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【Week3】気づきの鈍化がすべての始まり。-スリランカアーユルヴェーダホテル運営滞在記-

「気づきの鈍化」に、人は極めて鈍感だ。


誕生日を過ぎ、スリランカに来てもうすぐ1ヶ月。こちらでの生活や仕事にも慣れ、ほっとしたのか少しだけ体調を崩した。

揺らぎながら人は生きているのだ。もちろんずっといい状態なわけではない。カラダがだるかったり、心がざわざわしたり、そういう変化は必ず起きる。

あと、いろんなことに慣れてくると「気づき力」が鈍化してくるなと思う。最初は目新しかったことも、だんだん日常になっていく。

「気づきの鈍化」に、人は極めて鈍感だ。

アーユルヴェーダホテルを訪れるゲストをみていてもそう。最初のドクターコンサルで健康状態や不調を聞いてもあまり出てこない人がいる。でもドクターが脈診して、「普段から頭痛あるでしょ?」「ご飯食べた後、胃が痛くない?」「右足痛めてるわね?」といろんな症状を言い当てていく。そうすると、「あ、確かに・・・」となっていろんなお悩みが浮上してくる。

自分もそうだったけど、「なんとなく不調」が当たり前になっていてそれがデフォルトすぎて気づかなくなっている。日々忙し過ぎたり、いろんなことで頭がいっぱいで自分の変化や痛みに鈍感になっている証拠。

自分のカラダや思考においても、「まぁいっか。」を繰り返していると気づきの鈍化がおきていく。

自分自身を客観的に観ている人と、観ていない人の違い。

愛読書である「ヨーガスートラ」にこう書いてあった。

人は、考えを観る存在である本来の自分自身と、変化し動き回る考えとの違いを見極めることができずに、2つを混同してしまいます。落ち込み、怒り、悲しみ、喜ぶという考えの動きを自分だと思って、考えにはまり、流されてしますのです。

やさしく学ぶ YOGA哲学 ヨーガスートラ

自分を「観る」ということを日頃からしている人と、していない人。少し話せばすぐわかる。観ていない人は、自分のことをよく知らず、感情や状況や思考の癖に振り回されている。軸がブレているというか、軸そのものを自分自身で掴んでいない。

そういう人を観ていると、正直、生きづらそうだな…もっと視点を変える思考の呪縛から解放されるだろうな…と思ってしまう。でもそれを伝えることはしない。それに「気づく」のは自分自身じゃないと意味がないし、それを他人が押し付けるのも違うと思うから。

考えは変わるもの。まるで天気のように変わり、流れ動くものが考えです。
しかし、考えがどんなに変わっても、考えを観る存在である私は変わることがありません。観る存在である自分と、観られている考えは別。自分と考えに混同があるときにだけ、人は苦悩するのです。

自分自身を「観る」。
観る存在である自分に「気づく」。

気づきというのは、自分を主観的に深めることと、客観的に観ることをし続けた先にあるものだと思う。

感情や考えに飲み込まれ過ぎてしまうと、あらゆるものを混同して、カオスになって、自分がわからない…と思い悩み、本質を見失ってしまう。

「気づきの鈍化」が、仕事におけるミスや、カラダの不調や、人間関係の不具合や、幸福度の減少や、自分への不信感みたいなことを生むすべての始まりなんじゃないだろうか。

問題解決のためには、まず現状の課題に「気づく」ことだし、日々のマンネリを脱却するには、自分の行いに「気づく」ことだし、健やかで幸せな人生にしていくためには、見て見ぬ振りしていることに「気づく」ことだ。

自分自身の「気づきの鈍化」に気づいたなら、今この瞬間から変えるしかない。

その一歩が、その一瞬の積み重ねが、少しずつ現実を変えていく。

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