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「理解できないやつが悪い」は何も生まないのでは。それでいいならいいけれど。
まだ届いてないのだけど、とても興味深い本を見つけたので。タイトルと紹介だけ読んでなんで自分がこの本に惹かれたのかを忘れないように書いておく。
こちらの本
打浪文子
知的障害のある人たちと「ことば」――「わかりやすさ」と情報保障・合理的配慮
「ことばができる」ことに価値があるという文化や社会的風潮に対し問いを投げかけ、
社会全体で共有できる「わかりやすさ」の必要性を明らかにすることを通じて、
知的障害のある人たちの多様な表現と共にあることのできる社会のあり方を考える!
「ことばの理解」「読解力」「推測力」を前提とした情報提供やコミュニケーションが多いなあ、と思う。
ツイッターでも「読解力がない」「ちゃんと理解してください」みたいなやりとりよく見るけど、そう伝えてもなかなか理解には繋がらないのでは。まあ、相手に理解をそもそも求めてないならいいと思うけど。
支援者として、教育者として、自分は伝えたいことを学び手や被支援者にとってわかりやすく伝えることが役割。教え手や支援者であるにもかかわらず、わからないことを相手だけの責任にして「読解力がない」と相手を見下すのは違うし、「読解力がない」と言ったところで相手に伝わらない。学び手に合った伝え方、学び方を探し、「伝わる」「理解する」「できる」まで伴走したりサポートしたりする。
これは、直接的な支援のみでなく、メディアなどのアクセシビリティもそう。「ネットでなんでも情報を得られる時代」というけれど、大体のページが「言語理解」や「推測力」や「自己選択」の条件付きのアクセシビリティになってるという問題意識もある。動画とかでわかりやすく説明してほしい。「条件付き」の時点でアクセシブルじゃないか。届けたい相手に本当に届けられるならいいっていうならいいけど。必要な人、伝えたい人に伝わらないのは悲しいのでは。
また、これは支援者と非支援者に限ったことではない。支援者支援も同様。文字情報だらけの教科書を読んで理解・解釈し実践に活用する、というのはものすごく高度で「それができる人しか支援しちゃダメ」というからいつまでたっても人材不足なのでは?
だからe-Learningや実際のロープレ、OJTでのフィードバックで一人ひとりの学び方に合わせたスーパーバイズをしたい。
「対話」に最近関心があり調べているけれど、ことばに頼りすぎることへの懸念もあるはある。どうしたらいいのかは考え中。
そして私のいまのこと文章もわかりづらい。ごめんなさい。
これは思考がだだもれてるやつだからなあ。
伝える用はちゃんと伝える用に書かなきゃならない。書きぶりも伝え方も変えねばならぬ。
「伝えようとしてくれている!」も「あー自分はいま分かっていないことをこの人に見下されてるな」「諦められちゃった」も意外と感じるものよね。
写真は沖永良部島で出会ったテンションだいぶ高い犬、激しくて写真全部ブレてる