音読する教材と音読の効果
1.
この夏のわたしのスローガンは「この夏、音読の夏」である。社会人で講師の仕事に偶然就いて四年目で、これまで幾度もの音読の必要性を感じてきた。音読するよりかは書写をしてきたし、書写をするよりかは黙読をしてきた。この現状を顧みるに、音読して学ぶことはわたしの課題であることがわかる。
かつては外国語を専攻する学生で、専門学校と大学、若干年の大学院生活でスペイン語の音読を二百五十回から三百回してきた。このように音読するきっかけとなったのが、國弘正雄の「只管朗読」である。しかし彼は音読を「五百回しなさい」と言っていて、わたしにはこの五百回の音読が外国語学部時代には叶わなかった。
2.
この夏、音読の夏。すでに七月が過ぎようとしている。ほぼ一ヶ月が過ぎようとしている中で、わたしは国文法の教科書とドイツ語の文法書を音読し終えた。国文法の教科書は、全体で二百二十頁(ページ)ほどで、ドイツ語の文法書は百頁ほどである。
この夏のわたしの勉強の仕方のルールは、自分が決めた、厳選された文法書や教科書はしっかりと音読して読み進め、夏の期間は時間が許す限り音読し続けるということ。実際、国文法の教科書とドイツ語の文法書を音読して学んでみると、読み落とすことができなくて、一つひとつ理解しようと努めている感じがする。しかしその分、「早く読み終えたい」というもどかしさも出てきて、つらい。音読は音にして読むことであり、音は一つひとつしか放てない。人間は、一度に二つの音を放つことはできない。だから、音読とは音を直線上に並べながら読み進めることである。また、一度放った音はすぐに消えてしまう。だから音を放っては消え、また放っては消える。そのような話す声の音の宿命を迎えながら、わたしは音読し続ける。
これまで、スペイン語は上級レベルの文法書を読んできたし、今もイタリア語とフランス語の文法書は中級と上級に値する。頁数は三百ものあり、この夏は一回や二回ほど、音読できればいいと思っている。
面白いのは、ドイツ語の文法書は百頁程しかないのだが、ドイツ語の文法書を音読して読み進めることの効果を強く感じている。これまで、黙読で上級のスペイン語やフランス語やイタリア語を勉強してみても、音読でドイツ語の勉強をすることの効果は凄まじいと思っている。つまり、少ない頁数でも、黙読して三百頁の文法書を読むより、効果があるということ。
この夏、音読の夏。この夏にもう一つ、決めていることがある。それは「すぐに分からなくても良い」ということ。一回で理解しようとすると、後で分かっていないわたしに嫌気がさす。「なんでわかってないの!」とか「ああ、やりたくない!」と思って挫折してしまう。それならば、あえて理解しようとせず、この夏を繰り返し音読することだけを目標とする。理解することは、反復という学習、あるいは努力によってはじめて為される。
繰り返し音読をすることによって舌や口がドイツ語に慣れる。ドイツ語の口になる。たとえば、verstehen「理解する」というドイツ語を音読すれば、口がそのドイツ語の単語を経験する。口が音に重ねなければ、わたしにとって意味はやってこない。werdenは「しかじかになる」という語、blauは「青い」という語、その音の連なりを舌と口に重ねる。そのことを身体に経験させる。
さて、ドイツ語には格変化があったり活用があるのだが、ことばの形が変わることは、音にしたり文字にすることでようやく、活用や格変化という出来事が生じていることになる。つまり、頭や脳の中では、目に見えていないし、それが本当に活用や確変化なのか判断つかないという点で、格変化や活用は存在していない。
黙読をするわたしたちは、頭や脳の中のことばを信じているが、果たしてそれは本当にことばなのだろうか。音で/ringo/と頭の中で唱え続けても、その時点ではひらがななのかカタカナなのか漢字なのか、未だわからない。りんご、リンゴ、林檎。さらには、「雨がすき。」とか「飴がすき。」という文も、「あめがすき」と書いたら雨なのか飴なのか判断はつかない。この場合、「雨」も「飴」も日本語ではアクセントやイントネーションによって意味がわたしに立ち現れる。
一度、ドイツ語を音読しておくと、頭が覚えているというよりも強固に身体がドイツ語を記憶していることになる。黙読して頭で文字通り覚えると、単語をなかなか思い出せない。「あれ、なんだっけ。」しかし、音読ができると何かしら身体が記憶している。Kannst du Klavier spielen?「きみはピアノ弾ける?」--Ja, ich kann gut Klavier spielen. 「うん、上手に弾けます」という音の連なりを、わたしの身体が経験している。このことは、なんとか読めることに繋がるし、なんとか聞けることにもなる。黙読では、他者のことばをわたしの身体に重ねることはできない。つまり、わたしは文を聞きとれないし読みとれない。
3.
早速、「この夏、音読の夏」の効果を確かめつつある。まとめる。
1. 中級や上級の文法書を黙読するのと、たとえ初級の文法書でも音読しながら薄い本を全部音読するならば、効果はより大きい。
2. 頭の中のことばは未だ厳密な意味でのことばではない。/ringo/と頭の中に唱えても、ひらがなもカタカナも漢字も実現していない。また、「飴が好き」とか「雨が好き」という文を「あめがすき」と書いても、わからない。この場合、ことばはアクセントやイントネーションという音によってわたしにとって意味となる。
3. 一度、語彙を口に重ねれば、なんとか聞き取れるし読み取れる。ドイツ語のverstehen「理解する」という音を音読できれば、頭ではなく身体がことばを記憶している。Ich habe keine Zeit, das Buch zu lesen. 「わたしはその本を読む時間がなう」という音を一度身体に重ねれば、他者が話すドイツ語をわたしの身体に重ねることができる。
より圧縮して本稿をまとめるならば、分厚くて詳細な文法書を黙読するよりかは、薄くて平易な文法書を音読したほうが効果が高いということ。
2024年7月25日
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