かつて石原慎太郎が都知事だった時代、東京オリンピック招致や首都機能反対、民主党の躍進など、激動の都政をともに走り抜いてきた政治家たちが、昨年からポツポツと鬼籍に入ったのは、ただの偶然なのだろうか。
「都議会のドン」の名演説
たまたま私が都庁担当だった時期、内田さんは民主党旋風に吹き飛ばされて「前都議」だったので、残念なことに直接お会いして話をすることはほとんどなかった。現職だろうが、前職だろうが、内田さんの都庁における威厳は変わらなかった。当時の都庁の幹部は、内田さんの肩書など関係なく、内田詣でを繰り返していた。落選していても、都庁内から「内田さん」の話は漏れ伝わってきた。
このnoteでは幾度も繰り返してきたが、小池百合子が都知事選で叫んだ〝都議会のドン〟という呼称は、彼女が描くほど単純でもなかった。その是非はともかくとして、内田さんはどの議会にも必ずいる、保守系の政治家で、暴れん坊の議員たちを取りまとめる重鎮だった。ただ、本人が望んだか、望まないかにかかわらず、彼の威厳を必要以上に大きくしてしまった原因は、石原都政にあった。
石原都政の1期目、2期目、強すぎる都知事(正確にはその側近や官僚)が、議会の意向を無視して、圧倒的な民意を味方に都政を牛耳っていた。2期目途中、石原知事の側近が民主党都議に〝やらせ質問〟を働きかけ、ありもしない疑惑をてこにして、都政の主導権を一気に握ろうとしていた。当時都議会議長だった内田さんをはじめ、都議会自民党が逆襲し、側近を更迭に追い込んだ。3期目以降、石原都政は、絶大な石原人気とは裏腹に自民党主導の都政に逆戻りした。そういうなかで、自民党は石原人気を利用して、都庁に二度目の東京オリンピックの招致という、悪夢のような大規模プロジェクトをやらせたのである。
当時、私の上司は、「これは、自民党都連と石原ファミリーのたたかいだ」と評していた。
なるほど、石原都政の歴史を一言で言い表せば、「自民党都連と石原ファミリーのたたかい」である。
今日はそのことは長々とは論じない。
ちょっと長くなるが(いや、めっちゃ長いやん…w)、内田さんが議長だったとき、百条委員会に証人として出席した際の発言を紹介しておきたい。
石原都政は、地方自治における二元代表制の原則を突き崩すパワーを持っていた。強すぎるリーダー。知事案件の追認機関と化した翼賛議会。そういう現状を憂えて、内田さんがたたかっていたことがうかがい知れる名演説である。こういう実態は、石原都政が自民党主導となった後も是正されることなく続き、ついには内田さん自身が、やる気が失せた石原知事に4選出馬を要請するという、決してやってはならないババを引いた。
その結果は、ご覧の有り様である。
もう一つ、当時の石原都政下の東京23区で、自民党都連、もっと言えば内田さんの意向で静かに行われていたのが、都議会議員の天下り先としての「区長」化だった。2000年の都区制度改革まで、特別区の区長は公選とはいえ、しょせんは東京都の「内部団体」の「長」でしかなかった。だから、ほとんどが助役(現在の副区長)、教育長などの官僚出身の区長が大半を占めていた。それがいつの間にか、自民党都議出身の区長が増えて、区長会のなかで一定の影響力を占めるに至った。
これはこれで、一定の功罪があるのだが、そこは長くなるのでやめておこうと思う。自民党都議出身区長の代表格が、山﨑孝明さんである。
昭和の再来夢見た五輪招致
新聞各紙が孝明さんの功績を「地下鉄8号線の建設」としていて、記者たちはなにを言っているのかと頭を抱えた。地下鉄8号線は、誰が区長をやったとしても、東京都の豊洲新市場建設とセットになっただろう。こんなちっぽけな、まだ完成すらしていない地下鉄が功績だったのか。本人が聞いたら、「なにを?ふざけやがってぇ…」と苦笑いしていたに違いない。
孝明さんは、石原都政時代の2006年、最初に2016年東京オリンピック招致に手を挙げた際の「都議会オリンピック招致特別委員会」の委員長である。そして、「都議会五輪招致議員連盟」の会長である。2016年招致は失敗したが、2020年につなげられたのは、最初、手を挙げた人がいたからだ。石原都政3期目に入り、都政に対する関心が薄れていた石原知事の数少ない〝おもちゃ〟となった。
東京五輪とはいえ、当時の計画ではベイエリア中心に競技会場が配置されていて、メインスタジアムすら臨海地区にあり、実質的な江東五輪と言ってもさしつかえない。そんなんだから、多くの都民にとってはあまりピンとこないイベントで、支持率は低かった。
猪瀬都政で、ようやく2020年五輪の招致が決まり、都庁がオリンピックカラーに染まった。
都庁の第一本庁舎と都議会棟の間にある都民広場で、ライトアップされた都庁を見上げている2人の老人がいた。暗かったが、すぐに分かった。
内田さんと孝明さんである。
2人は仲良く肩を並べ、何を語るわけでもなく、無言で、ライトアップされた都庁を見上げていた。
その2人の背中を、いまも鮮明に覚えている。うれし涙で震えているわけでもない。あまり表情が変わるわけでもない。ただ、静かに暗い夜空にそびえる都庁を見上げている。ときどき、ボソボソと言葉を交わしていたようだが、よく聞こえなかった。
まるで、少年のようだった。
彼らにとって、オリンピックとは栄光の昭和の再来だったのだ。少年時代の熱狂の再来だったのだ。東京に高速道路が張り巡らされ、近代的なビルが建ち並び、地下鉄が広がり、国際都市として発展してきた。あの躍動感ある東京。「復興五輪」という名目はあったが、それはたまたま、震災があったに過ぎない。
やはり、東京五輪は、ひとえに東京の、しかも1964年東京五輪の再来だったのだ。
2020年、新型コロナウイルスの感染拡大で、当時の安倍晋三首相が東京五輪の延期を決定。さらに、翌年、菅義偉首相のもとで、無観客開催が決まった。昭和の少年たちの夢を、令和のウイルスはもろくもぶち壊した。にもかかわらず、東京はまだ1964年を追い掛けるかのように、あたかも一極集中が続き、人口が増え続ける前提で、大規模開発が目白押しである。
地下鉄8号線なんて、その中のちっぽけな公共事業の一つに過ぎない。
正直、都議会自民党幹事長まで務めた孝明さんが江東区長の椅子に納まるのは残念に思えた。人望もあるから、議長にもなれただろうし、内田さん落選中には〝都議会のドン〟として君臨できたのではないか。
江東区長としての孝明さんは、東京全体というより江東区の課題にのめり込んでいたように見えた。区長としての実績が「地下鉄8号線」と言われるところが、何よりもの証拠だ。中央防波堤埋立地の帰属問題を江東区の完勝で決着させたことなど、もうみんな忘れているのではないか。過去のごみ問題があるとはいえ、あれだけあからさまに露骨な被害者意識を面積で表現されてしまうと、さすがにうーんと唸ってしまう。
内田さんはおそらく、数々の自民党出身都議に対して期待していたのは、ちょっと違っていたのではないかという気がしている。もっと、東京都(庁)のことを意識してくれということだったのではないか。
こうした考えは、私の妄想でしかないが、今となってはお二人に確認しようがない。
「中間区」を一躍先進都市に
東京23区を三つに分けると、「都心区」「中間区」「周辺区」に分けることができる。「都心区」とは千代田区や中央区、港区といった、都から交付される財政調整交付金に頼らなくても行政水準を維持できる区で、お金持ちがたくさん住んでいる。「周辺区」とは練馬区や足立区、江戸川区のように、財政調整交付金に頼らないと最低限の行政水準を維持できない区だ。それらのどちらでもない「中間区」というのがある。例えば、中野区や荒川区、豊島区のことである。
「中間区」は中途半端だ。JRの駅があるから、それなりの繁華街はあるが、そうした商業の収益による税収は東京都に吸い上げられる。一方で、人口はあまり多くなく、面積も狭いから、財政調整交付金は意外に少ない。住民の多くは一般的な会社員や大学生、そして高齢化率が高い。
だから、「中間区」の行財政運営は、なかなか難しい。中野区にせよ、豊島区にせよ、バブル経済崩壊時には財政調整基金を使い果たして、在世危機に陥ったこともある。東京のど真ん中なのに。
高野氏は、そういう区財政が逼迫していた時期に区長に就任し、お金もないのに、旧区庁舎の立地をフルに生かして、独自の〝錬金術〟で新庁舎を建設してしまった。この方法でなければ、新庁舎建設はもっと遅れていたかもしれない。
2014年5月、有識者で構成する「日本創成会議」が、「消滅可能性都市」の一つとして豊島区を挙げた。東京のど真ん中、池袋を擁する豊島区が「消滅」するというショッキングな報告を覚えている方もいるだろう。高野区長は、次々と子育て支援や女性支援、文化振興を打ち出して、〝風評〟の払拭に躍起になった。
「消滅可能性都市」の設定が稚拙だったこともあるが、豊島区の人口はこの9年で増えはすれど、減ってはいない。
この9年で豊島区が打ち出した政策が、果たして成功していたかどうかは疑わしい。区がどうしようと、東京一極集中の流れは止まることはなく、人口は増えていただろう。ただ、「中間区」という微妙な立場の自治体が、大してお金があるわけでもないのに、それなりに都市としての発信力を持ち、元気な街であることをアピールし続けたことは非常に興味深い。
彼らの時代、自民党は強かった。国会議員であれ、地方議員であれ、政権与党としての矜持があった。私とは考え方の違いはあれど、これらの保守政治家からは多くのことを学んだ。仕事柄、たくさんお世話にもなった。
改めてご冥福をお祈りしたい。