競い合うのは昨日の自分
誰かに勝つのではなく、自分を磨く
学校に通っていた頃は、テストがあって点数化され順位付けされるのが嫌だった。頑張って点数が良くなると、誰かが下がってしまうのも嫌い。たった一度のテストで、頭がいいとか悪いとか言うのだろうと思っていた。まぁ、大人の世界に入り、ちょっと甘ちゃんだったな、と今なら思う。
自由主義経済社会では、働くも働かぬも自由。もちろん、その結果、“格差”や“区別”は生まれ、至る所にある。どこに行っても競争があり、勝者と敗者が生まれる。
そもそも人間は、生きるために不可欠な“必須アミノ酸”の一部を自己生成出来ず、他の生物から貰ってくるしかない生き物。いつも、どこかで、何かと生存競争してる。
でも、せめて人間同士は、争いたくない。社会人として生き残るための争いが不可避なら、どこかの誰かに勝つのではなく、“昨日の自分を超えよう”と思いたい。去年より今年、昨日より今日、と自分自身を磨き続けていたい。
運が巡ってくるまでは努力
起業した会社では国や地方公共団体の仕事もやってきた。公共機関は機会均等を旨とし、ベンチャーであっても、大手企業等と対等に競争できたから。
もちろん、経営の安全性だけでなく、業務経歴や専門能力を持つ人の数などは、大企業とベンチャーでは比べようもない差があった。
だから、同じ競争の舞台に立てるものの、経営規模や業績等々の点で、最初から比較劣位な状態で競争が始まるので、大手企業と同じレベルの提案内容なら必ず負ける。勝ち残るには、大手企業を上回る提案力やプレゼン力が必要だ。
大企業とベンチャー企業には、社歴や業績、規模等々の差があって、区別されて当然。事実なんだから悩んでも仕方ない。格差や区別に負けない提案力やプレゼン力を身に付けるしか生き残る道はない。
“大貧民ゲーム”だって、チャンスが巡ってくれば、大貧民から大富豪になれる時が来る。ベンチャーにも、いつかチャンスが巡ってくる。
勝利を夢見て、自分たちにしかできない事を地道に努力し続けて、チャンスを待つ。努力しない人が運に恵まれることはめったにないし、仮に運が回ってきても、努力してなければ運を掴み損ねる。
幸運は、努力している人にしか現れない。