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金鈴塚古墳2 装飾大刀

 全国でも、唯一、金製の鈴が五つ出土した金鈴塚古墳(下記参照)ですが、

 この古墳からは、加えて、合計で19振りの装飾大刀が出土しており、1つの古墳から出土した装飾大刀の数としては全国最多となっております。また、この19振りの装飾大刀は、その多様なデザインと数の多さから、相当に有力豪族の権威や文化を示すことと理解できます。
 この装飾大刀は、古墳時代後期(6世紀~7世紀:即ち、金鈴塚古墳の造営時期)に製作された直刀で、金・銀・金銅などの金属装飾が施されています。
 装飾大刀は、5世紀から8世紀にかけて日本国内で広く展開された様です。5世紀前半の導入時には、朝鮮半島の百済や伽耶からの舶載品が多く、これらの影響を強く受けた様です。その後、5世紀後半~6世紀前半では、日本国内での製作が始まり、装飾大刀のデザインや技術が発展したとされています。6世紀後半~7世紀前半の成熟期(金鈴塚の造営時期に当たる。)には、朝鮮半島系の龍鳳文環頭大刀が導入され、日本国内での製作が盛んになったとされています。これらの大刀は、地域の有力な支配者(首長)層の身分や地位を保証する威信的な象徴品として、ヤマト朝廷から遣わされ、各地の権力者が所有し、死後、その埋葬古墳に副葬されたものと考えられます。その装飾大刀も、時間の流れと伴にその形態を流行りのように変化させて行き、いくつかの種類が存在している様です。
 ここで、蛇足ですが、装飾大刀において、「大刀」と通常表現である「太刀」と、わざわざ異なる表現方法が使われています。それは、通常の「太刀」が、その後に発展する湾曲した刀を指すのに対し、「大刀」では、この時代の直線状の刀を指すのだそうです。ちょっと興味深い使い分けです。考えるに、この様な太刀を身に着け、その権威と地位を誇示する行為は、この時代から、日本では、豪族、武士、貴族、皇族、軍人と引き継がれ、戦争に負ける昭和の時代まで、1,400年以上続けて来たわけですから、日本の精神的な根幹に染みついているのでしょう。今、振り返ると、本当に恐ろしいことでした。
 さて、この「装飾大刀」ですが、現在の分類からは、まず、環頭大刀、袋状柄頭大刀及び倭風大刀に分類される様です。これらの大刀は、柄の握り端部に特徴ある装飾が施されているのですが、その装飾の種類によって分類されています。これらの大刀の柄のデザインは、朝鮮半島の百済や伽耶の影響を受けており、輸入だけでなく模倣した国内製造と、その入手経路は多岐に渡るようです。下の図は、袋状柄頭大刀であり、後の説明でも触れる頭椎大刀ですが、全体の形態を予想し、描いたものです。金銅製でありますが、当時は、光り輝いていたものと思われます。

頭椎大刀のイラスト

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