村上春樹の翻訳に難癖をつけるナンちゃん
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"Late Fragment"
And did you get what
you wanted from this life, even so?
I did.
And what did you want?
To call myself beloved, to feel myself
beloved on the earth.
「おしまいの断片」村上春樹訳
たとえそれでも、君はやっぱり思うのかな、
この人生における望みは果たしたと?
果たしたとも。
それで、君はいったい何を望んだのだろう?
それは、自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって
愛されるものと感じること。
レイモンド・カーヴァーが最後に書いた詩がこの詩みたいになっているようだけど、実際は違うらしい。最後に出版した詩集の最後の詩がこの詩。そして彼が自らの生と死について、このシンプルな語り口で綴った「最期の断片」としてはカーヴァーらしい。
ぼくにとってはカーヴァーは短編小説家というよりも、偉大な詩人。ぼくがモンタナで書き出した頃には彼はもう死んでいたけど、実際にカーヴァーと親交を交わしたビル・キトレッジがミズーラにはいた。
Hole In The Skyが出てすぐだったと思う。読んで、ビル先生はすごいと思った。彼のオレゴン州における幼少期からの出来事をつづった回想記なんだけど、この人はやっぱりエッセイストだと思う。フィクションも短編集はすでに出ていたけど、ぼくは村上春樹さんほどは感銘を受けなかった。
この詩の訳者の村上さんは、レイモンド・カーヴァーに勧められて、しばらくビルにハマったみたいな彼の文章を読んだことがある。そりゃハマるよね。全然タイプが違うし、ギリのところで生きてきた経験の重さが違うから(村上さんはそれなりに「自分って何?」と模索して、初期にはいいものを書いたと思うけど……「ハードボイルドワンダーランドと世界の終わり」は大好き)。彼自身、ビルの短編を1本、日本語に翻訳してる。「34回の冬」で、『and Other Stories―とっておきのアメリカ小説12篇』に入ってます。図書館にあるはず。
そのビルが死んだのを知ったのは半年ぐらい前で、フィル・コンドンのWEBにそう書いてあったから(フィルのことはまた改めて書きます)。
ビルの思い出は2つ。キャンパスですれ違うと必ず声を掛けてくれて、どすの利いたヤクザのような低い声で「書いてるか!(Have you been writing?)」。もうひとつは深夜のヒギンズ・アベニューをかなりひどい千鳥足でふらついていたのを見かけたこと。ダウンタウンの酒場に日常的に行ってたらしいけど、自分はぼろピックアップトラックで同じダウンタウンにある、シルバーダラー・バーで働いている友達のケビンに会いに行こうとしていて、ビル先生は(オクスフォード?からの)帰りだったんだろうね。引き返して、「ご自宅までお送りしましょうか?」と声を掛けようかとも思ったのだけど、ぜったいに野暮。歩きながら、ぐだぐだと大事な思考をしているのは明らか。
短編集は日本でも訳書が出ているけど、ぼくが何年も前に翻訳・出版しようとした前述の”Hole in the Sky"は数社に提案したけど保留のまま。「帰ってきたオオカミ」がもう少し売れていたら、出せたかもしれないけど、この手のものはやっぱり売れない。フィクションの作家としてはやはりビルは弱い。文字通り、vulnerable。書かれてる内容も弱さに挫けそうになりながらもくじけないビル少年。
文章が小難しいから、自分にはちゃんと訳せなかったかもしれない。リック・バスの文体の方が自分は比較的近いと思う。晶文社の当時の編集長がぼくのは「もうちょっと細くて弱い感じ」と評していて、言い得て妙だった。まだ生きてるのかな?……
さて、村上春樹さんの翻訳を批判する意図はまったくなくて、自分だとこんな感じの読み方をしている。
And did you get what
you wanted from this life, even so?
I did.
And what did you want?
To call myself beloved, to feel myself
beloved on the earth.
あなたは手に入れたの、
この人生でほしかったものを?
たとえそうだとしても。
ああ、手に入れたよ。
じゃ、何がほしかったの?
自分自身が愛されていると、自分自身が
この地球で愛されていると感じることを。
会話形式。
レイの配偶者であり詩人のテス・ギャラガーとの会話として、ぼくは読んでいるのです。だから、原文にはない改行を3箇所でしました。訳者としてその改行が許されるか? 許されないと思う。
「たとえそうだった」を「あなたは肺癌末期でもうすぐ死ぬ運命にあるのかもしれない」とぼくは読むから訳文が変わる。これこそ、詩。
もう詩が果たすものは、この世にはほとんどないと思う。