故人を偲ぶことは、悲しみに暮れることだけじゃない。最期だからこそ人生を祝いたい。
爽やかな秋晴れの朝。
30年以上病と闘い続けた父は、まるで微笑むように綺麗な顔をして、痛がることも、苦しむこともなく静かに息を引き取った。
ずっと寄り添って、手を握って、体を拭いて。
最期の最期まで見届けられた私は、悔いのないお別れができて幸せだった。
涙を流す母を抱きしめることもできた。最期の時に間に合わなかった姉とはテレビ電話を繋いで、一緒にいるよ、と父に声をかけ続けた。
機械音がしない陽の光が差し込む病室は、キラキラしてて風が気持ちよくて。父の肩を抱いて「どんな人生だった?」と語りかけながら、同じベットで少しだけ一緒に眠った。その時間がそっと私の心を満たしてくれた。
目を瞑ると父の嬉しそうな表情も温度も蘇ってくる。それくらいリアルだった。人がどんな風に死を迎えるのか、その事実から目を背けたくなくて最期の24時間で変化していく父の全てを見届けた。
仮通夜を済ませた夜は、父に話しかけながら一緒にご飯を食べて、父と布団を並べて母と姉と川の字になって眠った。
そして事前に覚悟していた私は、喪主である母に変わって全ての準備、手配を行った。
葬儀場との事前打ち合わせを済ましていた私は、結婚式場以上にパッケージで、オリジナルなんて一切対応していない選択肢のない見積もりと、全然素敵じゃない会場と、更には積立済みという呪縛の中でどうやったら納得のいく最期を迎えられるのか、数日間考えた。
結婚式とお葬式は違う。そんな事はわかっている。でも故人を想うって、悲しむことじゃなくて、生前の人生を一緒に思い出しながら共に過ごした日々を一つずつ味わっていくことだと思っていた。
最期だからこそ、やっぱり私は人生を祝いたい。
泣いているよりも、どんな人生だったのかを表現してあげたい。みんなの心の引き出しに入ったたくさんの思い出をカタチにしてあげたい。それが私が父に届けられる最期のギフトな気がした。
同窓会と昔話が大好きだった父。
記者時代の仲間や親戚や友人が父との日々を思い出しながら昔話に花を咲かせる。そんな景色を最期に見たいんじゃないかと思って、通夜・葬儀会場の隣に小さな父のギャラリーをつくった。
父のライフストーリームービーを作って、皆さんに見てもらった。
父は新聞記者だった。
スポーツ新聞記者一筋36年。
父の古いアルバムを見返すと、阪神専属記者時代の写真は70、80年代の時代を感じるものばかり。
掛布、中村、小林…当時の有名選手が家に遊びに来てくれたり、人望は厚かったという。
記者という仕事にプライドも人生をかけた父の背中は、いつもかっこよかった。間違いなく私の生き方も性格も父譲り。おまけに顔もそっくりだ。笑
36年間書き続けた記事。
相棒のような原稿と鉛筆。
定年退職時に頂いた寄せ書き。
若い頃のアルバム。
全てに父の人生と温度を感じた。
通夜の日も、葬儀の日もたくさんの人がそのギャラリーを見て、父のことを教えてくれた。私達が知らない父のストーリーがそこにはたくさんあった。
喪主である母が一言挨拶をした後、私が父について語った。
父がどんな最期を迎えたのか、幼い息子(私の兄)を亡くした悲しみ、兄の死の翌年に生まれたかった私に”明るかった大輔を示す”という名をつけ愛情かけて育ててくれたこと、私の出来る限り父の想いを代弁した。
予想していたよりも早く最期が来てしまったけれど、悔いなく向き合うことができてよかったと思う。
やっとこさ全てを終え、父を連れて家に帰った日、窓を開けたら燃えるような夕焼け空が広がっていた。
息をひきとる日も、通夜の日も、骨だけになった日も。眩しい陽の光に包まれる秋晴れで、気持ちいい風が吹いていた。
ふと、人生の優先順位が変わる匂いがした。
それくらい私の人生においても忘れられない3日間だった。
死と向き合うことは、生きると向き合うと同じことだということを身をもって体感した。
故人を偲ぶことは、悲しみに暮れることだけじゃない。
最期だからこそやっぱり私は人生を祝いたい。
お父さん、74年の人生は楽しかったですか?
幸せでしたか?
ありがとう、お疲れ様。
心からの愛を込めて。
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