思ってしまう。
自分だけならそう思っても仕方がないが、生野さんや市ヶ谷さんも巻き込んでいるとなると現実に起きていることであり、否定は確実にできない。ゆいちゃんの声は私と生野さんに聞こえているし、きっと深鈴さんの声も生野さんは聞こえていると思われる。その生野さんは市ケ谷さんの方を向いている以外目立った行動はしていないので、深鈴さんが見えていて、話していたことを聞いていたかは定かではない。これも後で聞いてみようと思った。
そんなことを考えている間に、深鈴さんは少し離れ徹くんの頭を撫でていた。久々の再会と真実が分かってスッキリした様子だ。彼はもう大丈夫だろう。深鈴さんとの約束は彼にとって大切なものだし、命を助けてもらったことも知っている。彼の立ち直る様子が楽しみになった。
深鈴さんは徹くんと最後のお別れを終え、こちらにゆっくりと歩いてきた。
「四条さん、今回はありがとうございました。おかげさまで徹くんに最後の挨拶と真実を伝えることができました」
そう言い終わった後に深くお辞儀をした。
「どういたしまして。こちらこそ本来は生まれ変わって今の人生を生きている中、ゆいちゃんを通じて急に呼び寄せてしまい申し訳ありませんでした。でもそのおかげで市ケ谷さんは生まれ変わっていく手助けができました」
「ここからは本人の意志が大事になってきますけど、心の中の小さな徹くんが元気になって考え方も変わったのでもう大丈夫でしょう」
「そうであることを願います」
ようやく一息つける様子になった。もちろん深鈴さんは元の体に早く戻してあげなければいけなかったが、どうしてもさっき考えていたことを足早になってもいいから聞きたかった。
「あの・・・ 深鈴さんに聞きたいことがいくつかあるのですがいいですか?」
「聞きたいことですか? はい。私に答えられることならなんでもいいですよ」
良かった。元の体に戻らなければいけないので、手短にすまそうと肩に力を入れた。
「元の体に帰らなければいけないと思うので、手短に済ませますね。いくつかあるのですが・・・」
「構いませんよ。肉体本体は寝ている状態ですし、疲れていたからちょうど良い睡眠になってますから」
おそらく気を使ってくれたのだろう。その配慮に敬意を払いつつも自分の聞きたいことを聞くことにした。
「深鈴さんを引いて逃げた車はその後どうなったのですか?」
「やっぱり気になりますよね?」
「ええ。人を轢き殺して逃げるなんて最低の人間ですから」
「あの後、対向車線を偶然パトカーが走っていて、猛スピードで逃げていくバンパーが凹んだ車を見かけていて、不審に思ったそのパトカーが追跡して検挙して捕まえましたよ。犯人は飲酒運転をしていて、交差点を曲がろうとしたけど、スピードを出しすぎて曲がりきれずに徹くんの方に向かって行ったそうです。誰かを引いた感触があったようで怖くなって逃げたと言っていました」
「言っていた?」
「ええ。どんな人が徹くんを怖い目に合わせて、私を轢き殺したのか気になったので。引かれた後に徹くんの無事を確認して死んだ後にすぐに車を追いかけて、警察が捕まえた犯人のそばで聞いていました」
「それは・・・」
「信じられないですよね? 私もその時は信じられませんでしたから。気づいたらスイスイと動けていて、いつも見ていたことと同じようにできるんですから」
「それが魂の感覚なんですね。なかなか信じられないですけど、信じるしかないです」
「今私たちが話していること自体も他の人にとっては信じられないことですからね。信じてしまったほうがいいです」
「ですよね。そうだということで納得しておきます。後二つほど聞きたいことがあるのですがいいですか?」
「ええ。どうぞ」
残りの質問は全て答えてくれるかどうか不安なものだ。先ほどの質問以上に気を張って聞くことにした。
「一つ目は深鈴さんが生まれ変わった人についてです。答えられる範囲でいいので教えていただけませんか?」
「それを聞いてどうするおつもりですか?」
「会いにいくとかでは全然なくて、どういう人物像なのかという好奇心です」
「答えられることとそうでないことがありますが・・・ 答えられる範囲で答えますと、すでに社会人になっています。前の人生でやりたかったことがあったのですが、できなかったのでもう一度それをやっています。性格は今話している私と変わりないですよ」
「生まれ変わってからそんなに年月が経っているのですね。案外、生まれ変わるのは早いのですね」
「どうでしょう? 人・・・ 魂によって違いますよ。魂が早く生まれ変わりたいと望めばそうなりやすいですし、そうでなければ生まれ変わらない選択もできます」
「結構答えてくれてありがとうございます」
「いえいえ。巷でよく言われていることが当たっているので、その範疇ですから」
「そうなのですか・・・ ちょっとガッカリです」
「ふふふ。その記憶を持ったままで、大人になっても忘れていなかったりする方が結構いますからね。そう気を落とさずに」
「そうですか・・・ では、気を取り直して最後の質問をしますね。生まれ変わった深鈴さんの人物と市ヶ谷さんは今の出来事を覚えていますか?」
「覚えているかもしれませんし、そうでないかもしれません。でももしかしたら・・・ 二人が出会ったときに何かを感じるかもしれませんね」
「何かを感じるか・・・ 懐かしい感じ・・・ という感覚ですかね」
「そうですね。無意識、魂は覚えているから、前にも会ったような気がするというものですね。特定の人に初めて会ったのに前にも会った気がするとか、特定の場所に初めて行ったのに前にも行ったことがあるというデジャブは、全部が全部そうではありませんが、一部はそういったことが理由です」
「へえー、そうなのですね。それなら前の人生では深鈴さんと市ヶ谷さんは出会っていましたが、今の深鈴さんと市ヶ谷さんが出会う縁はあるのですか?」
「それについては答えることは申し訳ありませんができません。これは二つの魂が決めていることなので、他の方にはお話できないのです」
「すみません・・・」
「気になさらずに。でもこの広いようで狭い世界で、もしかしたらすれ違うことがあるかもしれません。ですがすれ違うだけでそれ以上にはなりません。これは魂同士が決めた約束ですから。でも、もし四条さんが私たち二人の今の人生で、今回とは別に関わる約束をしていたのなら、そういうこともあるかもしれませんね」
「え? ということは今回のは元々、魂同士が決めていたことなのですか?」
「それはどうでしょう? そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。私からは何も伝えることはできません」
「そこをなんとか・・・ お願いします!」
「ん・・・ でも私をここに連れてくるまでにお時間がかかったそうですから、そこを察してください」
「ということは・・・ そうではないってことか・・・」
「まあ、四条さんは生きている身ですし、こうやって話しているだけでも縁はあるんですよ。だから深く考えないで、いつもの四条さんでいてください。本来ここまで話していることさえ、まれなんですから」
「そうですよね。今日になって急にこんな風にゆいちゃんや深鈴さんと話していること自体おかしなことですし。わかりました。聞きたかったことは以上です。ありがとうございました」
私は聞きたかったことを全て聞くことができ、深鈴さんが話してくれたことに感謝し、深くお辞儀をした。
そろそろ深鈴さんを元の肉体に戻さないといけない。最後はきちんと礼を尽くさないと失礼になる。私はゆいちゃんを呼んだ。
「ゆいちゃん、そろそろ深鈴さんを元の肉体に戻してあげたいのだけれど、その肉体まで付き添ってもらえるかな」
「うん、もちろん! そのつもりだったから。それじゃあ、深鈴さん行きましょうか」
「そうですね。四条さん、ありがとうございました」
「こちらこそ市ヶ谷さんのためにありがとうございました」
「どういたしまして。また会えたら嬉しいですね。それではまた。徹くんもバイバイ」
「お姉ちゃん、バイバイ!」
「それじゃあ、ゆいちゃんお願いします」
「うん。じゃあ送り届けてくるね。いってきます!」
「いってらっしゃい!」
深鈴さんは先ほどと変わらないほど深くお辞儀をしてゆいちゃんと共に遠くに離れていった。離れていくに連れて寂しくなっていったが、彼女が残していってくれたものを無駄にしないために市ヶ谷さんのアフターケアを病院のスタッフとともにしていかなければならない。休み中だけど、後で内科と精神科の先生と看護師たちの元へ行こう。ただ、この出来事のことを話しても信じてもらえないし、逆に頭を打った私のことを変に思うかもしれないから、ここは嘘も方便で市ヶ谷さんの様子を見せながら適当なことを話せばいいかと気楽に考えるようにした。
ゆいちゃんが戻ってくるまで少し時間がありそうだったので、生野さんにさっきの市ヶ谷さんと深鈴さんとのやりとりが見えていたり聞こえていたりしたかどうか聞いてみることにした。
「生野さん、さっきの市ヶ谷さんともう一人の方のやりとりは見えていましたか?」
「ああ、女性かどうかはわからなかったがそれらしき人が市ヶ谷さんのそばにいて、何か話しているのは聞こえていたよ」
「話していることはわかりましたか?」
「話していることまではわからなかったな。四条さんには聞こえていたのかね?」
「はい、すべて聞こえていました」
「そうか・・・ 何を話していたんだい? 女性らしき人影ががいなくなってから市ヶ谷さんは人が変わったようになっているのだが」
私は市ヶ谷さんがなぜあのようになってしまったのか、その根本的な原因や解決するためにどんな話をしたのかを全て話した。生野さんにはこの話をしても通じる気がしていた。不思議な体験をしているもの同士だから理科してくれるはずだ。
「そんなことがあったのか・・・ それは彼も長い間辛かっただろうな・・・ よく今日までその状態で生きてきたものだ。自殺未遂をしたとはいえ、もうそこまで追い詰められていたのかもしれないな」
「ええ。本人の意識にはなかったことですが、そうではない部分が本質的に影響していて、問題とは言いたくないですが、要因がそこにありました。あのまま私たちだけだったら、そこには気づけませんでした。なのでゆいちゃんが深鈴さんという方を連れてきてくれなければ、今のあの様子の市ヶ谷さんにはなりませんでした」
「今の彼は幸せそうだな。最初に会った時と顔つきも血色も全く違う。人があれほど変わるのはこの歳で初めてだ。人はきっかけ一つでああまで変わるのか」
「そうですね。私も急激に変わっていく彼を見て驚きました」
「ところで、さっきから四条さんの話に出てくる『ゆいちゃん』とは誰だね? 私たち三人と人影くらいしかいなかった気がするのだが・・・」
しまった。そうだった。ゆいちゃんは生野さんには見えないのだ。つい見えていると勘違いしていた。どうやって説明しよう。ゆいちゃんと会ってからの方がいいだろうか。どうして見えるようになったのかから話した方がいいのか。想定外のことに動揺してしまい、言葉が出てこなくなった。
「ゆいちゃんとは、私にしか見えない、さっきの市ヶ谷さんのそばにいたような人影の存在です。どういうわけか今日急に見えるようになりました。私も不思議でしょうがないのですが、生野さんの先ほどの話の時も時々現れていました」
「四条さんにしか見えないのか・・・ それは残念だ。四条さんと同じように話してみたかったがしょうがない。今はどこにいるのだい?」
「今は深鈴さんを元の体に送り届けるために少し離れています。もし帰ってきたら伝えておきますね」
「ああ。頼みます。亡くなった妻と同じ名前だから気になってしまってな。私が知っているゆいとは違うことはわかっているのだが。つい期待をしていてな。よろしくお願いします」
「はい。わかりました」
私もなんとなく生野さんが知るゆいさんと私が知るゆいちゃんとは同じ人物だと感じている。ただ明確な理由がなく、もし会ったとしても先ほどの深鈴さんの話を引用すると、魂同士が決めてきたことでないと話せないようになっているようだし、ゆいちゃんはたとえ聞いたとしても答えたりしないだろう。そういうルールなのかは知らないが、きっと現世で生きている私たちに不用意に接点を持たせず、自分の人生を生きるための決まりごとのような気がしている。ただ、私は例えそうであっても生野さんに対して何かしてあげたい気持ちになっていた。
私たちの様子を代弁するかのように、気持ちの良い風が私たちを包んでくれていた。今までフリージアの香りは強すぎて苦手だったけれど、心境の変化からいつの間にか好きな香りになった。
もう少しこの香りの風に包まれていたい。
そう思ったが市ヶ谷さんと話さなくてはならない。太陽が日々高くなり陽が伸びてきているとはいえ、夕方に近づいているので風もそろそろ冷たくなってくるため生野さんの年齢には負担が大きい。早めに切り上げて病室に戻さなければいけない。生野さんとは話は一応終えているので、市ヶ谷さんと話して中庭から誘導しようと決めた。
「市ヶ谷さん、気分はいかがですか?」
「はい。なんだか心がスッキリしていて、今まで感じたことがないくらい体が軽いです。なんだか夢を途中から見ていたようで、昔大好きだったお姉ちゃんが出てきて、色々と話ができたんです」
「そうでしたか。急に様子がおとなしくなったので何が起きたrのだろうかと心配していました」
これは嘘である。しっかりと二人のやりとりを聞いていたし、その場を作った張本人は私だ。しかし嘘も方便というので、この場合の嘘は誰も不幸にしない幸せな嘘だ。本当のことを話しても信じてはくれまい。ならば夢ということにしておいたほうが彼にとって理解しやすいし、そのまま思い込んでくれるだろう。
「お姉ちゃんが昔、私が事故に合いそうだったのを身を呈して助けてくれた。そのことがすっぱりと記憶になかったんです。でもお姉ちゃんが死んだことは覚えていて、お姉ちゃんを忘れないように私はしていたのに、周りの人は忘れていくことに憤りを感じていた。だから忘れることへの怒りと忘れるなら全て無意味と思っていった。
でも、本当はそうじゃなかったってお姉ちゃんが言ってくれたんです。昔みたいに小さな私をあやす感じで、優しい口調で話してくれました。そして久しぶりに怒られました。なんだかその感じが本当に起きているようで・・・ 懐かしくて、あの頃に戻れた感じがしました」
「話を伺っていると、お姉ちゃんのことが好きだった様子が見てとれますね。夢であったとしても幸せでしたね」
「ええ、本当に。お別れの時に抱きしめてくれて、そのまま寝てしまいそうな柔らかさと暖かさでした」
「そうですか。お姉ちゃんも市ヶ谷さんのことが心配で会いに来てくれたのかもしれませんね」
「今の自分が恥ずかしいです。なんであんなことをしたのか。僕を命がけで助けてくれたお姉ちゃんの想いを踏みにじった行為でした。これからはこの命を大切に生きていきます。お姉ちゃんにもそう誓いました」
「市ヶ谷さんって、もともとそうやって笑うんですね。顔色も赤みがさして良くなっていますよ」
「そう言われると照れますね。顔色も変わったと聞けて嬉しいです。体も軽いし生まれ変わった気分です。今までのことが嘘のようです。気持ちも真向きになったし、目の前も明るくなりました。四条さんと生野さんにお会いできなければ、きっと今のこの気分は味わえなかったでしょうね。ありがとうございます」
「いえいえ。私たちは何も。ねえ、生野さん?」
「ああ、そうだよ。そう思えるようになったのは市ヶ谷さんがそうありたいと思えたからだ。どんなにいい言葉を並べても、本人がその気でなければ変わらないからな」
「そうであったとしても、今日この場でお会いできて話を聞かせていただいて、失礼がたくさんありましたけど話しをしていて自分を見つめ直すことができました。本当にありがとうございます」
そう言って立ち上がり、私たちに深いお辞儀をして病室へ戻っていった。その深いお辞儀は深鈴さんと瓜二つで、きっと子供の頃の市ヶ谷さんは、いつも深鈴さんの礼儀正しい深いお辞儀を見ていたのだなと思った。そばにいる時間が長ければ行動も言葉も自然と似てきてしまうものだ。私はこのことにさらに幸せを感じていた。
「生野さん、まだゆいちゃんは戻ってこないですし、そろそろ風が冷たくなるので病室へ戻りましょうか」
「そうなのか・・・ 残念だがしょうがないな。この老体に寒さはこたえるしな」
「風邪を引いては大事に至りますからね。病室まで付き添いますね」
「そうか。孫のような可愛い子が付き添ってくれるのは嬉しいな」
「またまたご冗談を。でも嬉しいです」
私は久しぶりにそう言われてお世辞でも冗談だとわかっていても嬉しくて足取りが軽くなった。病室へ付き添う間、少しばかり話をしていた。
「そういえばさっき市ヶ谷さんの最後のお辞儀の仕方が、お姉ちゃんの深鈴さんとそっくりだったんですよね。長い時間を過ごした人は動作や言動が似ると言いますが、生野さんと結衣さんで似たような仕草や言葉遣いってありましたか?」
「似たような仕草や言葉遣いか・・・ そうだな・・・」
考えている時間がありそうだったので、生野さんの姿や仕草を観察しようと試みた。腕の組み方、どちらの腕が上か、体の傾け方、手の動かし方、考えている時に無意識に出る言葉などを隈なく見れば何かヒントがありそうなものだ。そのポイントを伝えてあげれば、どれか一つくらいは当たるはず。真面目な部分がほとんどだが、どこかクイズに答えるようなワクワク感で探していた。
「その人差し指と親指をあごに挟む仕草は違いますか?」
「あ、これかね? これは違うな」
「じゃあ、これとか?」
矢継ぎ早に該当しそうな仕草を生野さんに聞いていった。本当にクイズに答えるような感じになってしまい、意地でも当ててやろうと当初の目的からかけ離れていったことに気づいていたが、面白くなってしまい止められなくなってしまった。生野さんにとっていい迷惑だ。自覚しているのに止められないのはもはや重症だ。
しかし迷惑そうな顔をせずに丁寧に答えてくれる生野さんは、どこか楽しそうだったのを感じ取っていた。昔もこういうことがあったのだろう。
「ふふふ・・・ そういえば結衣も気になることがあると、そうやって私が答えられなくなるくらい、たくさん聞いてきたな。それでいて自分でわかりだすと一気に静かになって、勝手にいつもどこかへ行ってしまう。結婚した当初はそれが疎ましかったが、慣れてくると面白くもあった。わざとわからないことを聞いて、私に聞いてくるように仕向けたりしたなあ。あの頃が懐かしいよ・・・」
しまった。心の琴線に触れてしまったようだ。そんなつもりではなかったのに。でも結衣さんのことが聞けたことに少し暖かい気持ちになった。しかし私はいつからこんなに聞くようになったのだ? 普段の私とは違ったことに驚きと戸惑いが生まれていた。
とりあえず話題を変えようと慌てていたら、生野さんの病室についてしまった。
そこは病院でも一番高い個人部屋だった。この街を作り上げてきた政治家だから当然といえば当然だ。でも生野さんのことだから相部屋でも十分すぎると言いそうだ。
「ああ、驚いたかね。話では、ここはこの病院で一番高い部屋らしい。私は相部屋で良かったんだが、院長先生がどうしてもこの部屋を使っていただきたいと懇願されてな。院長先生のご好意を無下にも出来ないから仕方なくな」
やっぱり私が想像した通りの生野さんだ。この人は決して威張らない、おごりもしない。人として真っ直ぐに生きている。私はこういう大人になりたいと改めて強く思った。生野さんと会えて、少しの時間だけど濃い時間を過ごせただけで幸せだ。
「驚きませんよ。生野さんは街のために尽くしていただいて、でもそれを鼻にもかけず、純粋な思いで今日まで過ごされているのですから当然です。私が院長でも同じことをしますよ」
「そうかね? 四条さんにそう言われたらこの部屋にもっといたくなったよ」
「まあ、病室にいすぎるのが良いとは言えませんけどね。ふふふ・・・」
「ははは! 確かにそうだな! ここにいるというのは病人だということだからな。四条さんのおっしゃる通りだ」
個人部屋の広い室内に私たち二人だけの笑い声が響き渡った。
「それでは、私も自分の病室に戻りますね。明日も晴れていたら桜の木の下でお会いできれば嬉しいです」
「ああ。そうだな。私も楽しみにしているよ。今日はありがとうございました。昔話ができて、聞いていただけて楽しかったです」
「こちらこそです。辛い話もありましたけど、生野さんと結衣さんの話が聞けて楽しかったです。ありがとうございました。それではまた明日」
「ああ、また明日な」
部屋を出る前に深くお辞儀をして病室を後にした。
今日は本当に不思議な体験を何度もした。二十年分くらい一気に老けてしまいそうな不可解なことだらけだ。でもそれを戸惑いつつも受け入れてきている自分が怖くなった。普通の医師であることを良い意味で否定され、もっと違う視点から見られるような医師になれとでも言われているような気がしてきた。
生野さんの病室から二階下に降りて三部屋向こうが私の病室になる。その間、今日起きたことを思い出しては自分なりの解釈をしていた。そもそもゆいちゃんは私の一体何なのだろう。頭を打ったことでゆいちゃんと子供の頃以来、もう一度話すことができるようになったのは理解できるとしよう。それがなぜ今だったのかということだ。頭を打った次の日でも現れて良さそうなのに、なぜ今日だったのか。
不思議でしょうがないことが多すぎるが、あまり考えすぎると頭が痛くなるから今日はこれくらいにしてベッドでゆっくりして、夕食を待つことにしよう。そう思っていたらいつの間にか病室の前まで来ていた。
生野さんがいた部屋に比べるとだいぶ狭いが、私も個人部屋だ。あの日のことが病院内に広まってしまい、他の患者から詮索されないように院長から部屋をあてがわれた。長期間の休みといい部屋と言い、この病院の院長は素晴らしいのではないだろうか。この好意を無駄にしないためにも院長の評判が上がるように少しでも医師の技術をあげていきたいと思っている。
部屋には消したはずの電気が着いていた。私は新手の泥棒かと思い警戒しながら、音を立てないように静かにドアを開けた。
ベッドの上に頭を埋めている人がいる・・・ パッと見は女性だったので少しだけ安心した。しかしそれでも泥棒の可能性がある。見たことがない頭だし、なぜここにいるかもわからない。パニックになりそうなのを必死でこらえて声をかける準備をした。
「すみません・・・」
恐る恐るその女性の方に手をかけて声をかけてみたが反応がない。何故だ。もしや急病で亡くなってしまったのか。私のベッドに何かあったのか。訳のわからない陰謀説が頭に浮かんできてしまい、結果的にパニックになっていた。
「すみません・・・ あの・・・ どなたですか?」
パニックになりつつも聞くことだけは出来ていた。それでも一向に反応がない。これは本当にもしかしたらもしかするのか。医者なので死亡した人を見ることに抵抗はないが、この場合は全く訳が違う。一気に恐怖に襲われたのでナースコールを探した。ナースコールはその女性の奥にあり、この時に限ってベッドからぶら下がって取りにくい場所にあった。この時ばかりはナースコールの存在を医者なのに適当に扱っていた自分を責めた。
女性に触れないように細心の注意を払った。懸命に伸ばして今にも攣りそうな腕と手がナースコールに届こうとした時、急に起き出した女性の頭が私のみぞおちに入った。あまりの痛さに踏ん張ることができず、ベッドにそのまま倒れ込んだ。
「わ、すみません! すみません!」
謝る女性に苛立ちながら、その女性の顔をにらみつけるように見上げた。
「あなたはどなたですか? なんで私のベッドの上で頭を埋めていたのですか?」
「すみません! 実は四条先生に伺いたいことがありまして」
「だったらなぜ病室の外ではなくて、中に入ったのですか?」
「それが最初はそう思ったので、ドアをノックしたんです。でも部屋は電気が付いていないので、部屋には不在だと思い帰ろうとしたのです。その時に部屋の中からドサッ! 大きな音がしたので、もし四条さんがベッドから落ちて怪我をしていたら大変だと思い、部屋に入って電気をつけたのです」
「それはわかりました。それでなぜベッドに頭を埋めていたかはどう説明しますか?」
「はい。部屋に入るとその音がどこからしたのか分からないほど、綺麗な部屋のままでした。大きなものが落ちてもいなかったです。でも怪しい人がいないかどうかベッドの下やトイレなど点検しておこうと見回り、誰もいないことを確認しました。それで部屋を出ようとしたのです」
「それで?」
「そうしたらまたドサッと音がしたので振り返ると、落ちるはずのない枕が落ちていて、枕をベッドに戻すためにベッドまで行き、枕を拾い上げたまでは覚えているのですが、それから今まで記憶がないんです」
「その枕なんですけど、ベッドの頭部分の中央に綺麗に置いてあるんですけど、これは説明できますか?」
「いえ、できません。でも信じてください。本当にさっき言ったことが起きていたんです!」
「いまいち信用できないですが、何かを荒らした形跡もないし、とりあえず病院の警備員に来てもらって事情を話してもらいます。あなたの名前と何をしている人ですか?」
「私は深海 鈴です。この病院の看護師です」
「え?この病院の看護師? 見たことない顔だけど」
「はい。系列の病院から異動があって三日前に来たばかりで何も分からなくて。今日もカルテに載っていることで聞きたいことがあり、手術を担当したのが四条さんだと知りました」
「三日前だったら私は知らないも同然か。仕事柄、専門科の看護師は全員知っているけど、ずっと入院してたから最近の人までは知らないわ」
「そうですよね。これが看護師の名札です。ご確認ください」
「どうやら本物のようね。顔写真もちゃんと一致しているし。とりあえず正直に話しているようだから警備員は呼ばないことにします。それで聞きたいことは何だったのですか?」
深海と名乗る女性の看護師は、私が入院する前に救命に運ばれた患者のことについて気になったことを聞きにきただけだった。それは私も気にかけていた部分で確かに注意書きをしたはずが書かれていなかった。このことに気づいた彼女は看護師として優秀であることは間違いなかった。
「でもおかしいわね。いつもなら気になることは真っ先にカルテに書いておくはずなのに」
「そうですよね。他の先生方もそうですし、四条先生のカルテもいつも書いてありましたから。もちろん患者さんと向き合って、ほかにも気になることがないかチェックはするのですが、この患者さんのカルテだけ気になることが明らかなのに書いていなかったので、いつも書いている四条先生に確認したくて」
「そうだったのですね。でもちゃんとチェックしているだけで素晴らしいです。まだ四年目の私に言われたくはないでしょうけど」
「いえいえ! とんでもありません! 四条先生は私の異動前の病院でも技術だけでなく、患者さんとの関わりも素晴らしいと噂になっているのですよ。だからこの病院に異動の辞令が出たとき嬉しくて飛び上がりました!」
「いつの間にそんな噂が・・・」
「本人が知らぬ間に噂になっているから噂なのです」
「これからは色々なことまで気をつけないといけないな。変な噂が流れたら嫌だから」
「四条先生なら大丈夫です。院内の女性の憧れですから!」
「それは大げさな・・・ その憧れが受け持った患者にはじき飛ばされて頭を打って入院ですからね・・・」
「それを聞いたとき驚いたのです。あの四条先生が? って。私はそれを知らずに緊急救命室に挨拶に行ったのですが、四条さんはおろか、部屋に誰もいなかったんです。搬送されている人もいなくて静かなものでした。それで挨拶は次の日にしようと思ったら突然電話が鳴りました。
誰もいなかったですし、担当の看護師ではないのですが、その時は絶対に出なければいけないと思いました。怒られるのを覚悟で電話を取り、薬を大量に飲んだ人を運びたいという連絡を受けました。勝手に受け入れてはいけないので、言われたことをオウム返しのように繰り返していたら、先生方が一気に部屋に入ってきて、内容を確認後に受け入れ許可が降りて搬送しました。なんでもその患者さん、いくつかの病院をたらい回しにされていて、遠くてもうちの病院で治療させてほしいと救命士の方がおっしゃってました」
「え? その患者さんの名前覚えていますか?」
「ええ、市ヶ谷さんという男性の方でした。ここに来る前に窓の外を見たら中庭にいらして、四条先生とお話しされていましたよね」
「この病院に長く入院されている生野さんという方と話をしていたら、その話を隣で聞いていたのが市ヶ谷さんでした。そうか・・・ 深海さんがあの方を。」
「そのあと気になって病室にも伺ったんですけど、また同じことをするのではないかと思うほど暗い印象でした」
「ああ、市ヶ谷さんならもう大丈夫ですよ。色々なことを話して、生野さんの話などを聞いたら、一気に顔色が良くなって、暗かった印象も全然変わって、今じゃ明るい感じになりましたよ。明日にでも確認に行ってみてください。面白いくらいに変わっていますから」
「そうなのですか! それなら明日確認に行きますね! ずっと気になっていたので、さすが四条先生ですね! 肉体だけでなく心の治療も出来てしまうなんて! ますます憧れます!」
「いえいえ、そんなに褒められたものではないですから。たまたま偶然が重なっただけだから期待はしないでくださいね」
さすがに深海さんにあの説明のつかない現象のことを話ても信じてくれないだろう。それどころか、頭を打ったことで変なことを言い出したと失望させるに違いない。憧れの存在でいるならば、その憧れをわざわざ自分が壊すことはしないほうがいい。世の中には話さなくていいことと、知らなくていいことがあるのだから。
「深海さんは今日、出勤ですか?」
「いえ。今日は夜勤明けですぐ帰る予定だったんですけど、一人体調不良でシフトの前半を変わってほしいと言われてしまい、正午過ぎまで残業みたいになってしまいました。そのあとに四条先生を探していたので、きっとそれが原因でベッドに寝てしまったんですね・・・」
「労働基準法に反している働き方ですね」
「看護師の仕事は好きですけど、休憩時間入れても十五時間勤務は体に堪えますね。でも今日明日休みですし、今日働いた分は来月までは時間調整してくれるというので、遊びの時間を早めるために使う予定です」
「それがいいですね。働きすぎて体を壊したら好きな仕事でも出来なくなるし、適度に遊んでリフレッシュしたほうが健康にいいですし。何より看護師が元気がなかったら病院に来る方達が不安がって治る病気や怪我も治りが悪くなっちゃいますから」
「そうなんです! だからいつも元気でいるように心がけています!」
「ふふふ。そんな感じだと思いました。異動して三日くらいなのに、すっかり自分のペースになったみたいですね」
「はい。皆さんいい方ばかりで異動してきたことさえ忘れてしまうようなホーム感でとても働きやすいです。前の病院もそうでしたけど、それ以上です」
「院長にはお会いできました?」
「それがまだなのです。一度お会いしたいとは思っているのですが、中々見かけないのです」
「そうか、まだなのですね。院長がこの病院の雰囲気のような人なんですよ。だからそういう雰囲気な人っていうニュアンスで覚えておいてください。結構な頻度で中庭の草むしりや作業とかしてますから、そのうち会えますよ」
「そんなことまでしているのですか?」
「私も最初は驚きましたけど、庭作業中に話をする機会があってその理由を伺ってみたのです。そうしたら庭作業していると心が落ち着いて良いアイデアが生まれるのだそうです。それに病院にくる方の話が耳に入ってくることで改善点もわかるから一石三鳥、四鳥だとおっしゃっていましたよ」
「なんだか病院の院長というイメージが良い意味で崩れますね」
「院長というより、庭の管理人っていう方が似合ってますからね。あ、これは内緒で」
「もちろんです! 私も早く院長に会って、お話ししたいな」
「まあ、すぐにでもできますよ。いつの間にか庭作業していたりしますから。廊下の窓から覗いて庭の草木をいじっていたら話しかけてみてください」
コンコン。夕食を配膳する方がドアをゆっくり開けた。
「四条さん、夕食をお持ちしましたので、机の用意をお願いします」
「はい、いつもありがとうございます」
「では、夕食の時間なのでお暇しますね」
「最初の印象は悪かったですけど、こんなに楽しく話せて良かったです。今度はちゃんとしたときに会いましょうね」
「はい。先ほどは申し訳ありませんでした。私もたくさん話せて楽しかったです!」
「帰りは歩き?車?」
「歩いて帰ります。ここから二〇分くらいのところに引っ越したので」
「二十分も? バスとか自転車とか、車とか使った方が良いんじゃないですか?」
「私、小さい頃から乗り物に弱くて少しの時間でも乗っていられないので、運転ももちろんできません」
「酔い止めを飲んでも?」
「はい。飲んでも酔ってしまって。そのせいで乗り物に乗っていく学校行事は全部休んだくらいです」
「そんなに酔う人っているのですね、珍しい」
「世の中にはいるのですよ。だから近場でしか遊べなくて辛かったです。でもそのおかげか遊びに行くときは二時間くらいは普通に疲れずに歩けますし、歩く速さも早くなりました。その結果、体力が普通の人よりついて今に役立ってます」
「まさに看護師になるべく必要な体力を小さい頃からつけたってことか。役に立って良かったですね」
「今となってはですけどね。それでは失礼します」
「ごめんなさい。帰り際にさらに引き止めてしまって。気をつけて帰ってくださいね」
私はそう言いながら、リモコンに手を伸ばし、彼女がドアを出るタイミングでテレビをつけた。
テレビはちょうどニュースをやっていた。
ーー今日の十四時頃、下校途中の小学生の集団に車が突っ込むという痛ましい事故が起きました。事故にあった小学生五人全員が頭と体を強くうち意識不明の重体。うち二人は車と壁に挟まれていたとのことです。事故を起こした運転手は事故を起こす直前に大量に酒を飲んでおり、事故を起こした直後、車から降りて逃げようとしたところを現場に駆けつけた近くの住民に取り抑えられました。警察関係者からの情報によりますと、逮捕された当時ろれつが回っておらず、酒の匂いが強かったとのことです。またしても飲酒運転による身勝手で悲惨な事故が起きてしまいました。
「え?」
私と深海さんがは声を合わせ、お互いテレビに見入った。
「また飲酒運転の事故か・・・ 小学生全員、意識戻るかな・・・」
私は先ほどの市ヶ谷さんと深鈴さんの話を聞いていたため、飲酒運転の事故に胸が締め付けられ、どうしようもないほど怒りがフツフツと湧き出していた。
「・・・」
深海さんの方を見ると両手を力強く握りしめ震えている。言葉には出していないが、私と同じように怒りを感じているようだった。
「深海さん?」
「・・・」
「深海さん!」
もう一度呼ぶと体をビクッとさせて私の方を向いた。
「あ、すみません! 今のニュースを見ていたら、周りのことが感じられないくらい腹立たしくなってました」
「その気持ち、分かります・・・」
「私、飲酒運転の事故と聞くと、ものすごく怒りを覚えるのですよね。暴れたいくらいの怒りで、私自身も怒っているのはわかっているのにどうしようもなくて・・・ 怒りを止められなくなってしまうのです。自分でも不思議なのです。もちろん他の事故や殺人事件とかもそう感じるのですけど、飲酒運転は特に周りが見えなくなるほどの怒りが湧いてくるのです」
「報道でたくさん流れてしまっているからですかね。運転手の状態が状態だけに感情的になりやすい要素はありますけど」
「そうですよね。数年前から一週間に一回のペースで飲酒運転の事故は聞きますしね。それでかもしれませんね、きっと」
「ええ、きっとそうですよ。事故に合った小学生の意識が戻ることを一緒に祈りましょう。直接医療行為ができない私たちにはそれしかできませんから」
「はい。そうですね。私も祈ります。意識が戻るまで毎日・・・」
一瞬、部屋の中が静寂という沈黙に包まれた。少し違うのは祈りという行為が具現化し、暖かいものであったということだ。この空間は暖かい祈りで満たされている実感は私だけでなく、深海さんにも感じられているということだ。本人に聞かなければ分からないことだが、私がそう思っているだけで十分なので、聞くだけ野暮だ。
少しの沈黙の後、先ほどの配膳の係りの方がお盆を持って入ってきた。
「あ! そろそろ本当に帰りますね。失礼します」
「車には気をつけてくださいね。さようなら」
「はい、気をつけます! さようなら」
深くお辞儀して彼女は病室から出ていった。私はその様子を見て、お辞儀する仕草がなんとなく深鈴さんと同じようだと思っていた。お辞儀をする角度、歩いていく後ろ姿が似ていた。飲酒運転のことにあれだけ怒りを表すのも深鈴さんが市ヶ谷さんを庇って引かれた経験があるからかもしれない。
もしそうであっても、深鈴さんに聞きたいことを伺ったときに「深鈴さんを見つけるのに時間がかかった」と言われたことから、こんなに近くに深鈴さんの生まれ変わりがいるとは考えにくい。他人のそら似だろう。でもゆいちゃんに今度会ったらダメ元で聞いてみることにした。