映画「ハロルド・フライのまさかの旅立ち」感想 巡礼とは
気になっていたこの映画、見に行ってきました。
公開から数週間が過ぎている水曜日の午前中、座席は3分の1ほど埋まっていて観客のほとんどが年配の方でした。
映画の基本情報
日本での公開: 2024年6月
原作: レイチェルジョイス
監督: ヘティ・マクドナルド
制作会社: インジーニアス・メディア; エムバンクメント・フィルムズ
主演: ジム・ブロードベント
ざくっと感想
販促ビジュアル(特にポスター系)から受けるポップな印象はミスリードだろうと踏んで観に行きましたが、予想は的中し、心の内面や人生を重く扱うどっしりとした内容でした。とても哲学的。それとキリスト教の宗教観もあると思います(私はキリスト教徒ではないので雰囲気を感じただけですが)
まず映像が綺麗でした。
イギリスを約800km、歩いて縦断する主人公ハロルドの軌跡を追っていく際に目に入る田園風景や町並みが日本人の私にはやはり物珍しい。一面の畑?を前にした風景は映画館で観てこそ納得の雄大さでした。
そして同じような田園風景でも、ハロルドの心境によってスクリーンを観ているこちらも観たときの感じ方が違うのに驚きました。意気揚々と歩いている時はとても伸び伸びと広がりを感じられ、遠くの空には薄明光線いわゆる天使の梯子があり、目の前の風景すべてが彼の行動を祝福してくれているかのようです。
反対に旅の途中ハロルドがとても落ち込んでしまった時は、地平線まで続く広い景色が当てもなくゴールのない旅を表しているかのようで、果てのない絶望のようでした。
そして、主人公を演じるジム・ブロードベントの演技がとても良かったです。笑顔ひとつとっても、一期一会で話した相手との会話の流れ上の笑顔、ちょっと困ったと思いつつ受け入れる時の笑顔、思いもかけない嬉しい知らせに心から綻んだ笑顔。詳しくはネタバレになるので後半に書きますが、表情の変化にハッとすることがあり、その度にハロルドの本当の気持ちが垣間見えます。
笑顔だけでなく、長い旅での心身ともに重なる疲労でのやつれ具合はメイクアップの成果でもあるでしょうけれど表情にも表れていて見ていて苦しくなりました。
この映画、もともとは原作の小説があります。
原作小説の原題は "The Unlikely Pilgrimage of Harold Fry"
日本語版では "ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅" でした。今回の映画化にあたり邦題が変更になったようです。
実際劇中では主人公の旅は「巡礼」と周囲の人から呼ばれます。しかし果たしてこの旅は巡礼なのだろうか。
巡礼とは信仰にあたり宗教的に縁のある場所を訪ねまわることなのではないのか。クイーニーはハロルドの信仰の対象なのか?
私はここに違和感を少し感じながら見続けていました。この件については見終わって納得していますがネタバレに関わるので後半に書きます。
ここからネタバレ感想
物語の核心に触れますので観ていない方は回れ右です。
1度しか観ていない・原作小説を読んでいない人間の書く感想なので見落としていることもあるかと思いますが率直な感想を書きますね。
"ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅"
ハロルドは旅のきっかけとしてかつての同僚クイーニーを見舞うために歩き出します。旅のはじめの頃、彼は独りきりで歩みを進めながら、行軍歌のように、自分を鼓舞するかのように同じフレーズを呟いていました。内容は「クイーニーを死なせない」といった感じの彼女の安否を気遣うものでした。
それが(映画を見ている私としては)いつの間にか、一言もそれを言わなくなりました。そして歩みを進めるごとに、クイーニーとの距離を縮めるごとに、頭に浮かぶのは息子の思い出ばかりが増えていきます。
これは巡礼なのでしょうか。
観覧途中から過去に何があったのかはおおまかに予想できます(おそらく観ている人の大半も予想できています)。その過去を踏まえると、私にはこの旅は "贖罪の旅" だとしか思えなかったのです。
クイーニーをきっかけとしながら、彼は息子に贖罪をしたかった。もちろんクイーニーにも贖罪をしたかったのだけれど、旅の最後はもう息子のことしか考えてはいなかったように見えました。
旅のはじめはおそらくそれほど深くは考えてはいなかったのではないかと思います。
辛い思い出には蓋がされ、心の海の深い深いところにまで沈めてしまって、鮮烈だった記憶は25年経ってほとんど形を成していなかった。それでも毎日の暮らしは重苦しく、同じ境遇の妻とは辛さを分かち合えず、苦しさから逃げたいと思っていた。
ハロルドの妻モーリーンは「私もこの家から逃げたかった」というような意味合いのことを言っていましたが、おそらくそれはハロルドも同じだったのでは。
私には "クイーニーに会って彼女を救う" は、逃げるための大義名分にしか見えませんでした。
逃げといえば、途中でハロルドに合流する少年やヒッピー(?)の集団も、ハロルドをきっかけに何かから逃げてきたのだろうと思われます。その点においてはハロルドと近いのかなと。
けれど決定的に違うのは、ハロルドは何もないところから行動を起こしたのに対し、他の合流メンバーは行動しているハロルドにただ同行して乗っかっているということ。この差が最後の差に繋がるのかなと思いました。少年はハロルドをきっかけに良いほうに変われるかと思ったけど変わることができなかった。自分で目標を見つけ進む方角を決めなかったから。
息が詰まる現実から逃げたハロルドは旅中のいろいろなことをきっかけに、蓋をしていた息子との過去を思い出していきます。長い人生においてすべてを中途半端にして過ごしてきた彼が正面から罪だと思っていることに向き合う。それこそが贖罪なのだろうけど、それを巡礼と呼ぶのでしょうか。
私自身は信仰を持たないのでわからないけれど、キリスト教ではすべての人間は生まれながらに罪を背負っているらしいので、自然と巡礼というものはイコール贖罪の旅となるのでしょうか。
…とここまで考えて巡礼という単語をググってみたところ
という説明も見つけてすごく納得してしまいました。
なるほど
ハロルドの巡礼の旅は、誰に影響を与えたのでしょうか。
映画の紹介文などではまるで旅先で知り合った人に影響を与えたかのように書かれていましたが、前述の少年しかり前向きな変化に繋がった人は旅先で知り合った人にはいなかったように思います。
ゲイで(ハロルドに同行する少年とは別の)少年を買っているおじさんと、移民の女医さんがほんのり気持ちが楽になったくらいでしょうか。
クイーニーはハロルドから送られてきたハガキや生きていて欲しいというメッセージを受けて気力が湧いたようです。そしてハロルドがお土産で置いていったガラス玉がサンキャッチャーのように室内を煌めかせ、その光を見てとても癒やされていました。ここは観ていてとても報われました。ハロルドがその様子を見れていないのがいいですよね。
大きな影響としてはクイーニーくらいで、結局のところこの旅はハロルドとモーリーンが、お互いがお互いを大切に愛していたんだと気づいたという夫婦2人の関係性の変化にまとまってしまっているように感じますが、それは先程も書いた通り、ハロルドは目的に向かって歩き出した、モーリーンは逃げずに待ち続けた、と自ら行動を決めて完遂したのがこの2人だけだったからなのでしょう(クイーニーは別です、贖罪を受ける立場なので)。
自ら行動しなければ罪からも苦しみからも抜け出せない、しかし行動しさえすればそれは何年経とうと何歳になろうと変化できる、ということなのかな、と思います。
最後にハロルドの表情や様子について。
旅をはじめてから2,3週間ほど経ち、ホスピスに電話をした際にシスターから、ハロルドが送ったハガキや「歩いて訪ねるから生きていて」というメッセージによって、クイーニーの寿命が予想より伸びていることを教えてもらいます。その時のハロルドの表情が素晴らしい。思いがけない嬉しい知らせに顔が綻んで心からの笑顔になるのですが、それがとても良かった。そしてこの笑顔を見て私も気づきました、そういえばこの人映画が始まってから1回も笑ってなかったわ…。店員さんや相席した人とは会話の流れでの笑顔がありますが、心からの笑顔ってこの時が初めてです。
そして同じ笑顔が、旅先で記念写真を撮られている時に人混みの中にモーリーンを見つけた時にもハロルドの顔に浮かびます。あれ、この人モーリーンを見つけてこんな風に嬉しそうに笑うんだ?あんまり仲が良さそうではないし、彼女の心情なんて興味なさそうだったのに?とすごく意外でした。
そうなんですよ、まだ道中まんなかくらいだったと思うんですけど、モーリーンに会えて嬉しかったんですよ、ハロルドは。
もう1回観たいなぁ、観れば気づいてないことがまだ気づけそう、なんて思いますが来週からはレイトショーになるので厳しそうです。原作の小説にチャレンジするかも。
読めばまた感想を書きます。
長々つらつらと書きましたが、観終わったあとこんなに色々と考えた映画は初めてだったので書き出してみました。
ここまで読んでくださった方がいらっしゃったら、本当に本当にありがとうございました