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古代の山陽道と速谷神社


はじめに

 今回は「車を買ったら速谷さん」と広島県では有名な交通安全の神様を祀る速谷神社のことについて話をしていきたいと思います。
 速谷神社の話もするのですが、神社の紹介に関連して安芸国の成り立ちや神社が鎮座する佐伯郡のことについても少しお話ししていこうと思います。
 広島県以外の方は速谷神社の名前をあまり聞いたことがないと思いますが、広島電鉄のバスや電車がこの神社で御祓いを受けていますし、市内のバス会社の多くがこの神社で交通安全祈願を行っています。
 また、バス会社だけでなくタクシー会社も多くの会社がこの神社でお祓いを受けています。
 現在ではバスやタクシーの車両が新しくなり、バスの運転席後ろの掲示板や運賃表の辺り、タクシーの車内などに速谷神社のお札やお守りなどを見かけなくなりましたが、以前はよく見かけていました。
 公共交通機関の車内で速谷神社のお札やお守りを見かけた際に広島らしさを感じるとともに「なぜ、交通安全の神様としてこれだけ多くの信仰がなされているのか」という疑問がふと湧くわけです。不思議に思いますよね。
 そんな疑問に対する私なりの一つの答えについても考えてみましたので、最後までおつきあい願います。

安芸国の成立

 古墳時代に各地で形成されてた大小さまざまな古墳とそこに祀られた数々の副葬品は、それぞれの地域における有力豪族の盛衰を物語るとともに、それまでのいくつかの集落が統合されてより大きな国へと統合されていった様子を伝えています。これらの国もさらに統合を繰り返し、やがて大和朝廷の下に統一されていきました。
 これら各地の国の首長たちは、大和朝廷に帰属後、大和朝廷の大王の下で国造と呼ばれました。平安時代初期に編纂された『旧事本紀』巻十の「国造り本紀」に「阿岐(あき)国造」の名が見え、これが安芸地方の国造と考えられていて、その唯一の記録となります。
 それによれば、「志賀高穴穂(しかのたかあなほ)朝」(成務天皇の時代)に天湯津彦命(あめのゆつひこのみこと)の五世孫、飽速玉命(あきはやたまのみこと)を阿岐国造にした」といいます。「飽速玉命」の「飽」は地名の安芸、「速玉」は神聖なる霊神を意味するものと考えられています。
 この阿岐国造の祖、飽速玉命を祭神として祀るのが安芸国の式内社のうちで唯一官幣に預かる大名神社だった速谷神社です。
 安芸国がいつ頃成立したかについては明らかではありませんが、大化の改新によって国・郡・里の制度が確立するかなり以前から阿岐国造が支配する「阿岐国」が成立していたものと考えられます。しかし、その頃はまだ国境も定かではありませんでした。国の制度が確立して国境が定められるのは奈良時代のことです。
 『続日本紀』天平六年(734年)九月十六日条に「安芸・周防二国、大竹河をもって国堺となす也」と記載が出てきます。この「大竹川」というのが現在の木野川(小瀬川)を指します。おそらく氾濫により川筋が変動し、国境紛争が起こり、それが中央政府に持ち込まれて、この日このような決定がなされたものと考えられます。

小瀬川河口付近。北側から南側(海がある方向)に向かって撮影。
川の左側が広島県大竹市、川の右側が山口県玖珂郡和木町になります。

佐伯部の起こりと佐伯郡の変遷

 六世紀に入ると大和政権の権力も強化されていき、大王を頂点とする身分秩序とて氏姓制度が整えられ、部民制度が確立していきます。
 『日本書紀』には佐伯郡の起源について二つの説話を記載しています。その一つは景行紀に見えるもので、「大和武尊(やまとたける)が東国を征服して多数の捕虜を連れ帰り、これを伊勢神宮へ報じた、彼らが昼夜騒いで礼儀がなかったので畿外の諸国に班(わか)ち置いた。これが今の播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の佐伯部の祖である」としています。このような説話は、そのまま史実と認めることはできませんが、大化の改新以前の安芸国に佐伯部が設定されていたことは事実で、そのことを踏まえてこの説話が成立したものと考えられます。
 佐伯部の原義とされる「サエギ」(塞ぎ)は、「外敵の侵寇をさえぎる」という意味で、安芸の佐伯部は西からの侵寇を防ぐために安芸国の西端に設定されたものと考えられます。このことを示す史料として天平十年(738年)の『周防国正税帳』には「安芸国佐伯団擬少毅榎本連音足」とあり、佐伯部に軍団が置かれていたことが分かっています。佐伯郡の地名は、この佐伯部にちなんで定められたものとされています。
 その後大和朝廷は律令制に基づいて中央集権化を一層強め、地方は国・郡里に編成されます。
 佐伯郡の郡名は、藤原宮出土の木簡に「安芸国佐伯郡雑腊二斗」とあるのが初見で「雑腊」とは「くさぐさのきたひ」とよみ『養老賦役令』に調雑物・副物として挙げられているもので、魚や獣の乾肉をさします。おそらく税として都に運ばれ、中央の貴族や役人に食されたものと思われます。

藤原宮跡北面中門地区出土木簡178号
出典:木簡庫(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJEKN35000105)

 また、平城宮跡からも「安芸国佐伯郡中男」と読める木簡が出土しています。

平城宮内裏北外郭東北部出土木簡
出典:木簡庫(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAAFP35000114)

 『和名抄(わみょうしょう)』には、古代の佐伯郡として養我(やが)(広島市東区矢賀)・種箆(へら)(廿日市市平良)など12の郷名を挙げています。その郡域は、東は現在広島市の中心を流れる太田川から、西は県境の小瀬川(大竹川)に至る、広範囲なものでした。しかし、12世紀の中頃からは、己斐(広島市西区)以西が佐西郡、以東が佐東郡に分かれました。
 中世には佐西郡は厳島神社の支配下であったため、厳島神社の「神領」とも呼ばれました。その後、江戸時代の寛文四年(1664年)からは、佐東郡が沼田郡と改称し、佐西郡は佐伯郡の古称に再び戻ります。そして、その佐伯郡の郡域が行政の郡の境として現代に伝わっています。

佐伯郡を通る古代の山陽道

 大和朝廷が中央集権国家としてその支配を確立するためには、朝廷が所在する中央(畿内)と地方(畿外)を結ぶ主要官道の整備は必須要件でした。
 そのため、東海・東山・北陸・山陽・山陰・南海・西海の七つの官道を定めるとともに、駅ごとに常備される駅馬の数によって大・中・小の三路に区分する駅制を確立しました。山陽道は九州の大宰府に通じるため唯一の大路とされ、駅には駅馬20匹を置き、駅家周辺には駅戸を設定して、駅馬の飼育や駅送業務の負担を課すこととしました。
 『延喜式』では安芸国の駅家として13駅を挙げています。古代の山陽道は現在の国道2号に相当するものですが、当時は現在のような沿岸部ではなく、かなり内陸部を通っていました。その後、中世から近世にかけて沿岸部の都市が発展するに伴って、山陽道は沿岸部へと移行していきました。

安芸国の山陽道の比定図 広島県史及び廿日市町史をもとに作成

 佐伯郡では伴部(ともべ)・大町(おおまち)・種箆(へら)・濃唹(のお)・遠管(おくだ)の5駅がありました。佐伯郡に入る手前の安芸駅については、安芸郡府中町で発掘された下岡田遺跡の建物群の遺構が駅家跡ではないかと推定されています。その当時はまだ太田川河口付近の沖積化はあまり進んでいなかったと考えられることから、古代山陽道は安芸駅から中山(広島市東区)・戸坂(広島市東区)を迂回して太田川を渡り、佐伯郡に入ったものと考えられています。
 そして、伴部駅(広島市安佐南区伴)から大町駅(広島市佐伯区石内)を通り、種箆駅(廿日市市平良)に至っていました。種箆駅の確かな所在地は不明ですが、江戸時代に編纂された『芸藩通志』に掲載されている村絵図によれば、上平良村に「馬ヤガイチ」、下平良村に「馬ヤガ迫」の地名があり、いずれも駅家に関連する地名であろうと考えられています。
 速谷神社の所在する場所はというと『芸藩通志』では上平村の「馬ヤガイチ」から字二つ分離れた西方に位置しています。よってこれらのことを考えていくと古代の駅家のすぐそばに神社が建てられていたことになります。
 種箆駅を過ぎると濃唹駅(廿日市市大野町)・遠管駅(大竹市小方)を通り、周防国石国(いわくに)駅へと至りました。

速谷神社の略歴

 安芸国造の祖霊を祭神とする速谷神社は、弘仁2年(811年)に伊都岐(いつき)島(厳島)神社とともに明神に列せられ、四時(春夏秋冬)に奉幣に預かることとされました。その後も神位を昇格していき、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では明神大社に列せられ、月次(つきなみ)・新嘗(にいなめ)の奉幣を受けるなど安芸国で最高の社格が認められました。
 天慶3年(940)には、藤原純友の乱平定祈願の功績によって正四位下まで神位を昇格しましたが、その後は厳島神社が平家一門の信仰を得て「安芸一宮」を称して、隆盛を極めたのに対し、速谷神社は厳島神社の摂社の一つに数えられ、安芸二宮と称されました。
 その後も大内氏や毛利氏、福島氏、浅野氏などから社領の寄進や社殿の修復を受け、その尊崇を得ましたが、近代に入ると時世の変遷によって社運も衰微して明治6年(1873年)にはわずかに「郷社」の扱いとされるようになりました。
 そのため、有識者を中心に神社の顕彰、社格の昇格と社殿造営の動きが起こって大正3年(1924年)10月には社殿が完成し、同年11月には念願の国平中社への昇格が実現します。
 昭和61年(1986年)不慮の火災で社殿を焼失しましたが、平成元年(1989年)には新しい社殿が再建されます。
 毎年1月7日には 山陽道の守護神として信仰を集める速谷神社独自の大祭、交通安全大祭が行われ、一年間の交通安全が祈願されています。

現在の速谷神社の境内
神門から拝殿方向に向けて撮影した速谷神社

交通安全祈願といえば速谷神社となった理由

 最後になぜ速谷神社が交通安全の神様を祀る神社として信仰されているかについて話をしていこうと思います。
 山陽道の伴部駅・大町駅・種箆駅・濃唹駅は人里はなれた山間を通る官道であったため、交通の難所であったことが通行する人々が交通安全の祈願をする一因になったとまず考えられます。
 そして、山陽道の駅家の話をしたときに少し触れましたが、種箆駅の駅家のすぐそばに速谷神社があったということこれが大きな意味を持っていたと思われます。
 種箆駅の駅家のすぐそばに速谷神社があったことを考えると日常の業務として国司または郡司が速谷神社に山陽道の交通安全祈願を依頼していたということも考えられます。
 『延喜式』の「神祇十 神名下」では速谷・伊都岐島の両社はともに明神大とするものの、速谷神社の方はその外に「月次・新甞」と注されています。月次は月次祭に幣帛を受ける神社を示し、新甞は新嘗祭に幣帛を受ける神社であることを示します。
 皇室に関係しない安芸国造の祖霊を祭神とする神社が明神大で、しかも、「月次・新甞」の幣帛を受けていたとなると官道の交通安全祈願を行っていたと考えた方が自然です。
 そして、時代が下り律令制が崩壊した後も官道の交通安全祈願を行っていた由来が交通安全の神様として伝えられ、交通安全を祈願をする人々の信仰を集めて現代に至るものと考えられます。

おわりに

 今回、古代の山陽道と速谷神社にまつわるお話をしましたがいかがでしたでしょうか。
 広島県廿日市市にある世界遺産の宮島・厳島神社には多くの観光客が訪れています。
 古代から山陽道の交通安全を祈願してきたと考えられる速谷神社も同じ廿日市市に鎮座していますが、バスの本数が少なく、車での観光でないと少し不便な場所であるため、祭日を除きあまり人は訪れていません。
 神社の格でいえば厳島神社とほぼ同格で由緒正しい神社、しかも人があまり訪れないので、実は観光におすすめな神社となるわけです。
 廿日市市を訪れた際には少し足を伸ばして速谷神社を訪れ、今回の話を思い出していただき、交通安全や旅の無事を祈ってみてはいかがでしょうか。
 最後になりましたが、ここまで読んでいただいた読者に感謝を添えて話を終わりたいと思います。

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