ジョナス・メカス「リトアニアへの旅の追憶」と地に足のついた生
ジョナス・メカス「リトアニアへの旅の追憶」
ジョナス・メカスは、アメリカの実験映画作家だ。いや、実験映画作家と言われているが、彼の映画はもっと個人的で、創造的だ。実験というよりは、詩的な映画である側面が大きい。
リトアニアへの旅の追憶は、戦時中、リトアニアからアメリカへと亡命したジョナス・メカスが、自ら彼自身の人生を辿る映画だ。アメリカでの記録、リトアニアへの帰還と家族との再会、戦後のハンガリーの3部で構成されている。
映画は、メカス自身がカメラをもち、彼の目に映る世界を刻々と記録したものとなっている。映像は、彼の記憶をそのまま映画で体験できるかのような無数のジャンプショットで紡がれていて、その淡く刹那的なショットの数々は、まさに我々も何かを追憶しているかのような感覚にさせる。
彼の故郷には、未だ木苺がみのり、この上なく美味しい水が井戸を通る。25年もの間、息子と離別していた母からの優しい眼差し、兄や親戚との再会、歌や踊り。故郷の村の生活は、彼の生であった。彼のアメリカでの亡命生活は、どこかリアリティを喪失したものであった。根無草となったメカスは、故郷に帰り、地に足のついた世界、すなわち生のリアリティが感じられる世界に、彼の断片的な記憶と過去を、拾って、集めて、重ねていった。
生のリアリティを感じる事
このセリフに対して、今村純子はこのような分析をしている。
メカスは、我々に問いかける。異郷の大国の中で、自らの生に確かに触れることができるのか?
生まれながらに根無草の都会人
メカスの純朴な感性は、現代の我々には辛い。高度に文明化された"developped country"に生を受けた我々にとって、そもそも生まれた時から今日この日まで、自らの生を噛み締めた日が、一体何日あっただろうか?メカスには、自らの状況を相対化することが可能な「故郷」があったが、都市に育った我々には、そんな追憶できる場所も多くない。
それでも我々は、メカスの映画を見て、言いようのない悲しさと穏やかさに包まれる。それは、我々が生まれながらにして「生へのリアリティ」追い求める、ここではないどこかへの郷愁に駆られる生物だからなのかもしれない。
あーちょっとつらいなあ、一生報われないかも。そんなことを思った。
その他
この映画は、日本語訳が中沢新一らしい。