野口晃菜
インクルーシブな社会のための研究・実践をするなかで、考えたことを整理するために書きます。 ※個人の意見であり所属する組織と関係ありません。
日常の中の気づきなど
本の原稿を書いたら公開。
誰かの尊厳を奪うことや誰かを侮辱したり差別したりハラスメントにつながることを無邪気に無意識にに言ったりやったりしている人がいて、でもそれを見聞きしている人たちも笑っていて、誰も止めなくて、という場面はよく見聞きする。 伝えた方が良いか、どう伝えるのが良いのか。 でも伝えたら雰囲気壊す。じゃあ伝えない?でもそしたら後悔する。 いつも気づく人がやたら消耗してしまう。 気づかずにすむ世界で生きている人はなかなか気づく機会がない。そういう構造の中で生きてきたから当然そう。 そして
「家族なんだから」「親として」「血は争えない」など、聞いたことない人はいないのでは。 「素敵な家族像」や「素敵な親子像」は「たまに喧嘩もするけれど、仲良い友達みたいな親子」や「やっぱり何かあった時に頼れる存在」、「なんだかんだ言っても幸せな家族」。メディアでも学校教育でも、そんな家族像、親子像が美しいストーリーとして語られる。 それは無意識のうちに私たちにインストールされ、私たちを侵食し、自分の家族や自分と親との関係性、そして子との関係性と比較し嘆く。あるいは、いずれ自分
これまで差別についていろんな記事を書いてきた。 女性当事者としてジェンダーバイアスに気がついたこと。 特権を自覚していない人へどうアプローチするか。 差別的対応をされたときの闘い方は自分で決めるから闘い方への助言は不要であるということ。 そして自分自身はどうやって闘うのか。 その後、生活をする中で、自分はどんなときにどんな相手にどんな対応をするのか?が結構明確になってきた。かなりこちらの本が参考になった。 1. まず自分を守ることが一番大事 何か差別的なことを言
「何している人なの?」とよく聞かれますが、私もよくわからないので、こちらに整理してみようと思います。本当は個人のホームページを作ってそっちに載せたかったのだけど...ちょっとまだ時間がかかりそうなので取り急ぎこちらに書きます。 1.大切にしている軸・「インクルーシブな社会」を作ること 多様な人がそれぞれ自分の生きたいように生きられる社会づくりをするために、自分に何ができるか?を考えてこれまで活動や研究をしています。既存の社会の構造自体を多様性に耐えられるようアップデートして
差別的だったりバイアスを助長する言動に違和感を持ったときに声をあげる→伝わらない、むしろ「は?なにこいつ?」的な目でみられる→だんだん違和感抱いてもなにも言わなくなる(学習性無力感)→あれ、私が変だったのかな?とか思い始める→バイアス言動に麻痺してきて違和感すらもたなくなる。 そうならないように、一人でも「そうだよね!」って言ってくれる人がいたり、共有出来る仲間がいることが大切。声あげるのは当然怖い。声を上げられない時でも自分を責めないでほしいし、自分も自分を責めないように
障害についてもジェンダーについても、いろんな格差についても、学べば学ぶほど、考えれば考えるほど、インクルーシブな社会の遠さに絶望していたのだが、この本を読んで少し希望が生まれてきた。日々絶望と希望を行き来してる。 絶望していた理由としては、結局意思決定権を持っている人たちが格差を認識しそれを是正していく意思決定をしていかなければ社会の構造ってやはり変わらないのでは、と思うから。今回のコロナでもいろんなところで格差を認識していない施策があった。例えば学校休校の通知は、多様
「もっと冷静にうまくやればいいのに」「感情的になりすぎて周りが見えなくなっているのでは?」「客観的に、戦略的になった方が良いよ」 いずれも差別や排除と闘っている中で声をかけられたこともある言葉であり、また、声を上げている当事者に向けられる場面をよくみる言葉たちだ。「障害」関係でも、「ジェンダー」関係でも。 私も一時期はそう思っていた。ただ声を上げるだけではなく、実態を変えるために戦略を考える必要があるのではないか。もっと「うまく」やるべきではないか。 けれど、最近特に女
現在34歳、今年35歳。いつのまにかまあまあな大人になった。それなりに毎日人生楽しんでいる。 20代の時は後先考えずとにかく毎日必死に生きていた。ここ最近は体力の低下から自分の時間の有限さに気づいて、これからの人生どう過ごすかよく考えている。その中で避けて通れないのは「子どもを産むかどうか」。まあこれから考えは変わるかもしれないけれど、今の時点の自分の考えを書いておこうと思う。 私は職業柄、たくさんの親子に出会う。いろんな親子がいる。仲の良い親子、お互いのこと嫌いじゃない
「障害」に関わる仕事をしているすべての人、そしてすべての対人援助職にぜひ読んでほしい本。 専門家・支援する側と当事者・家族の間にある溝や、生命倫理についてものすごく考えさせられます。 「『親が頑なだから/無知だから、せっかく医学的に正しい選択肢を提示してやってるのに理解しない』と専門性の高みから一方的な判定の眼差しが向けられている限り、そこにある固有の親と固有の医療職との関係性が変わることはない」p.212 障害のある子どもの保護者がものすごい数の「選択」を急に迫ら
アメリカのADA National Networkが作った「障害のある方について書くときのガイドライン」がとても良い。 いつも自分が書くとき気を付けていることが入っててほんそれ!ってなる。どんな言葉や表現を使うか?は本当に大事。 言葉は救いにも呪いにもなる。 簡単に意訳&コメントしたので、メディアで発信する方々、そしてSNSで発信する方々の参考になれば。 Words are powerful. 言葉には力がある。 1. Ask to find out if an i
答えは確実にNOなんだな、ということが先日参加したこちらのツアーで分かった。 10代女子を取り巻くひどい環境を目の当たりにし、ものすごい衝撃を受けました。教育や福祉よりも夜の街に行くことを選択せざるを得ない構造を変えたい。 この一年女子少年院に関わる中で、鑑別所でまず性病の治療をする女子がいることや出院後に行き場所がなくて夜の仕事に就かざるを得ない状況などを聞き、鑑別所・少年院に入る前と出た後についてもっと知りたく思い、参加した。これまで頭ではわかっていたつもりだったけれ
「マイノリティであるが故にどうしようもならなかった経験」を持っていないと得られない感覚はおそらくあるんだろうと思う。 ここのポイントは、社会の物差しがどうであろうと、「自分が自分をマイノリティと自覚し、それが理由でどうしようもない、頑張ってもダメだった」という経験を持っていると自分が思うかどうか。世の中や他者がどう思うかはあんまり関係ない。 「マイノリティだけどどうにかなった人」「自分がマイノリティと思ったことのない人」がそれを自覚するプロセスや気づいて行動が変容するプロ
ここ一年、特にこの半年くらい、ジェンダーバイアスへの感度がだいぶ高まりました。 その結果、テレビ番組が違和感だらけで全く見れなくなりました。 そしてこれまで自分に投げかけられたり耳にしてきて違和感を持ったけどスルーしていた言葉たちや行動たちを今後はスルーしてはならない、と今強く思っています。というか、「勉強も仕事も良いけど子ども早く産みなよ」と言われたりしたことをこれまでスルーしてきた自分にムカついてます。それこそテレビや小説の中だけど思ってるかもしれないけど、まじで言われ
年々、「管理したがり」や「管理されたがり」や「支配したがり」や「支配されたがり」な状況に敏感になっている。それは、他人に対してもだし、自分に対しても。だいたいそこにはdisrespectfulな態度が付随していることが多いからだと思う。自分に対するリスペクトのなさ、相手に対するリスペクトのなさ。自分のそれに気がつくとものすごく後悔をする。 きっとこれまでの環境の中で身についてしまった癖のようなものなんだと思う。人と接する時に、年齢や性別や肩書きで自分の上か?下か?をジャッジ
昔読んだ中島らもの本(どの本か忘れた)に、「誰もが何かしら穴を抱えていて、その穴を埋めることに必死になっている」と書いてあって、妙に納得した。安部公房の本にも、「1%ずつ何かしら『異常』な人がいて、全て合わせたら全員が『異常』」と書いてあって、これも納得した。 つまり、全員「なにか」に依存しているし、依存する「なにか」を常に求めている。「よりどころ」探し。 そのよりどころが社会的に適切か不適切かが違うだけ。仕事、スポーツ、お金、お酒、タバコ、薬物、恋愛、注目を得ること、収集
まだちゃんと言葉になっていないしまとまってないけれど書いてみる。 最近思っているのは、やはり対人支援職として必要な「資質」はあるということ。支援技術は身に付けることができるけれど、資質はなかなか難しい。例えば、目の前のその人に関心を持ち続けることができること。自分の正解を押し付けるのではなく、その人にとっての正解を模索し続けることそのものを楽しいと思えること。支配的になる自分に気がついた時に絶望せずに変化し続けられること。こういったことは教えよう、学ぼう、と思ってもなかなか