自分に寛容であれると相手にも寛容になれるのではないか説 #グッドドクター
今夜はグッドドクターを視聴。
医師たちの態度に思うことがあり、記しておく。
山崎賢人演じる自閉症スペクトラムの医師が主人公のドラマなのだけど、周りの医師たちが「お前には医者は無理だ」という態度で接する。
みな小児科医であるにもかかわらず、だ。小児科医であれば自閉症のことも学んでいるはず。
なぜ?
この現象は実際にもよく起こっている。私もよく見る。
「支援の対象」であれば、寛容に理解を示し、その人に合った接し方ができるのに、同僚になるとできないことを責めたり、
「障害への理解を!」と叫ぶ人たちが、支援者に対しては「完璧」を求めたりする。
差別はダメ!障害のある人には配慮を!といいつつ、「とはいえ」「社会人として」これはやるべき。のような。
私も数年前まではそうだった。今でもたまにそう思って気がついて自分にショックを受ける。
なぜ起こるのだろう?と考えてみた。
それは、属性のアイデンティティー、つまり「◯◯としての自分」への要求水準への高さから来ているのだと思う。
例えば、「社会人としてこうあるべき」と思っている人は、自分もそうあれるように行動する。遅刻をしない、とか、敬語を使う、とか、服装はこう、とか。それに対して自分が頑張っていれば頑張っているほど、同じ「社会人」として相手にも同じことを求めるのではないだろうか。ドラマの中でも、「コミュニケーションがとれないのは医者として致命的」とあった。
「支援者として」「先生として」「医者として」という職業的なアイデンティティーもそうだし、
「母親として」「女として」みたいなのもあるのかもしれない。
自分の属性へのアイデンティティーが強く、要求水準が高ければ高いほど、そこに達することができるように努力する。すると、同じ属性の人に対しても、同じくらいの水準を求める。「わたしだって頑張ってるんだから、あなたもやるべき」。
つまり、そこから脱却するためには、もちろん「自分と相手は違う」ということを認識するのもそうなのだけれど、それだけじゃなくて「わたしは先生だけど、先生だって人間だ」「母親だって人の子だ」と思えたり、自分自身が自分の期待する水準を満たせなかった時に、そんな自分に対して寛容であれることが必要なのだと思う。「属性のアイデンティティー」を全て捨てる必要はないが、少しでも客観視したり、距離を置いて見たら寛容になれるかもしれない。
先日書いた「わたしのトリセツ」はまさにそういうことだ。「社会人」のわたしだけど、しんどいことがあり、こういう配慮があると助かる。以前まではそんな自分を許せなかったけれど、今は許せる。
このトリセツに対してはたくさん反響があり、わざわざメールやメッセージをくれた人も多かった。(某仲良しOTの方は早速配慮しつつ講演依頼をしてくれた)。「わがままだ」という人は一人もおらず、むしろ自分も書きたい、という人も。わたしもしんどい人がいたらその人がしんどくならないように工夫したい、と改めて思った。
このように自己開示をし合えて、「配慮しあう」ことが当たり前になったら、自分にも他者にも、寛容になれるのかもしれない。そしてそういう組織やコミュニティーこそが、もっとも心理的に安心安全な場になるのだろう。
グッドドクターのお医者さんたちも自分に対して寛容になれたら、相手に対しても寛容になれるのではないかな。「医師として」の属性に対するアイデンティティーを自覚し、そこと距離を少しおいて、湊と接してみたらいい。
追記メモ: 一方で属性へのアイデンティティーによって自分や相手の要求水準が高いことは悪いことではない。良い意味で期待をもって接することもできるし、それはその人の成長を促進するときもあるし、自分の自己成長も促す。鍵はそれを自己認識して、距離を置いてみたり、一回ほどいてみたりすることをしないと、自分や相手にもプレッシャーをかけすぎてしまう、ということかな。
※写真はフジテレビのホームページからお借りしました。
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