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石原慎太郎の後を追った都政の重鎮たち~内田茂、山﨑孝明、高野之夫

 かつて石原慎太郎が都知事だった時代、東京オリンピック招致や首都機能反対、民主党の躍進など、激動の都政をともに走り抜いてきた政治家たちが、昨年からポツポツと鬼籍に入ったのは、ただの偶然なのだろうか。

「都議会のドン」の名演説

 東京都議会議長や自民党都連幹事長を歴任した元都議の内田茂(うちだしげる)さんが21日、都内の病院で死去した。83歳。東京都千代田区出身。葬儀・告別式の日時、場所は未定。関係者によると、病気療養中だった。
 千代田区議を経て1989年に都議に初当選。2009年の落選を挟んで17年まで通算7期務めた。党都連の幹事長は05年9月から11年間務め、中央政界にも影響力があった。
 16年の都知事選に出馬した小池百合子知事は、党都連の意思決定が不透明だとして「ブラックボックス」と批判。当時幹事長の内田さんにも「都議会のドン」と矛先を向け、対立が取り沙汰された。

東京新聞2022年12月21日付

 たまたま私が都庁担当だった時期、内田さんは民主党旋風に吹き飛ばされて「前都議」だったので、残念なことに直接お会いして話をすることはほとんどなかった。現職だろうが、前職だろうが、内田さんの都庁における威厳は変わらなかった。当時の都庁の幹部は、内田さんの肩書など関係なく、内田詣でを繰り返していた。落選していても、都庁内から「内田さん」の話は漏れ伝わってきた。

 このnoteでは幾度も繰り返してきたが、小池百合子が都知事選で叫んだ〝都議会のドン〟という呼称は、彼女が描くほど単純でもなかった。その是非はともかくとして、内田さんはどの議会にも必ずいる、保守系の政治家で、暴れん坊の議員たちを取りまとめる重鎮だった。ただ、本人が望んだか、望まないかにかかわらず、彼の威厳を必要以上に大きくしてしまった原因は、石原都政にあった。

 石原都政の1期目、2期目、強すぎる都知事(正確にはその側近や官僚)が、議会の意向を無視して、圧倒的な民意を味方に都政を牛耳っていた。2期目途中、石原知事の側近が民主党都議に〝やらせ質問〟を働きかけ、ありもしない疑惑をてこにして、都政の主導権を一気に握ろうとしていた。当時都議会議長だった内田さんをはじめ、都議会自民党が逆襲し、側近を更迭に追い込んだ。3期目以降、石原都政は、絶大な石原人気とは裏腹に自民党主導の都政に逆戻りした。そういうなかで、自民党は石原人気を利用して、都庁に二度目の東京オリンピックの招致という、悪夢のような大規模プロジェクトをやらせたのである。

 当時、私の上司は、「これは、自民党都連と石原ファミリーのたたかいだ」と評していた。

 なるほど、石原都政の歴史を一言で言い表せば、「自民党都連と石原ファミリーのたたかい」である。

 今日はそのことは長々とは論じない。

 ちょっと長くなるが(いや、めっちゃ長いやん…w)、内田さんが議長だったとき、百条委員会に証人として出席した際の発言を紹介しておきたい。

平成17年_社会福祉法人東京都社会福祉事業団による東京都社会福祉総合学院の運営等に関する調査特別委員会 本文 2005-05-12

 私は、地方自治体、地方議会に参画してちょうど三十年になります。この間、区議会、都議会を経験し、区政は区民のものである、都政は都民のものという信念で、どのような会合に出ても、私は、地方自治について参加をしてください、一緒に行動をしてください、こういうことを申し上げながらこの三十年間を過ごしてきたわけでございます。
 地方自治体は、ご承知のように二元代表制で構成されております。そして、対等の関係であると位置づけられています。しかし、全国三千三百余の地方自治体、さまざまな自治体の議会の皆さんとお話をするときに、よく車の両輪という言葉を使って、まあそういっているけど、執行機関側の車輪が大き過ぎて、まさに隷属的な機関になっているのは現状否めない、よくそういうことをいわれております。なれば、議会として変えていけばいいじゃないか、私はそういう思いで、またこの三十年間、議員として議会の中で活動をしてきたつもりであります。
 私は一年半余前の議長就任のときに、二元代表制の一元を担う議会という言葉を使わせていただいて、あえてこの二つの組織がお互いに緊張し合い、切磋琢磨してこの行政運営をしていくことが、究極は、その地域の住民、そして地域を構成するすべての人々に対する行政サービスにきちっとはね返っていくんだ、こう申し上げて、私は議長あいさつをさせていただいたわけでございますが、一貫して私は、議会の子としてこのことにずっと邁進をしてきたわけでございます。
 ですから、今、地方分権がいわれ、そしてこの地方分権がなぜいわれているのかというと、やはり政策官庁は国にあり、そして地方自治体はそれを行う事業体にすぎない、いわゆる三割自治、こういわれてきた事実を脱皮して、二十一世紀、本世紀は地方自治の時代だ、地方主権の時代だ、こういわれている中で、地方自治体が政策自治体に変わっていかなければいけないし、同時に、議会もその権能を高めて、そして政策自治体に、政策議会に変わっていかなければいけない、こういう思いでさまざまな取り組みをさせていただいてきたところでございます。
 私は都政に平成元年に参加をさせていただきました。そして、たしか平成三年、三年を経過したときに幹事長代行という職を受けて、予算特別委員会の中で、当時の鈴木知事に対して地方分権という一項目の質問だけで質疑を展開させていただいて、そういう中で、地方分権の究極の地方の税財政の確立を図っていくために起債制限の撤廃をしてほしい、こういうふうに申し上げたことがございます。
 知事は、この地方自治をつくった、ある意味では生みの親であったわけでございまして、私は、そのつくった国の立場から、実際に地方自治を運営して隘路はなかったのか、そういう思いを込めて聞いたわけでございますが、残念ながら鈴木知事は、この起債制限の撤廃は要望できない、こういうふうにおっしゃられたのであります。
 私は、その後迫った知事選挙、そしてこの中で、残念ながら、当時の神様といわれた、地方自治の神様といわれた鈴木知事を支援することはできないという決意に至ったのもその理由からであったわけでございます。そして、その後、やはり地方分権、地方政府を確立していく、ただ一つ、鈴木知事は、ちょっと話は戻りますけど、その年の国に対する予算要望の第一項目に地方分権という文言を入れてくれたのであります。そして、ご承知のように分権法ができ上がっていった、大きなこの足跡になったというふうに思っております。
 我が自民党、私はその控え室の、丸の内時代でございましたけど、大きな地方分権確立推進本部というのを立ち上げて、やはり最大会派の自民党が住民の皆さんのために、地域のために地方分権をなし遂げていくのが一番我々の大きな仕事であり、それに伴う財源の移譲を図っていくのが我々の大きな責務であると心に誓って、そのことに多くの仲間の協賛を得ながら実行をさせていただきつつあるわけでございます。
 もう一方で、行財政改革基本問題特別委員会、これはまさしく議会が各会派相談をし合って、そして、今回のような全会一致でこの特別委員会を立ち上げました。そのときに執行機関が、理事者側で、委員会を運営するためによく委員会運営のひな形みたいなものを理事者側から出されるわけでございますが、そういうものがあるのかといったら、単純な、私のいうような行財政改革の特別委員会をつくるに当たっての資料はなかなかできにくいということで、我々頭を寄せ合って、ほかの会派の人にもいわゆる相談をして、一緒になってこの行財政改革の委員会を去年の九月まで、七カ年の長きにわたって展開をしてきたところであります。
 それは、昭和二十二年に新しい憲法ができて地方自治がきちっと位置づけられた中で、しかし依然として国による関与、中央集権的な色合いをしたこの地方自治法を変えるような、そういう特別委員会にしていきたい、そういう思いで真の自立を図っていきたい、こういう思いで、分権を図り、なおかつ、その分権の中で地方がまさにみずからの責任を確立していく、そのためには、東京都政でいえば、都政百年のグランドデザインを描きながら、そして、現実行われる行政改革については、その時々の社会経済情勢に応じて改革を理事者側に任せるから、しかし、この都政百年のグランドデザインを描く中で、できれば数値も入れたそういう委員会の仕上げをしたいんだけど、協力をしてくれぬか、こういう形で運営をずっと携わってきたわけでございます。
 先ほど名前を出して大変申しわけなかったんですが、名取幹事長も、当時民主党、民社党の議員として私どもに本当に共鳴をして、一生懸命この運営を手伝ってくれた、そういう経緯もあったわけでございます。
 ですから、そういう意味では、私は、こういう議会での思いを本当に、名取さんを通じて、幹事長であるから、民主党の皆さんもわかっていただく、こういう背景の中で私がいろいろお願いをしたわけでございますが、私の努力足らずか、ご理解をいただかなかったわけでございます。
 そして今、その委員会は、最後に結論をまとめて、そして石原知事に、真の石原行革大綱をつくってくださいとボールを執行機関側に投げさせていただいて、この都政が本当に全国の地方自治体の本当にリーダーとしてまさに見本的な分権を、そして都行政を、自治体運営をなし遂げていく、こういうことに今我々は思いをはせているのでございます。
 また、組織についても、理事者の皆さんは、やはり都政は、先ほど都民のものだと、こういわせていただきましたけど、みずからの組織をつくり上げていくときに、ともすれば縦割り機構、そして自分たちが運営しやすい組織をつくっている。実際は、都民が使いやすい、この地域を構成する人たちが使いやすい都政の組織にしなければいけないのでありますから、そういうことも踏まえて執行機関側にお願いをさせていただいたわけでございます。
 そして、地方の税源移譲もありますが、みずからの税財政の財源確立のために、やはり地方税の税財政議連というものを立ち上げまして、これも全会一致のご参加により成立をしたわけでございます。これはしかし、政治的な私としては意向があって、本来、執行機関がやるもの、ですから、執行機関側に、このことを契機として地方自治体で初めての東京都税調をつくらせたことによって、私たち議連の役割は終わったというふうに思っていますし、また、その税調の中で都議会の会派の数名が参加をできる体制ができたということで、議会の声もそこに反映される、こういう思いでやってきたわけでございます。
 私は、この間のさまざまな執行機関側の皆さんとのいろんな対応をやらせていただいてきたわけでございまして、同時に皆さんもそうだというふうに思っております。そういう中にあって、やはり組織が適材適所で行われてきたか。くるくる変わる都政組織、そういう中で、我々が余り変わらずに、そして質疑を行ってきた。しかし、金太郎あめみたいな答弁ばっかり返ってきて、まさに新しい組織としての知恵が結集されてきていないという、私は執行機関側にある意味では残念な思いをしながら、この間過ごしてきたわけでございます。
 石原知事が登場して、その側近の皆さんが都政に入ってきました。そしたら、この執行機関側の組織が、私の目から見ても、もっともっと崩れた形になっていった。このことは、私、議会側としては大変な残念な思いでいたわけでございます。
 そういう意味からも、今回百条委員会ができたということは都政にとっては不幸な事実であり、しかし、災い転じて福になる、福となすという言葉もあるわけでございますから、都政改革につながれば、この百条委員会も大きな役割を果たしたことになるわけでございますから、新たな執行機関と議決機関の新しい出発となる可能性に大いに期待するものであります。
 このことが都民に対する行政サービス展開に必ずや役立つというふうに私は思って、あえてこの百条委員会の場で歩を進めるような証言をさせていただいたわけでございまして、ご了承をいただきたいと思います。

東京都議会会議録検索より

 石原都政は、地方自治における二元代表制の原則を突き崩すパワーを持っていた。強すぎるリーダー。知事案件の追認機関と化した翼賛議会。そういう現状を憂えて、内田さんがたたかっていたことがうかがい知れる名演説である。こういう実態は、石原都政が自民党主導となった後も是正されることなく続き、ついには内田さん自身が、やる気が失せた石原知事に4選出馬を要請するという、決してやってはならないババを引いた。

 その結果は、ご覧の有り様である。

 もう一つ、当時の石原都政下の東京23区で、自民党都連、もっと言えば内田さんの意向で静かに行われていたのが、都議会議員の天下り先としての「区長」化だった。2000年の都区制度改革まで、特別区の区長は公選とはいえ、しょせんは東京都の「内部団体」の「長」でしかなかった。だから、ほとんどが助役(現在の副区長)、教育長などの官僚出身の区長が大半を占めていた。それがいつの間にか、自民党都議出身の区長が増えて、区長会のなかで一定の影響力を占めるに至った。

 これはこれで、一定の功罪があるのだが、そこは長くなるのでやめておこうと思う。自民党都議出身区長の代表格が、山﨑孝明さんである。

昭和の再来夢見た五輪招致

 東京都江東区の山崎孝明(やまざき・たかあき)区長が12日、ぼうこうがんのため死去した。79歳。江東区出身。葬儀・告別式の日時、場所は未定。3月27日に体調不良で入院し、療養中だった。
 江東区議2期、都議5期を経て、2007年、区長に初当選し、現在は4期目だった。19年から23区の区長でつくる特別区長会の会長を務めた。旧築地市場(中央区)の江東区豊洲への移転を受け入れるのに当たり、東京メトロ有楽町線の延伸を条件の一つとするなど都との交渉の指揮をとった。
 昨年11月、5期目を目指して立候補を表明していたが、今年3月、体調不良を理由に引退の意向を明らかにしていた。

読売新聞2023年4月12日付

 新聞各紙が孝明さんの功績を「地下鉄8号線の建設」としていて、記者たちはなにを言っているのかと頭を抱えた。地下鉄8号線は、誰が区長をやったとしても、東京都の豊洲新市場建設とセットになっただろう。こんなちっぽけな、まだ完成すらしていない地下鉄が功績だったのか。本人が聞いたら、「なにを?ふざけやがってぇ…」と苦笑いしていたに違いない。

 孝明さんは、石原都政時代の2006年、最初に2016年東京オリンピック招致に手を挙げた際の「都議会オリンピック招致特別委員会」の委員長である。そして、「都議会五輪招致議員連盟」の会長である。2016年招致は失敗したが、2020年につなげられたのは、最初、手を挙げた人がいたからだ。石原都政3期目に入り、都政に対する関心が薄れていた石原知事の数少ない〝おもちゃ〟となった。

 東京五輪とはいえ、当時の計画ではベイエリア中心に競技会場が配置されていて、メインスタジアムすら臨海地区にあり、実質的な江東五輪と言ってもさしつかえない。そんなんだから、多くの都民にとってはあまりピンとこないイベントで、支持率は低かった。

 猪瀬都政で、ようやく2020年五輪の招致が決まり、都庁がオリンピックカラーに染まった。

 都庁の第一本庁舎と都議会棟の間にある都民広場で、ライトアップされた都庁を見上げている2人の老人がいた。暗かったが、すぐに分かった。

 内田さんと孝明さんである。

 2人は仲良く肩を並べ、何を語るわけでもなく、無言で、ライトアップされた都庁を見上げていた。

 その2人の背中を、いまも鮮明に覚えている。うれし涙で震えているわけでもない。あまり表情が変わるわけでもない。ただ、静かに暗い夜空にそびえる都庁を見上げている。ときどき、ボソボソと言葉を交わしていたようだが、よく聞こえなかった。

 まるで、少年のようだった。

 彼らにとって、オリンピックとは栄光の昭和の再来だったのだ。少年時代の熱狂の再来だったのだ。東京に高速道路が張り巡らされ、近代的なビルが建ち並び、地下鉄が広がり、国際都市として発展してきた。あの躍動感ある東京。「復興五輪」という名目はあったが、それはたまたま、震災があったに過ぎない。

 やはり、東京五輪は、ひとえに東京の、しかも1964年東京五輪の再来だったのだ。

 2020年、新型コロナウイルスの感染拡大で、当時の安倍晋三首相が東京五輪の延期を決定。さらに、翌年、菅義偉首相のもとで、無観客開催が決まった。昭和の少年たちの夢を、令和のウイルスはもろくもぶち壊した。にもかかわらず、東京はまだ1964年を追い掛けるかのように、あたかも一極集中が続き、人口が増え続ける前提で、大規模開発が目白押しである。

 地下鉄8号線なんて、その中のちっぽけな公共事業の一つに過ぎない。

 正直、都議会自民党幹事長まで務めた孝明さんが江東区長の椅子に納まるのは残念に思えた。人望もあるから、議長にもなれただろうし、内田さん落選中には〝都議会のドン〟として君臨できたのではないか。

 江東区長としての孝明さんは、東京全体というより江東区の課題にのめり込んでいたように見えた。区長としての実績が「地下鉄8号線」と言われるところが、何よりもの証拠だ。中央防波堤埋立地の帰属問題を江東区の完勝で決着させたことなど、もうみんな忘れているのではないか。過去のごみ問題があるとはいえ、あれだけあからさまに露骨な被害者意識を面積で表現されてしまうと、さすがにうーんと唸ってしまう。

 内田さんはおそらく、数々の自民党出身都議に対して期待していたのは、ちょっと違っていたのではないかという気がしている。もっと、東京都(庁)のことを意識してくれということだったのではないか。

 こうした考えは、私の妄想でしかないが、今となってはお二人に確認しようがない。

「中間区」を一躍先進都市に

 東京都豊島区の高野之夫(たかの・ゆきお)区長が9日、肺炎のため死去した。85歳。葬儀・告別式の日時、場所は未定。年明けに新型コロナウイルス感染が判明し入院、退院後は自宅療養中だった。
 区内出身。区議2期、都議3期を経て1999年に区長初当選。現職の都内区長で最多の6期目だった。8日の区議会定例会は欠席していた。小池百合子都知事が初当選した2016年の知事選で、自民党都連と対立した小池氏を支援した。

東京新聞2023年2月9日付

 東京23区を三つに分けると、「都心区」「中間区」「周辺区」に分けることができる。「都心区」とは千代田区や中央区、港区といった、都から交付される財政調整交付金に頼らなくても行政水準を維持できる区で、お金持ちがたくさん住んでいる。「周辺区」とは練馬区や足立区、江戸川区のように、財政調整交付金に頼らないと最低限の行政水準を維持できない区だ。それらのどちらでもない「中間区」というのがある。例えば、中野区や荒川区、豊島区のことである。

 「中間区」は中途半端だ。JRの駅があるから、それなりの繁華街はあるが、そうした商業の収益による税収は東京都に吸い上げられる。一方で、人口はあまり多くなく、面積も狭いから、財政調整交付金は意外に少ない。住民の多くは一般的な会社員や大学生、そして高齢化率が高い。

 だから、「中間区」の行財政運営は、なかなか難しい。中野区にせよ、豊島区にせよ、バブル経済崩壊時には財政調整基金を使い果たして、在世危機に陥ったこともある。東京のど真ん中なのに。

 高野氏は、そういう区財政が逼迫していた時期に区長に就任し、お金もないのに、旧区庁舎の立地をフルに生かして、独自の〝錬金術〟で新庁舎を建設してしまった。この方法でなければ、新庁舎建設はもっと遅れていたかもしれない。

 2014年5月、有識者で構成する「日本創成会議」が、「消滅可能性都市」の一つとして豊島区を挙げた。東京のど真ん中、池袋を擁する豊島区が「消滅」するというショッキングな報告を覚えている方もいるだろう。高野区長は、次々と子育て支援や女性支援、文化振興を打ち出して、〝風評〟の払拭に躍起になった。

 「消滅可能性都市」の設定が稚拙だったこともあるが、豊島区の人口はこの9年で増えはすれど、減ってはいない。

 この9年で豊島区が打ち出した政策が、果たして成功していたかどうかは疑わしい。区がどうしようと、東京一極集中の流れは止まることはなく、人口は増えていただろう。ただ、「中間区」という微妙な立場の自治体が、大してお金があるわけでもないのに、それなりに都市としての発信力を持ち、元気な街であることをアピールし続けたことは非常に興味深い。

 彼らの時代、自民党は強かった。国会議員であれ、地方議員であれ、政権与党としての矜持があった。私とは考え方の違いはあれど、これらの保守政治家からは多くのことを学んだ。仕事柄、たくさんお世話にもなった。

 改めてご冥福をお祈りしたい。


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