なぜ統計は生物学的な現象を説明できないか

AKIRAです。
本日は、以前の記事の続きから。


統計の位置づけ

この記事において、私は統計に科学的な現象を証明する効力が存在しないことについてお話ししました。
しかし、一般の方にとってこのような研究や実験の世界は隣の国どころか隣の星レベルの生態系の話のように聞こえてしまうはずです。

平たい話が、「お前の言ってることは難しすぎてわからん」と。

おっしゃる通りで、私のつたない国語力では皆様に本質を分かりやすくお伝えすることは難しいかもしれません。ただ、今の技術革新に使われている科学的論理性は悪用され、それが皆様のような国民に公示されるときに、一種の暗示のような使われ方をされていることを、私の記事を読んでくれている皆様には知っておいてほしいのです。

「統計学」はまさしく正しい使い方をすれば便利なツールであるのに、悪用すれば全く科学的でない結論を導いてしまう。
科学における統計学の位置づけについて、今一度、私から説明させていただきたく思います。

何度も言うが、統計学では因果関係を立証できない

前回の記事でも申し上げた通り、統計学はあくまでも物理的な数字の変化や大小を追い、数学的な解析法を用いて理学的な根拠をもとに、事象の関連性の説得力を補強するための手法です。

決して統計そのものが科学的関連性を証明できる道具ではない、ということです。

これは、この先人類がいかなる科学的発展を遂げた未来であっても永久に変わることのない数学的研究モデルの限界ともいえるでしょう。
もちろん、だからと言って統計学が何の役にも立たないツールであると言うつもりはありません。いくら理学的な機序があると言っても、現実の世界では、実験的・ヒューマンエラーなどによって実験データがぶれることがあります。そのブレたデータを解析に含めるか、そうせずに除外するかの判断には数学的な解析は非常に便利で説得力があります。言ってみれば、データのノイズをきれいに除去するための非常に優れた手法であるとも言えます。

私がこの記事を通して言いたいことは、統計学本来の利用の仕方とは違う使われ方をしているがために、学者視点では異様に映るということです。

「理学的な」根拠

大事なのはこの一点。すなわち、統計学的な相関性が見られた事象に、どれだけ「生物学的な意味を見出せるか」?
その「意味」を示唆する確かな証拠、それが理学的な根拠です。

統計学的な解析では、「たまたま数字の動きが似ているだけ」(例えば、婚活ブームが日本で巻き起こったとして、一方で同時期に出生率が増加していたとしても、実際に結婚した人たちが子供をつくる確率は様々な条件に左右され、結婚から出産までにはインターバルがあるなどの前提条件で「結婚」と「出産」の因果関係は証明できない)という場合があるので、厳密な条件検討もしていない中途半端な因果関係の検証をしていることがしばしばです。

しかし、こんな場合でも数学的な解析は実際の科学的現象に依存することなく相関性を示してしまうので、尚たちが悪いという側面があります。
したがって、特定の生命現象の存在を主張したければ、まず最初に「理学的な根拠」が必要になってくるわけです。

人は必ず病気になるけれども、生涯健康そうな人はいます。しかし、それはあくまでも健康“そう”なだけで、実際の身体の中はどうなっているかまではわかりません。
そのリスクを明確に可視化できるまで検証を重ねるツールが科学であり、またそれを検証できない理由があるのであれば、それは端から手を出してはいけない禁忌の技術だということです。
統計学という一辺倒のツールに頼りきりでは、正確な生命現象を観測することができないというのが私のスタンスです。・・・というよりもコンセンサスがとれている概念だと思っていたのですが、違うのでしょうか。

もしかするとまだ時間がかかるのかもしれない

こうなると、正常な検証はさらに先の未来にお預けになるかもしれません。
誰が正しいだの、どれが正しいなど、そんなおこがましいことを申し上げるつもりはありませんが、もう少し疑う目を持ってもよいのではないかと思わざるを得ません。

以上、ただの生命科学技術者のボヤキでした。


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