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ぶらり散策~雛人形と足守陣屋~


はじめに

 今回は足守陣屋(あしもりじんや)の紹介です。
 あまり有名な場所ではないので「足守陣屋ってどこにあるの」とお思いになるかと思いますが、現在の地名だと岡山県岡山市北区足守という場所になります。
 昔の地名でいうと備中国賀陽郡足守村になるわけですが、そこに江戸時代、足守藩木下氏の居館が築かれました。
 足守陣屋は岡山市の史跡に指定されていまして、足守陣屋のすぐそばにある大名庭園「近水園」は岡山県指定名勝となっています。
 また、足守藩の陣屋町には貴重な城下町の風景が今もなお色濃く残されているので、歴史的、文化的資料も多く県の町並み保存地区に指定されています。
 そんな足守陣屋と陣屋町ですが、季節によって風情がある光景を見ることができる場所となります。
 今回はその風情がある光景の一つ、町並みと雛飾りを見てきました。

足守陣屋

足守藩は、1601年(慶長6年)に、太閤秀吉の正室北政所(通称ねね)の兄であった播磨姫路城主木下家定が領地を備中に移され、2万5千石を領したことに始まります。
1615年(元和元年)、木下利房(2代)の代に1614年(慶長19年)大坂冬の陣での功績が徳川家康に認められ、賀陽郡内2万5千石の知行を与えられて再び足守に居館を構えました。足守陣屋と呼ばれている足守木下家の居館については足守藩第4代藩主・木下利貞の時代の1622年(寛文2年)から1679年(延宝7年)の間に築かれたと言われています。

陣屋跡を囲む堀と石垣の様子

1708年(宝永5年)、5代㒶定(きんさだ)は幕命によって仙洞御所造営に参加した際に、その残財を貰い受けて陣屋の東側に「吟風閣」を建設します。
明治維新後は、足守県の県庁として利用されましたが、深津県に併合し消滅し、陣屋の建物は取壊されましたが、1874年(明治7年)、陣屋跡中央部分に旧藩士の屋敷を移築し、木下子爵家(旧藩主家)が居住しました。
 この移築した木下子爵家で歌人の木下利玄が1886年(明治19年)1月1日に誕生します。
 陣屋跡は現在の足守小学校の北西隣にあり、陣屋の建物はなく、現在は公園となっていますが、陣屋跡を囲む堀と石垣が残っていて、中世の宮地山城のあった宮地山(御殿山)を借景にした大名庭園「近水園(おみずえん)」に数奇屋建築の吟風閣が現存しています。

近水園(おみずえん)

 近水園は、小堀遠州流をくむ池泉回遊の築庭方式をとっています。昭和34年(1959年)に岡山県指定名勝となりました。足守川から水が引かれている池には、藩主の長寿を象徴する鶴島と亀島が配置されていて、亀島には亀頭石、中心石、脚石と呼ばれる石があります。
 池のほとりの山際には数奇屋造り(茶室風の建物)の吟風閣(ぎんぷうかく)が建っています。吟風閣は、屋根は茅葺の切妻造り(現在は銅板葺き)、1階はさし天井、2階は舟底天井となっています。雨戸は、奥側にのみ戸袋があり、開閉時には部屋の隅柱で直角に敷居を滑らせるからくりが施されています。
 吟風閣からは、足守川を隔て宇野山の借景が望め、大名庭園の醍醐味を堪能できます。池の周囲をサクラ、モミジ、エノキが囲み、桜が満開になった時期や紅葉の時期にはとても美しい景色を見せてくれます。


近水園と数奇屋造りの吟風閣
吟風閣での雛飾りの様子
吟風閣での雛飾りの様子

木下利玄(きのしたりげん)の生家

 木下家の14代目当主である木下利玄の生家です。
 利玄は明治19年に生まれ、5歳で上京し、学習院や帝国大学国文学科に進学しました。
 勉学に励む一方で、歌の道にも精進し、武者小路実篤や志賀直哉らと雑誌「白樺」を創刊しています。
 利玄調と呼ばれる歌風を確立し、明治・大正期の文学史に大きな足跡を残しました。


木下利玄の生家の離れの様子。この写真の入口左の土蔵の中からは秀吉、秀次の関白叙任状や秀吉直筆の古文書など貴重な豊臣氏関連資料が近年発見され、大きな話題となりました。
木下利玄の生家母屋

旧木下権之助屋敷表門

 木下権之助家とは、足守藩三代藩主木下利房の養子とした権之助利古を家祖とし、当主は代々「権之助」あるいは「権輔」と名乗って、北木下家とも呼ばれていました。
 この長屋門は木下権之助家の表門として1846年(弘化三年)に再建されたもので、明治になって当地一帯が小学校になった後も正門として存続していましたが、昭和16年の小学校改築に伴って現在の場所に移築されています。


旧木下権之助屋敷表門

旧足守藩侍屋敷遺構

 この侍屋敷は備中足守藩(2万5千石)の国家老を務めた杉原家の居宅で、家老屋敷のたたずまいをほぼ完全に近い形で伝えています。
 母屋は桁行12間半(24.5m) 、梁間5間(8.99m)の長い建物で、屋根は茅葺の寄棟造で総廂の付く平屋建てです。
 母屋の正面には唐破風の屋根を構えた玄関を設け、家老屋敷としての威厳を備えており、庭は池泉を主にした遠州流の小庭園で、外側の土塀には藩主来訪時に使用する御成門を設けています。


旧足守藩侍屋敷遺構

旧足守商家藤田千年治邸(ふじたせんねんじてい)

 江戸時代末期に建てられ、明治以降に本瓦葺き入母屋造りの漆喰塗りという豪壮なものに改築されました。
 内部には往時の醤油工場の様子が再現され、醤油の醸造の過程で使われた当時の絞り機などを展示しています。
 また、醤油造りだけではなく、当時の商家の様子を伝える様々な展示をしています。


旧足守商家藤田千年治邸
旧足守商家藤田千年治邸での雛飾りの様子
旧足守商家藤田千年治邸での雛飾りの様子

備中足守町並み館

 もとはこの地にあった商家で、駐在所や郵便局としても利用されていました。
 現在は、かつての姿を保ちつつ大幅な改修が行われ、観光ボランティアが常駐するなど、観光情報センターとしての機能を果たしています。
 緻密に組み合わされた屋根の造形が印象的で、格子窓や二階の虫籠窓、生子壁などが、かつての商家の雰囲気を再現しています。


備中足守町並み館での雛飾りの様子
備中足守町並み館での雛飾りの様子

上巳の節句(桃の節句)

 ここで上巳の節句の簡単解説をしていきたいと思います。
 3月3日は、五節句の二番目「上巳の節句」にあたります。中国には、この日、水辺で身体を清め、宴会を催し、厄災を祓うという風習がありました。
 こうした中国の節句行事と日本に古来から伝わる禊祓(みそぎはらい)の思想や「人形(ひとがた)」を流す風習とが混じり合い、日本ならではの上巳の節句となりました。上巳はじょうみとも読まれ、本来は三月最初の巳(み)の日という意味でしたが、かなり古い時代から3月3日に行われるようになりました。
 日本では上巳の節句に、人の形を草木や紙でこしらえ、それを身体に撫でて自分の厄を移し、水に流して祓いとしました。この時の撫でものを「人形(ひとがた)」といいますが、この「ひとがたが」後世の雛人形の始まりではないかと考えられています。
 平安時代、紙などで作った幼女の遊び相手の小さな人形は「ひいな」と呼ばれていましたが、この「ひいな」と上巳の節句に用いられた「ひとがた」とが、長い年月の間に融け合って雛人形が生まれ、やがて家の中に飾り祀るようになりました。特に江戸時代以降は雛人形・雛道具ともに豪華となり、雛飾りは女の子のあこがれの縮図となり、それを飾る上巳の節句は、華やかな「ひなまつり」へと発達しました。土地によっては雛を川や海に流す「流し雛」の風習も残っています。

上巳の節句と雛飾り

祓いや厄除けの意義から始まった上巳の節句は、やがて江戸時代に入り、女の子の幸せを願う華やかで美しい「女性のまつり」として花ひらきました。
 江戸時代、女の子たちは、ひなまつりに友達を招き雛道具でままごと遊びをしたと言われています。これらは成長して嫁ぐ日のための家事の稽古と意味づけられていました。華やかな雛道具は、幸せな結婚の夢とあこがれの象徴でもあったのです。
 現在一般的になっている七段飾りは、江戸時代の後期頃までにほぼ完成した飾り方です。
 江戸時代初期頃はもっと簡単な飾り方で平たい台の上などに内裏雛一対を飾り、それに菱餅や白酒等の供え物をする程度で、雛段はまだ用いられていませんでした。
 それが百年あまりの間に、三段から五段と次第に数を増やしていき、人形や雛道具も増えて現在に伝えられているような形式になりました。


町並み保存地区での雛飾りの様子

内裏雛の立ち位置

 土地柄によって飾り方は異なりますが、最も大きな違いは、内裏雛の女雛、男雛の左右でしょう。これには、京都など古い土地柄で行われる古式(向かって右が男雛)と、昭和以降、昭和天皇の御即位の方式にならった現代式(向かって左が男雛)とがあり、いずれを用いるのも自由です。
 ただし、五人囃子の並べ方と随身の左右、桜と橘の位置は、土地柄などに関わらず一定しています。

ひな祭り関係の解説参考

 VTuberの諸星めぐるさんがひな祭りと桃の節句について解説されていますので紹介しておきます。

ひな祭りの歴史について解説はこちら

雛人形の意味について解説はこちら

動画で見たい方はひな祭りと桃の節句について解説動画をどうぞ

足守関係の紹介動画

紅葉時期の近水園の動画

足守・高松地区の観光動画

おまけ

 歴史に触れ、散策をするとお腹も減りますよね。というわけで、足守で身近な甘味処と食事処を紹介します。
 足守で甘味処といえば安富牧場ファミーユのソフトクリームとジェラートです。
 ミルクが濃厚なのでとても美味しいです。そして、ジェラートの種類も豊富で他店にはない味も楽しめます。
 季節によっては地元のフルーツを使用したパフェも食べれたりするので訪れてみてはいかがでしょうか。

安富牧場ファミーユ

オンラインショップもありますので紹介しておきます。

 足守には古民家を利用した食事処もあるのですが、そこは他の紹介記事に任せまして、町並み保存地区から少し離れた国道沿いにある赤木手打うどんを今回は紹介します。
 赤木手打うどんのうどんはコシが非常に強く、昆布とあご出汁の汁がとても美味しいです。
 肉うどんを頼むとたっぷりの肉が入り、天ぷらうどんを頼むと大きめの衣に包まれたプリッとした海老天が入ります。
 うどんが食べたいと思ったら立ち寄ってみて下さい。


赤木手打うどん

おわりに

 足守陣屋は倉敷と比べると観光客が少ないので、ストレスなくじっくりと町並みを見ることが出来ます。
 そして、今回は触れていませんが、幕末の蘭学塾「適塾」を開いた緒方洪庵も足守の出身です。誕生地の碑が建立されているのでそこを訪れて思いを馳せるのもアリだと思います。
 また、桜が満開になった時期や紅葉の時期の近水園もとても美しく綺麗です。足守は何度来ても良い場所なので、是非訪れてみて下さいね。
 最後になりますが、撮影等協力してくださった関係者の方とここまで読んでいただいた読者に感謝して話を終わろうと思います。

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