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明延鉱山鉄道 その3 明神電車②  文化財になった! 二度と同じものは 作れない車輛編

 明神(一円)電車を初めて見た時の我々の感想は、「現実離れしている」、「世にも珍妙」、「無骨で不器用」、「素人が作っているうちにパニックになって放り出した」、「二度と同じものは作れないだろう」、「オリジナリティーの極致」、「妙に生き物的」といったものであり、これをそのまま縮尺して模型のコンテストに出したら工作不足で落選! するのではないかと思えるほどでした*。ところが、私が訪問して40年を経て、文化財と なってしまったのです**。
 大手のメーカー製だった機関車は、工学的・技術的に価値のあるものでしょうが、客車などの現場の手作り車輛は、作った本人が気恥ずかしいのではないでしょうか。鉄道車輛の保存は継続が一番難しいと感じていますが、 文化財となったからには、現状以上の形でずっと保存して頂けると期待  出来るので、うれしい限りです。
 明神電車①では、列車としてお話ししたので、今回は愛すべき車輛を一つ一つお話ししたいと思います。見たことをお話しする事としてしていますので、物足りない方もあるかもしれません。車輛の諸元などに興味がある方は末尾の資料**、***などを参考にしてください。


1 機関車

 明神電車には5tクラスの機関車が使われていました。訪問時に出会えたのは4両でした。文化財に指定されたのは、「No18」と「5」の2輌です。

1-1 No15

 くろがね号・わかば号編成の神子畑に連結されていました。三菱電機のメーカー製の機関車です。1977年に訪問した時の、パンタグラフはひし形でした。

<No15 明延地区       1977年>

1980年に訪問した時は、パンタグラフがZ形になっていました。

<No15  明延地区       1980年>

いつもひどく汚れていて、ナンバープレートの5の字が汚れて読み取れなくなっていました。

後側の姿です

<No15  明延地区       1980年>

バック運転が基本なので、本当は、どちらを前と呼んでいたのか分かりません。ライトの横の丸い部品はサイレンで、手回し式でした。

車軸の部分です。

<No15 明延地区  車輪付近     1977年>

三菱のネームプレートがまぶしかったです。さすがメーカー製なので、しっかりした作りですが、良く見ると、鉄棒が後付けされています。どの機関車にも取り付けられていたようです。アップしてみると、ブレーキシューの 摩耗粉掻き取っている様にも見えますが、何のためにつけられていたか、 良く分かりません。

1-2 No18

 1977年に訪問した時、くろがね号・わかば号編成の明延側に連結されていました。No15と同じ形式の機関車です。兵庫県指定文化財として、「あけのべ 憩の家」で保存されています。

<No18 明延地区       1977年>

この車輛もひどく汚れていたので、ナンバープレートが読みにくく、ずっと13だと思っていました。
1977年の訪問時はひし形パンタグラフでしたが、現在保存されている 車輛は、Z形パンタグラフに変更されていました。

後側の姿です。

<No18 明延地区       1977年>

1-3 5

 1980年の訪問時に、くろがね号・わかば号編成の明延側に連結されていました。兵庫県指定文化財として、「神子畑選鉱場跡」に保存されています。

<5 明延地区        1980年>

ひし形パンタグラフでした。保存車両も同じなので、最後まで更新されなかった様です。No15、18とは違う形式の機関車で、製造メーカーは良く分かりません。この形式にもサイレンが付けられていました。

1-4 4

 1980年に訪問時にあおば号編成に運用されていました。 神子畑側に連結されていました。

<4 明延地区       1980年>

「5」と同じ形式の機関車と思います。こちらは、Z形パンタグラフでした。

2 客車

 くろがね号、わかば号、あおば号の3輌ありましたが、くろがね号と  わかば号が文化財です。わかば号とあおば号は同形式といってもいいように思いますので、形式は2つでしょうか。同形式といっても、調達できる部品と材料を使って工場にある機械で作ったら、同じ様なものが出来たのじゃないでしょうか。(暴言すみません)

2-1 くろがね号

 唯一のボギー車で一番の大型車、メインのダイヤで運用されていました。

<くろがね号  明延地区        1980年>

 前灯が付いていますが、保存車両では残っていない様です。前灯が付いている方がかっこ良いです。屋根の3つの突起はベンチレーターでは無く、室内照明灯用ボックスです。妻面がカーブしていて、湘南電車風に金太郎塗装がなされているのが昭和を感じさせます。当時の流行デザインを意識しているところはさすがです。

車内です。

<くろがね号車内 明延地区       1977年>

私には天井に頭が当たる高さでした。シート間も 狭いので、背をかがめて文字通りに顔と膝を突き合わせて乗車していました。窓には 内側から厳しく鉄格子が嵌められており、外に手を出せないようになっていました。天井の四角い穴は、屋根に突き出た電灯ボックスで、裸電球が入っていました。

台車です。

<くろがね号台車 明延地区       1977年>

工場内の鋼材を組み合わせて、上手と言っていいか分かりませんが、要領よく作られています。台車は重要な部品なので、市内電車でも初期の頃はわざわざ輸入していたほどですが、自作とはさすがです。単車のわかば号より、乗り心地が良かった事を書き添えておきます。

機関車との連結部分です。

<くろがね号・No15 明延地区       1977年>

鉱車と同じ「ピン-リンク式」の連結器でした。電灯用らしい電線ケーブルが1本だけつながっていました。

2-2 わかば号

 くろがね号とのセットでメインのダイヤで運用されていた、切妻屋根の 
単車の客車です。

<わかば号  明延地区       1980年>

国鉄の車輛の様に、裾を絞って乗客スペース確保する洗練されたデザインにびっくりです。今になって気が付きました。

車内の写真です。先日、保存施設を訪問して撮影しました。

<わかば号  あけのべ憩の家にて保存          2024年>

1977年に乗車した時は、鉄格子のある窓が固定されていて、狭い車内に入ると囚人護送車の様でした。保存車両に再乗車した時は、開くように直されていたので安心しました。奥の壁の電灯ボックスに穴が開いていますが、裸電球を取り付けると車内・車外兼用となり「合理的」な設計です。ただ、当時は電灯ボックスが横向きでした。また、雨漏りがすごかったですが、今はどうでしょうか。真っ暗なトンネル内で裸電球が消えたり点いたりする中で、天井からポタと水が落ちて来て気味が悪かっただけでなく、神子畑の 停留所で夕立にあった時は雨宿りになりませんでした。

2-3 あおば号

 閑散時のダイヤ用に運用されていたようでした。史跡生野銀山に保存されています。

<あおば号  明延地区       1980年>

わかば号と同じような設計の車輛ですが、ドアの位置が中央から、片端になっています。天井の電灯ボックスは2箇所に減っています。明延側の妻面に大きなドアがあるのは共通です。走行中に開いたらと考えると危険な設計に思えます。

神子畑側の妻面には窓がありましたが、わかば号は2枚、あおば号は1枚でした。

<右からあおば号、くろがね号,No15 明延地区       1980年>


3 電動モーターカー(あかがね号)

 あかがね号としろがね号の2輌があり、共に文化財に指定されて明延地区に保存されています。しろがね号は車庫に入っている姿しか見ていないので、あかがね号についてお話しします。

あかがね号の運転席側です。

<あかがね号 神子畑(運転席)側      1977年>

この車輛にも手回しサイレンが付いています。ひし形パンタグラフでした。

片運転台式なので、こちらは客室側です。

<あかがね号 明延(客席)側      1977年>

窓に鉄格子がついています。さらに運転席から遠いですが、明延に帰って 来る時に、この窓から前が見えるのでしょうか。

山側の側面です。

<あかがね号 山(乗降)側      1977年>

3列クロスシートの6人乗りで客室用ドアのある所の座席は向かい合わせでした。この車輛も狭く、荷物を抱えると座りにくかったです。運転席のドアが開いています。

大きなブレーキハンドルの向こうに見えるのは、制御器です。ハンドルは見えませんが天井に届きそうなくらいに高かったです。運転席が少し覗いていますがと床の間に余裕が全く無いので、運転手は運転席に横向きに胡坐をかいて座っていました。さぞ運転しにくいと思うのでそれはいいのですが、 さらにノッチをいれたまま顔を後に向けて、乗客とのおしゃべりに夢中になって運転しているので、生きた心地がしませんでした。これで運転できるなら、バック運転で前が見にくくてもいいはずです。

谷側の側面です。窓がプラスチック板なのが良く分かります。

<あかがね号  谷側      1980年>

確かな出展資料が見つかりませんが、種車は加藤製作所製のガソリン機関車との事です。側面をよく見ると、運転席側と客室側で台枠を継ぎ足しているように見えます。機関車の台枠で動力部分を作ったが、台枠が高くて客室の高さが確保できないので、しかたなく台枠を切断し手持ちの鋼材を継ぎ足して台枠を低く伸ばし、鉱車の車軸を取り付ける設計にしたのではないかと思ってしまいます。(たびたびの暴言 申し分けありません)

4 荷物車

くろがね号・わかば号編成の明延側には荷物車が連結されていました。

<荷物車 明延地区           1980年>

金属製の車輛ばかりの中で、木造の片流れ屋根の車輛でした。乗客も使っていたようですが、停留所の建屋に「鉱務↔分析」と書かれた試験サンプルを入れた箱が置いてあったので、そんな、社内便の輸送に使っていたのかもしれません。

5 ローラー式パンタグラフ

 明延鉱山鉄道の大きな特徴の一つが、パンタグラフの摺動面にローラーを使用している事です。他に、串木野市の鉱山鉄道で見たことがありますが、珍しいです。楽しいです。架線が低いので、走行するとパンタグラフの  ローラーがくるくる回るのが良く見えて、ユーモラスでした。しかし、  昔の事で記憶があいまいな上に、写真を見ても良く分からなかったので、 先日 保存施設で見直してきました。

電気機関車 No18のZ形パンタグラフです。

<No18 あけのべ憩の家    2024年>

確かに摺動部がローラーになっています。今でもくるくる回転しました。

電気機関車 5のひし形パンタグラフです。

<5 神子畑選鉱場跡   2024年>

カバーが付いているので車輛の全体写真では分かりにくいのですが、下から見るとローラーになっているのが良く分かります。今にも、回りそうに見えます。

 <最後に>
 こうして、下手な写真を一枚一枚見直してみると(時間がかかりましたが)、スピードが上がらないのに大きな音だけ立てて、ユラユラ走行する 40年以上前の鉱山鉄道の姿が目に浮かぶようになって来ました。    もう一度、ローラーパンタをくるくる回して走る姿を見てみたいです。


*       当時同行した鉄道研究会の先輩が残されて手記に、生々しい感想が書かれていたので転用させて頂きました。
・せのはち 2号(1978年) 広島大学鉄道研究会 会誌 「明延泥酔記」
・軽便を求めて (2021年)「明延鉱山」<鉄道研究会の先輩が成果を  まとめられた手記>
**  養父市ホームページ「明神電車車両が兵庫県指定文化財に指定!」
*** 養父市ホームページ パンフレット 「明延一円電車」

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