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足利義満の伊勢参宮

はじめに

 室町将軍の伊勢参宮のお話を少ししてみます。
 室町時代の将軍は足利氏ですが、足利氏ですと初代の将軍尊氏が最も有名です。しかし、この方は伊勢には行っていません。三代将軍足利義満が将軍では初めて伊勢に行った人物になります。
 足利義満という人は足利将軍の中では、大変有名な方でしかも10回以上伊勢参宮を行っています。
 義満以後の将軍が参宮し、また、守護大名、国人、武士さらに名主層の伊勢参宮が盛んになるきっかけを作ったのは義満であるといっていいのです。
 ここでは、この義満についてお話をしていきます。足利義満は金閣寺で知られ、政治家として南北朝合一を成し遂げ、守護の勢力を抑圧して、室町幕府の支配権を確立しました。そして、中国・明朝に朝貢し、日本国王として認められ、さらに猿楽能の世阿弥の後継者、北山文化の中心等々実に偉大な政治家・権力者であることには異論はないのですが、一方であまり人気がない方です。特に最近では天皇の地位を狙っただとか天皇になりそこなったとか様々な研究がされています。
 権力者が歴史を本当に動かすものではないと私は考えているのですが、ときには傑出したはみだした様な、世の中を引きずっていくような人物が出てきます。義満はまさにそのような人物でスケールの大きな人物であったと考えられます。

義満の生い立ちから将軍になるまで

 義満は足利尊氏の孫にあたり、三代目の将軍になります。足利尊氏、義詮、義満、その息子義持と続きます。義満の父は義詮になりますが、母は石清水八幡宮の系統で、天皇の系図に繋がっていきます。後鳥羽上皇の息子、84代の順徳天皇の系統に繋がっていきます。
 義満は前に触れましたが、日本の歴史の中で偉大な人物であるにもかかわらず、大変人気がない人物です。例えば、江戸時代以前のことは分かりませんが、江戸時代の新井白石が義満を評価しています。唯一、新井白石が褒めているのですが、褒め方がちょっと皮肉が入っていて、褒めておきながら下げています。本当は褒めていないのですけどね。
 まず、「驕恣」という言葉が出てきます。「驕」というのはおごりとか我がまま、「恣」は、勝手気ままなどという意味です。唯一褒めている新井白石でも「驕恣」という言葉が上がっていて、結果的に将軍の権力を非常に高めたということで褒めています。しかも、それが、江戸幕府の将軍の権威がこのように高くなったのは義満からであるという言い方をしているのです。ですから、よく考えてみると批判しているわけです。後の人物評を見てみると「僭上」という言葉が出てきます。驕りあがっているという意味です。それから、「傲岸」という言葉が出てきます。傲というのは傲慢という意味です。「不遜な」とか今説明したような言葉は権力者にはみんなつきものです。
 日本史上では織田信長が傲岸、不遜の典型的な権力者だと思います。秀吉もそうです。聚楽第に正親町天皇や後陽成天皇を招き、見せびらかして、天皇はいかに権力がなく、自分はいかに権力があるかということを示しています。それにもかかわらず、信長とか秀吉は人気があります。現在でも熱心な信奉者がいます。
 足利尊氏も戦前から良くないと言われていながら、なかなかの人気です。
 義満の史料というのは、史料集になるくらいずいぶんたくさんの史料があります。「大日本史料」にはそれがほとんど収められていて、様々な史料がありますが、彼自身の心情、心の動きを伝えるものがほとんどありません。行動の記録はずいぶんたくさんあるのですが、彼自身がどう思ったのかが全く分からないのです。
 脱線してしまいましたが、話は戻りまして、義満の母は石清水八幡宮の別当家、善法寺の通清の娘、紀良子という人になります。従って義満は後円融天皇の従兄弟にあたります。ちなみに、紀良子の父、通清という人は僧侶になりますが、石清水八幡宮はお坊さんの姿をして奉仕しますので、若い時には結婚もしますし、子供ももうけます。別当や権別当などに就任しますと出家して僧侶となります。


 おそらく、不遜だとか、僭上だとか、傲岸だとか、あるいは天皇になりたかったなどといわれる義満の態度の由来するところは、天皇と従兄弟であったことと母親の血統が後鳥羽天皇に繋がっているというところであり、そのようなところが朝廷の中で権力を発揮していく、そもそもの発端なのではないかと考えられます。
 義満は生まれてすぐは春王といいました。9歳のころに後円融天皇から義満という名をいただきますので、元服よりもはるか前に義満という名前になっていたわけです。ただし、この時代は名を込める呪術に使用され、呪われるため、あまり実名は一般に使いません。ですから、実名の義満はおそらく他の人は知らなかったと思います。
 義満は尊氏が亡くなった年に生まれます。そして、父義詮がその年に将軍に就任します。義満が生まれた頃の室町幕府は大変不安定で、一方に吉野に南朝があり、義満の伯父さんにあたる足利直冬の勢力が九州にあり、九州ではもう一つ南朝の勢力がありました。したがって、九州には室町幕府の出先機関の九州探題と直冬の勢力、それに懐良親王を中心とした南朝の勢力の三つ巴となっており、各地でそれらに呼応する同じような動きがある状態だったので非常に不安定だったのです。事実、義満が4歳の時に京都が吉野の軍勢に占拠されてしまいます。義満の父義詮は後光厳天皇を奉じて近江に逃げてしまいます。義満も危うく逃げて建仁寺に隠れるわけです。それから後に丹波の方の山道を通って播磨の赤松氏のもとに助けを求ていき、そこで半年間匿われます。京都はすぐに取り戻すのですが、政治的に不安定な状態でした。


 それから後、父義詮は1367年(貞治6年)義満が10歳の時に病気のため家督を譲ります。そして、その年の12月に父義詮は38歳で亡くなってしまいます。ですから、義満は若くして将軍になったわけです。この時に阿波国の守護だった細川頼之を四国から呼び寄せ、補佐役にするわけです。
 細川頼之を補佐役の管領にするのですが、それまで管領という言葉は無く、執事という、これは個人的な事務長という程度なのですが、今度は管領ということになりまして、非常に大きな権限が与えられました。この細川頼之は室町幕府の支配権力が確立するために非常に活躍した大変有名な人物、しかも有力な足利一族です。
 足利氏は関東の源氏の嫡流に当たりますが、新田氏と足利氏の二つの系統に分かれ、その足利氏の系統の最初の方から分かれたのが細川家です。また、伊勢の守護で仁木義長という有名な人物がいますが、その仁木という家も細川から分かれています。足利義兼の系統から畠山が分かれ、吉良、今川、斯波、一色と分かれていきます。足利氏は、どちらかというと、長男の系統ではなくて、末っ子の方の系統で、近世までわが国で一般的だった末子相続のような形でした。はやくから、長男、次男は出て行って、最後に残った人が跡をとるということになりました。細川氏ははやく分かれた一族なので、斯波・一色・吉良・今川・畠山というような一族とは血縁が遠くなり、有力ではあるのですが「足利氏譜代の家臣」というかたちになるわけです。細川氏というのは、それから後、活躍しまして、頼之の代にさらに隆盛となりますが、やはり斯波、一色とかそうゆう有力な人たちが反勢力として存在するわけで、これは先になってしまいますが、1379年(康暦元年)康暦の政変で、頼之が管領を解任されてしまいます。これは、斯波義将という非常に有力な人が、後押しをして追い出してしまうわけです。
 その後、義満は自分で将軍として実権を握っていくことになります。頼之の補佐がなかったらとてもこんな有能な政治家にならなかったのではないだろうかとよく言われるわけです。
 頼之の育て方がよく史料に知られていますが、とにかく、義満を幼い時から、非常に権力がある、権力があるというかたちで育てています。大変有名な話に、いつも義満の周りに「ねいぼう」という、いつも将軍を褒めそやして、頼之自身も将軍から、なんかいっては叱られて他の人に見せる。頼之というのは管領であり、補佐である人ですら子供の将軍から怒られるというような育て方をしたと。

将軍としての義満

 これから後、10代の将軍治世下の室町幕府としては、いつ有力守護たちが幕府を脅かすか、そうゆうような不安定な時期の将軍だったのです。父が早く亡くなり幼君が跡を継いで、しかも有力な補佐をした人たち、頼之の年齢は39歳ですから10歳の義満にとっては大変心強かったと思います。
 しかし、有力な守護たちがよってたかって頼之を排斥していきます。義満が元服したのはずいぶん早く11歳12月30日に征夷大将軍、三代目の将軍になります。本当はその時に花押をつくるのですが、判決を下したりすることはありませんので、さらに、4年経た後、15歳の時に初めて花押を定めて、文書に花押をしたためて決裁をしました。


 図に足利義満の花押と自署を示しました。
 図にある自署はずっと後の方に使ったもので、真ん中の列に武家様花押という列がありますが、その一番上が最初の将軍としての判始めという儀式に使用しました。
 ところで、花押というは、歴史的には花押といっていますが現在のサインです。古くはただ判といいました。
 義満の判始めの儀式、将軍としての判始めの儀式を行ったのが、15歳の11月ですから、ちょうど最初の文書の菊大路家文書の11月22日の寄進状は、15歳の義満が初めて将軍として花押を使って自らで文書を発給したという記念すべき花押になるわけです。
 次の公家様花押は1382年、これから10年後、義満が25歳の時、25歳というと本当に若いですが、現在の24歳の時に左大臣になるわけです。平安時代の貴族でも20歳代で左大臣にはなれません。実際に有力な貴族でも左大臣にこれだけ早々になることはないのです。左大臣になった時に今度は、公家になりますので、公家風の花押に変えてしまいます。真ん中の列の花押が武家の形式の花押で、三番目の列の公家風の花押と二通りの花押の使い方をします。祖父の尊氏も父の義詮もこのようなことはしません。武家の花押で通します。
 図の足利氏一門の花押にあるように尊氏の花押は「氏」という文字をもとに作った花押がありますが、その花押とまったく一緒の花押を継承していきます。義満の武家様花押もちょっと角度をかえると全くこれと一緒です。これから後、ずっとかなり後の将軍までこの系統の花押を使用します。足利氏が一番典型的な例ですが、尊氏がこの花押を使うと、義満がこの系統の花押を使う。これは武家として、征夷大将軍としての花押という風に、武家では代々同じ型式の花押を使用する例です。
 それからもう一つ「義」という字をくずしたと思われる公家風の花押は、内大臣、左大臣、さらに太政大臣と公家の世界でもトップクラスになっていく、その時に使った花押が、公家の花押です。武家としては、もちろん征夷大将軍がトップとなるわけです。
 頼之が管領を退いた後、新たに斯波義将が管領になります。この斯波義将はこれから後、義満から疎外されませんが、あまり重用もされません。ずっと後の義満が亡くなり、次の将軍を誰にするかという時に、子供の義持を四代目の将軍に推薦するときに活躍し、そして、義持を将軍に据えて他の連中を抑えた後に亡くなります。この義将という人は、幕府が権力を維持していく時に大きな役割を果たしています。よく室町幕府は三人の管領と四職という、四つの家(山名・一色・京極・赤松)と三軒の管領の家が集まって、政治を行ったといわれています。
 斯波は細川、畠山とともに三管領の一つになるわけです。義満がこれから後、実際に自分が将軍として権力を握っていきます。前に話しましたが、室町幕府というのは、もともとは足利氏という家自体が一つの守護の家です。
 足利氏と同じような守護がたくさんあり、皆ほとんどが一族であったり、鎌倉時代から続く有力武士です。それが一つだけ上に盛り上がり、足利尊氏がリーダーシップをとることによって、武士というグループをまとめたため、室町幕府というのは非常に弱い存在なのです。
 なので、義満がより大きく強力にしようと意図したのではないかと思うのです。頼之が管領を退いた後から義満は強力に他の有力な守護を押さえつけていきます。そして、朝廷の中に入り、朝廷の権威も、あるいは権力も手にしようとするわけです。要するに、強力な幕府を目指したものと考えられます。
 実際に将軍になった後、どうゆうことをやったというと1387年(永和四年)いわゆる花の御所といわれた室町幕府の新しい居館を造っています。当時の北朝の天皇の御所が東西南北一町、3600坪なのでずいぶんと広いのですが、室町幕府は天皇の御所の2倍の広さがありました。花の御所というやさしい名前がついていますが、これは近衛家をはじめ有力な貴族邸に珍しい木で、しかも、花の咲く木があったら全部持ってきたわけです。近衛家からは大きなしだれ桜を持ってきています。その当時の貴族の日記が残されていて、「迷惑千万。」と書かれています。
 頼之が管領職から去った後、義満は当時異例なほど貴族の世界で出世していきます。24歳で内大臣、25歳で左大臣、26歳で准三后の扱いを受けます。
 准三后は摂関家の人とか親王が受ける扱いなのですが、義満は天皇のお后、皇后に準ずるような扱いを受けるわけです。そして、その年源氏の長者になります。この当時の源氏は貴族(村上源氏)、本当は足利氏の源氏とは違うのですが、源氏の長者として昇進しています。父義詮、祖父尊氏も貴族の肩書は単なる名目としていただいた権大納言ぐらいでとまっています。ところが義満は実質を手に入れました。何故、このように貴族の上に立とうという意識を持ったかというとおそらく、天皇の系統に繋がるということだと思います。他の貴族に対しても、自分も天皇の血を引いているし、しかも、後円融天皇は従兄弟であるため、血統のコンプレックスがあまりなかったのではないかと思います。皇室に対し抱く伝統的な劣等意識が全然ないところからきたのではないかと思います。大正時代の有名な渡邊世祐という学者は身分ではないのに、大それたことをしたということで「僭上」と批評しています。古い「国史大辞典」に義満を書いた魚住惣五郎という学者も同じようなことを書いています。
 さて、義満が異例なほど貴族の世界で出世した理由についてですが、他にもあります。それは、御所の中に多くの義満ファンがいたことです。
 後光厳天皇にお仕えした日野宣子という人物が義満を強力にバックアップしています。義満の正室は日野業子で18歳の頃に結婚しています。義満以後、足利将軍代々の正室には日野家から入る先例となります。この日野業子が結婚した時に宣子は25歳くらいの人ですから、義満より6つばかり年上で、叔母さんになる方です。しかも、後光厳天皇にお仕えした人です。
 それから、摂政、関白であり、大変有名な「菟玖波集」の撰者、二条良基も義満を非常にひいきしています。世阿弥が義満から見い出されて、寵愛を受けるわけですが、その世阿弥の学問を助けたのが二条良基です。しかも、義満に私のところへよこしてくれと頼み、大変可愛がりました。鬼夜叉という名前であったのを藤若という名前を与えています。二条良基のもとで学問に励んだことにより、世阿弥が能の古典の知識をつける上で役に立ち、能の大成に一役買うことになったのです。
 もう一つ義満の周りには公家出身の人たちが、多く集まって来て、家臣でもなく、強く隷属するわけでもない、いわば「家礼」という存在の貴族が多く集まってきます。そういう人たちが義満を朝廷の中に向かい入れる大きな原動力となったのだろうと思います。

守護勢力の抑圧と南北朝合一

 義満は非常に異例な昇進をしていき、貴族として成長してくるとこれから後、室町幕府をどのように盛り立てていくかを考え、行動に示すようになっていきます。
1390年(明徳元年)から山名氏清をして山名時熙を討たします。それから、土岐康行討伐(土岐の乱)。その翌年、山名氏清が挙兵しますがこれを打ち破ります(明徳の乱)。1399年(応永6年)には大内義弘を応永の乱で滅ぼしてしまいます。山名氏だとか、土岐氏だとか、大内氏だとかこれら有力守護達の勢力を削減させることに努めていきます。
 特に山名氏は六分の1衆と呼ばれていて、66か国ある日本の内、現在の山陰地方から近畿地方までの11か国の守護になっており、非常に大きな勢力を持っていました。山名氏は新田義貞の一族ですが、足利尊氏に協力して六分の1衆と呼ばれるほどに勢力を拡大させます。
 美濃の土岐氏も有力ですし、周防、長門の守護、大内義弘も有力でしかも大内氏は南朝についたり、北朝についたり一筋縄ではいかない一族です。
 こういう有力な守護を義満は押さえつけていくのですが、その押さえつけ方が義満の人気がない理由ではないかと思います。まずは一族を内輪もめさせ、そして、戦が始まるとどちらか片方に、だいたい総領家よりも庶子で有力な一方に肩入れしています。何故、庶子たちに肩入れするかというと室町時代の有力守護や一族は、京都に屋敷を持っており、国元にも住んでいて長男以外の庶子たちは近習、奉公衆として室町幕府に出仕してくるわけです。将軍はその中で才能がある人物を側近にして可愛がります。ですから、自然と庶子家の方が将軍としては親しくなり、それを利用されてしまいます。
 そうして、惣領と仲違いさせて、一旦やっつけてしまいます。このようなやり方で守護の内輪もめに介入し、勢力を削いでいきます。政治的には大変有能なやり方だと思いますが、その当時の人の心情にとってはあまり快くなかったものと思います。
 但し、義満は勢力を削減させる前に各地に出かけていきます。それは、義満が准三后を宣下されて、朝廷内で非常に高い地位に就いた後、いろいろなところに出かけていくのですが、これが、山名氏だとか大内氏だとかをやがて抑圧していく前提になるわけです。
 まず、1386年10月に天橋立に行きます。その時、丹波の国は山名氏の庶子家である満幸という人の領国ですから、そこで彼に接近して、満幸を持ち上げるのです。そうすると惣領の山名時熙にとっては快くないわけです。さらに、その翌年ですが、富士山を観に駿河の国に行きます。ここには足利幕府にもう一つ抵抗する関東管領の大きな支配勢力があります。尊氏の次男の基氏からずっと鎌倉ないし古河というところにいた足利氏満の勢力に対する押さえとして駿河に出かけて行きました。西の方、厳島に行ったのはおそらく、大内義弘に対するけん制のためでしょうし、、さらに九州まで行こうとするのですが、風波が荒いというので九州に渡れないと義弘がいうのでとりやめます。これは義弘の陰謀です。義弘は豊前から筑前まで進出して九州の勢力を拡大させようとしていた時だったので、義満が来てしまうと内情が全部知られてしまい困るわけです。しかも義弘は朝鮮と貿易も行っています。義満は朝鮮との貿易を一生懸命希望して、使いを遣わすのですが、朝鮮は知らない顔をしているのです。義満は朝鮮だとか明との交渉をしたいのですが、大内氏が邪魔をしたかたちになります。
 このように、義満が各地に出かけていくのですが、後に伊勢にたびたびやってくるのも伊勢の北畠氏に対するデモンストレーションだと言われています。しかし、この頃、伊勢の北畠氏とは和睦していますから、あまりその効果はないです。伊勢参宮については義満の別の考えがあったと思います。
 もう一つ大きな義満の政治課題というのが南北朝の問題です。土岐市の乱や明徳の乱を抑えた後、大内義弘に命じて交渉させます。前に大内氏は南朝についていたといいましたが、南朝の吉野朝廷と交渉して結局まとめます。有名な後亀山天皇と北朝の後小松天皇と親子の儀式で、三種の神器を譲渡するという条件で合一を行います。南北朝の合一が行われたのは、1392年(明徳3年)閏10月2日のことで、これが義満の最大の業績になります。吉野朝廷には、わずかな貴族と楠木氏、それから宇陀の辺りに本拠があった秋山氏、静岡県の井伊氏、こういう人たちがつき従って、後亀山天皇が京都に還幸されました。伏見宮家の伏見宮記録の中に出てきますが、神器授受の儀式などなく、皇居に入ったところ神器だけ取り上げられて、後亀山天皇は大覚寺にさっさと入られてしまったようです。
 現在からみると南北朝の合一とか合体ではなく、南朝の解消といっていいと思います。
 その後、1394年(応永元年)12月、37歳の時に平清盛につぐ武家で二人目の太政大臣になり、征夷大将軍を辞任します。義満が征夷大将軍を辞任した後は息子の義持が元服して将軍に任命されます。

足利義満と伊勢参宮

 義満が将軍であった時までをツラツラと書いていきましたが、日明貿易の話だとか、北山第の話、出家後の話をしていくと長くなりますし、とりとめのない状態になってしまうので、最後に伊勢参宮のことについて話をしていきます。
 義満は伊勢参宮を11回しています。義満の次に将軍になる義持が16回、その弟の義教が6回、伊勢参宮をしています。義持の参宮についてまとまった史料は花山院長親という人が書いた紀行文「耕雲紀行」や広橋兼宣が書いた「義持公参宮記」、歌日記風で文学的過ぎて史料になりませんが「室町殿伊勢参宮記」とたくさんありますが、義満の参宮についてまとまった史料は実はほとんどありません。義満の参宮について書かれた史料は「足利治亂記」という江戸時代の記録になり、ずいぶん後の史料となるので完全には信用できません。

近藤瓶城 編『史籍集覧』第16冊,近藤出版部,明治39年. 国立国会図書館デジタルコレクション収録『史籍集覧』から「足利治亂記」を抜粋

「足利治亂記」には「明徳四年、義満公ハ、左大臣ヲ御辞退マシマシテ、九月朔日二御動座有テ、伊勢大神宮へ御参宮ナリ、」と書いてありますが、実は誤りで、9月18日に出発しています。伊勢に来たのは、実は26日のことになります。こういう日にちが間違っているという大変な誤りがあります。実はこのような史料しかありません。次に外宮の一の禰宜であった松木家に伝わった記録「松木年代記」には「明徳四年九月二十一日」とみえています。ちょっと年代が下がった史料でもそれぞれ少し異なっています。
 それから伊勢神宮に義満が願文を捧げています。このことは、1915年から神宮司庁で大神宮史編修にたずさわった大西源一博士が「大神宮史要」の中で簡単に触れられています。その中で、現在、神宮文庫に残っている願文の写しがあります。1573年(天正元年)11月11日に、公家の大徳寺公維(だいとくじ きんふさ)という人が写したもので、この文書は、江戸時代に神宮の林崎文庫に入りました。それによると「四度の官幣懈怠有るべからざる事、造役夫工厳密に下知を加うべき事、明年中参宮を遂ぐべき事」と誓い、ついで「右、天下泰平 武運長久 子孫繁栄 心中諸願成就の為に代官兼敦を以て啓白件の如し」と書かれています。啓白の啓ですが、本当は「敬」という字でなければならないのですが、拝啓の啓になっています。そのあとに、「豊受太神宮同前に候」と書かれているので、外宮の方にも同じ願文が出されたということが分かるのですが、外宮への願文は神宮文庫に残っていません。
 義満の願文を見ていくと大変公的な立場での願文であることが分かります。「四度の官幣」というのは月次祭(6月、12月)と祈年祭と神嘗祭に朝廷から奉幣の使者をおくるということで、その勅使を遣わすことを怠けません。「役夫工」というのは、式年御遷宮のときの様々な費用を各地から取り立てることですが、これをきちんと致します。これは本来は天皇が約束することと全く同じことなのです。ですから、それほど義満は威張っていたといえます。最後にある「心中諸願成就」は何だろうかと気になりますが、それは義満本人しかわかりません。皇位を手にするということだったのでしょうか?
 伊勢参宮は何故、これから11回も行ったかというと、おそらく、最初は北畠氏に対する示威(デモンストレーション)だったのではないかと思います。伊勢参宮後に、北畠氏は帰属して来ますので。
 しかし、北畠氏が帰属した後の伊勢参宮は意味合いが違うように思います。
 西山克という方が書かれた「道者と地下人-中世末期の伊勢」の中で平安時代後期の院政期に熊野詣を盛んにする院を模倣して、院という自分の立場で、熊野まで行くのは遠いから、義満は伊勢に来たのではないかと触れられていますが、それも違うように思うのです。
 義満の根底にはやっぱり伊勢神宮に対する深い崇敬があったことは間違いないと思います。もし、守護大名や北畠氏に対するデモンストレーションであったならば、もっとゆっくり来て、ゆっくり帰るはずなんですが、来るたびに日程がずいぶんと早いのです。
 最初は明徳4年に来ますが、応永10年の参宮の日程をみてみると、1日目は水口に泊まります。2日目は、松阪の平生に泊まり、3日目に山田(ようだ 当時はやまだといわずようだといいました)に入ります。山田に入り、外宮一禰宜の屋敷に泊まり(他の家来達は山田大路という御師の屋敷や高向二頭太夫の屋敷などほぼ山田に宿泊しました)翌日に両宮を参拝すると帰ってしまうのです。また、もう一度平生に泊まって、この時は津に泊まったのですが、津で祭主の接待を受けて、翌日水口で一泊し、その次の日には京都に帰ります。この流れはあと何回か出てきますが、みな同じです。5日か、早い時は4日なのでとても早い日程です。夫人や子供を連れてくるときには少し長くかかっていますが、それでも5日もしくは6日くらいで来てすぐに帰ってしまうのです。これはおそらく純粋に「信仰」のためであったと思われますが、残念ながら他の人物についても同様でよくわかりません。
 神宮で何を願ったのか分かる例として時代が下った室町末期1581年(天正9年)に参宮した玉木吉休(たまきよしやす)という人がいます。この方は毛利家の家臣なのですが、広島から神宮にお参りをします。
 有名な話なのですが、6月にちょうど秀吉が鳥取に出陣するときに姫路で行き合って、秀吉が「赤髭に猿眼にて空うそ吹てぞある」と一種の秀吉の悪口を書いています。他にも「あっという間に日本を掌にし、関白になったのは、さらに人間にはあるまじとぞ言い伝えたり」と秀吉のことを書いていたりします。
 7月3日に伊勢に到着し、参宮します。この方の自叙伝が「身自鏡(みのかがみ)」ですが、このなかで天照大神(伊弉冉・伊弉諾尊と間違っています)というのは「宝祚一切衆生の父母と伝承る。我も子なれば、」自分もその子供だから、官禄を授け給え、と念じたと書かれています。ようするに官職と禄をくださいということです。
 また、神宮文庫にはこれよりあとの武士の願文が残っていて、自分は千石の知行が欲しい、そうすると百石寄進しますとか書かれています。このように神様と取引するような現実的な考え方が分かる願文は面白いですが、武士の願いや考え方が分かる例としてはこれだけで、義満をはじめ多くの人々が何を祈ったのかは明確には分かりません。

おわりに

 義持が義満の跡を継いで、将軍になり、参宮しますが、将軍の伊勢参宮に限ってその意義をあげると、これから後に守護大名が参宮にやってきます。島津元久が応永17年に参宮し、山名宗全も参宮します。従って参宮は室町末期にかけては一種の国民的習慣、伊勢参宮が非常に盛んになるきっかけを作ったといえます。しかも、武士層から町民、農民クラスまでずっと広がっていくそのきっかけを作ったといっていいものと思います。
 将軍として参宮するのは、鎌倉幕府の頼朝以下、誰もしませんし、天皇も皇族もしません。これはもともと伊勢神宮が人々に開かれた存在ではなく、天皇のみが勅使を派遣する神だったからです。しかし、室町時代になって、義満が自身で参宮していくと、それにならって守護、そして国人クラス、武士階級、農民とずいぶん拡大していくわけですから、義満の伊勢参宮は参宮や伊勢の歴史にとって重要な意義があったのではないかと思います。
 とりとめのない話となりましたが、最後までお付き合いをしてくださった方に「ありがとうございます。」と謝意を示しつつ、終わりの言葉とさせていただきます。

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