ノートを書くこと、ノートを音読すること
1.
わたしがノートを書くことを真剣に心がけるようになったのは、大学や大学院を離れて社会人になってからだった。当時、母に「社会人になったら常にノートを持ち歩くのよ、頭の中でなんか覚えてられないんだから」と言われて、半ば、受動的なきっかけて書きはじめた。また、当時、コロナ禍というのもあって、わたしは不安や強迫観念におそわれていた(当時は診断は下されなかった)。だから、この不安や強迫観念を乗り越えるのに、わたしがノートを書きはじめることは当然だったのかもしれない。
2.
2−1.
わたしも普通の学生で、講義のノートは取るのだが、どうも「頭」を過信していた節がある。講義の内容を頭で「ふーん、なるほどね」に留めるような学生だった。また、頭の外のことばと頭の内のことばのちがいすら、朧(おぼろ)げだった。だから、当時のわたしはことばとの学びにおいてなにがなんだかわかっていなかった。
社会人になってある日、部屋を掃除していたら大学時代の個人的なノートが出てきた。このノートの表紙に書かれた主題が『野心ノート』というものだった。中身をのぞいてみると、「修士課程に進学する」とか「いつか語学を教える」などと「野心」がリスト化されていた。今ふりかえると、今が運が良いように思う。結論先取だけど、ノートに自分の目標や夢、無意識を書くと、実現するように思う。
社会人になって、ノートには夢や目標や無意識を綴っていた。わたしは広い意味で先生の仕事をしているので、教え子との関わり、たとえば話したこと、感じたこと、教え子の表情、わたしが感じたことを綴った。こうして他者と対面して感じたことをノートに書くと、他者との関わりが繊細だと思える。そしてノートを書くことでよりよい関係が築ける。また、それが事後になると思い出となる。
社会人になってから四年間、絶えることなくノートを書き続けてきた。このことは、わたしの価値観をグラデーションのように変えていく。いきなり明確な境界として価値観は変わらないのだが、今まえのノートを読みかえすと、価値観はグラデーションに変わっていた。このグラデーションの変化は、本当に、ゆっくりだ。だから、このゆっくりと徐々に変わっていった価値観の変化が愛おしい。
ノートにはどのようなわたしのことばを書いているのか、ここで断片を記す。
24/05/17
「一日に期待しないこと。一日で為し得る読書量には限りがある。だから一日に期待しないこと。10分とか30分のプラスの項の学習時間を設け、少しずつ少しずつ、一日一日と、地に足を着けて歩む。千里の道も一歩から。」
「土を耕すイメージ。一歩ずつ。着実に。資本主義やテクノロジーは他者との比較で知るべきことを増大させる。しかし本当は、学びは自分にしかできない。」
「対話的事故論。他者との対話にも限界がある。有限。だから自分自身で対話し続けること。」
「どすこい精神。ぐっと見据える。楽観的であれ。」
24/05/20
「人間って目の前に幸せがあるのに、幸せをかわす。幸せはふれること。その繊細さあるいはダイレクトさに耐えられないのではないか。幸せではないのに、幸せを装う。「幸せになる勇気」というのは、幸せという繊細さあるいはダイレクトさに向き合えるか否か。」
24/05/23
「自分の課題が山積み。自分のペースで良い。できることができるようになりたい。プライドを鬼低く。バカみたいに。自分の人生。今の私にできることは、文学作品にふれること。深みと質が大切。」
24/05/28
「人に文句言う暇があるなら、我が身を反省せよ。何も言う必要はない。粛々と、黙々と。自分、自秘を大切にせよ。」
24/06/27
「愚直に、地道に。私はこのようにしてしか前に進めない。読書をして、ノートを書いて、一日の振り返りをして、今後の課題をリスト化して。[...] ノートに言葉を書き留めるって面倒臭い。言葉は線条的で、結論を先取りすることもあってはならない。だからチマチマとノートを書き続けるしかない。早く全てがわかりたい、楽になりたい、また同じことの繰り返しの日々か?と思うけど、やり続けなければ、〈異なる可能性〉など得られない。もしここでノートを書いたり読書をするのを止めたら?これから得られるであろう未来の中で失うであろう未来とは?」
24/07/01
「Da cosa nasce cosa. というデザイン論の言葉がある。「モノからモノが生まれる」。普段、私はノート、ペン、写真、小説、書物、エッセイ(プリント)、文字、音というモノとモノを重ねている。同じ文章をワードから手書きに変えたり、手書きをワードにしたりしている。そして変化を掴むということ。異なるモノとモノが出会うとき、変化が生じる。その変化を掴むということ。」
24/07/05
「自分ができることをやりながら、常に準備しながら、生きる。先駆者の努力を素直に努力として認められるようになったら、私は変わるだろう。常に準備しながら生きる。やるべきことはあまりに多い。常に学ぶこと。怠惰の時の速さに私は汚されてはなるまい。頓挫した分だけ、強くなれる。土を耕し、豊かな土壌を育む。話しすぎるな。語りすぎるな。その分、自分の強さが感じられる。一方、私の身体感覚は儚い。また、辛くなる。だからまた立ち上がろう。なかなか美しい花は咲かぬが。」
2-2.
これまで、ことばを「意味」として扱われてきた。というのも、ことばを語るわたしたちはことばの「意味」を語ることにすり替えてしまってきた。ことばは「頭」の中にあって、わたしたちは「頭」の中のことばを表に現す(表現する)。ことばを読むわたしたちは「黙読」を信じてやまない。頭の中の黙読のことばが、わたしにとって「ことば」であることを信ず。
ことばとは形である。その形は、音の世界に声となってことばとなるし、光の世界に文字となってことばとなる。頭の外に形として現れたことばは、わたしという他者にふれることになるし、他者それ自身にふれることになる。ことばは、一度わたしの身体から自由になって、他者がことばを紡ぎ、他者のことばは他者の身体から自由になって、わたしがことばを紡ぐ。ことばの形には種類がある。それは話されたことばと書かれたことである。空気の振動という物理的実体によって音となり、光によって文字になる。その証拠にノートを書く部屋の電気を消してみると、文字は読めない。それはことばがないに等しい。(参考:野間秀樹, 2018, 『言語存在論』, 東京:東京大学出版会. )
ノートに書くことば、文字は一度わたしの「頭」から自由になる。だから後で読み返すと「あれ、何を書いたんだっけ」と思うし、当時書いたことば以上のことばがわたしにもたらされる。
文字ということばや言語は、固有の時間を有する。ことばの内の固有の時間を時制という。時制は、ひとつに、時間を現す動詞の形態である。英語には現在形と過去形があり、その意味でじつは未来形はない。willは現在形であり、wouldは過去形である。現代中国語や漢文、インドネシア語にはそういう意味で時制はない。インドネシア語の場合、動詞の形態は変わらないのでsudah(既に)という語で過去の意味を表す。現代スペイン語の接続法(英語でいう仮定法)には現在形と過去形があるが、現代ポルトガル語には接続法に未来形がある。
ノートに文字を書くことは、わたしにとってことばの内で固有の時間を造形するということである。わたしのノート全体でひとつの物語(ここではストーリーではなくナラティブと言う)を作り、固有の時間と歴史を生む。しばらく前まで日常の時間の流れが速く感じられたが、ノートを書くことで時間の進みが遅くなったように思う。わたしにとって、形となったことばを造形することで、固有の時間と歴史が帯びるということ。
ノートを書くことでもたらされることは多かった。ノートを書くことで次のような成果を得られた。それはなりたかったわたしであった。
1. 語学学校にスペイン語講師として採用される
2. 教え子が早稲田大学や上智大学に入学する
3.字がきれいになった
4. TOEIC(Listening & Reading)で805点を取得
5. 多くの出会いに恵まれた
…
2-3.
こうしてノートを書くことが習慣となった今、新たな課題に出会った。それは今まで書いてきたノートを音読すること。
小さな声でも音読する。むしろそのささやきがわたしの身体性を高める。一つひとつの音が、わたしの身体に鳴り響く。漢字で書かれた文字は、音読を通じて音になる。かつてのノートを音読すると、思い出や思いが音によって身体に文字通り共鳴する。
ことばは頭の外で実現された形であり意味ではない。ことばが形だからこそ、むしろささやきのことばとか、言語学習的に興味深い。
3.
ノートを書くことと音読することに位置づける。
ノートを書き音読するわたしは、考えていることや思考が漏れる。木漏れ陽ということばがあるけど、木の間で漏れる太陽の光は、森を成長させてくれる。現代社会では、ひとびとは過度に他者との対立に恐れてしまい、対話する意志や態度が減ってしまった。たとえば、雑談は互いの漏れであり、漏れは互いが出会うきっかけとなる。ノートを書いたり音読することも、わたしたちにとっては漏れであり、わたしを安心させ、傷を癒やし、他者との出会いを到来させる。
2024年07月20日
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