三島由紀夫「命売ります」
吸血女とおじさんからの手紙や、主人公が命を売る代わりに面倒なペットの世話を頼むことから、
始末に困るものの面倒を見させられ、搾取されながら精気のない日々でお金を稼ぐことは、世間一般の日常であるが、本書においては「ゴキブリになる」という意味だ。
ゴキブリは新聞紙のインクに例えられていることから、特徴のない量産的なものの集合体(他の書評ではゲシュタルト崩壊のイメージを用いていた。それがピッタリな気がする)又は意味の無いものの集合体、を意味している。
主人公はそのゴキブリが嫌になってライフフォアセール社を始めたのだから、世間の思う一般的な日常への批判がこの本には含まれていると考える。
最終的には、警察に助けを求めた時に、「命を売るやつはクズだ」「定住して面倒を見るのが当然だ」と言われ、主人公が泣くのだが、これは、世間から理解されない著者の死生観のように思えた。
ここまで読むと、まるで著者は意味のある人生を生きろと言っているように感じるが、そういうわけでもない。
人生は(死を含め)ありのままを受け入れれば単純である、と言っているし、
毒入り人参と無毒の人参の例を用いて、まるで人生は意味があったりなかったりするかのように存在するが、これはトリックで、そもそもどちらでもない、とも言っている。
しかし、このニヒリズム的な考えは人生の他に対する言い訳の手段を探求した結果辿り着くようなものではなくて、ある日突然降ってくるものらしい。
この主人公は、突然命を売りに出すこと(無意味)からはじめて、意味付けのゴキブリ的人生を送りだした、ということだ。(多分)
ゴキブリ的な人生を批判し、自身の命を売りに出した主人公が最後に泣いたのは、自分がヒッピーの一員だと悟ったからなのか、世間に理解してもらえないことからくる寂しさなのか、それとも、変わることのないゴキブリ的社会を憂いているのか…
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