ところで【ローマでちょっとグレタさん生活】とは何ぞや…について

ものを大切に、とか、自然に優しく、とか、わずかなことをここで書いているけれど、実はわたしはミレニアル世代でもなければ意識高い系でもなく、恥ずかしながら環境や生態系や地球に関して気を配ろうなんて思ったことは正直な話、あまりなかった。

世の中のありとあらゆる要素がバブリーで、人々の認識の中に「エコ」とか「サステナブル」という観念が全くなかった1980年代に生まれたわたしは、日本とアメリカで思春期を過ごした。
どんなものでも個別包装は当たりまえ、スーパーの棚にはきれいにカットされパックされた野菜や肉、魚が並んでおり、デパートで贈りものを買おうものならマトリョーシカ・ラッピングがデフォルトで、どんなものにも「〇〇用」の特別仕様が準備されており、何かをテイクアウトするときにはお箸にナプキン、あらゆるものを過不足なく紙袋に入れてもらえる日本。
かたや消費大国・アメリカではあるときを境にスーパーの通路を行き交う人々が日本の2倍はあるカートに次々とものを放り込み、そのうちカートに入りきらなくって2台めを持って来る姿や「Buy 6 Get 3 Free(6つ買うともう3つ無料でもらえる、割引率を計算する意欲が減っていく手法)」の看板を見ても別に驚かなくなり、ファストフードのお店ではオプションの「Supersize for XX Cents(XXセントプラスするとサイドとドリンクがジャイアント馬場仕様になる)」を頼んだ人のトレーはXXLサイズのポテトでハンバーガーが埋まっており、フリーレフィルドリンクのスタンドにバケツのようなカップを持って行く場面を見ても何とも思わなくなった。

食べる、ということへの姿勢がそもそも違う

そんなわたしがいろいろな面で少し危機感を持つようになったのは、ヨーロッパで生活するようになってからのことだ。
フランスでは、週に2回ほど広場で開かれるマルシェで生産者のおじさんのお店で旬の野菜を買い、お魚屋さんから「季節のおすすめ」を聞いてレシピを教えてもらい、お肉屋さんでは自分が作りたいものに合わせて部位を選んで必要な分量をカットしてもらい、パン屋さんではバゲットは袋に入れずに「ほい」と渡してもらうことが普通になった。
そして、わたしにとってイタリア生活は2回めになるのだが、昔と今では人々の意識に大きな差があるように思う。
特にイタリアが誇る「食」についてはいろいろな場面で「Km 0」(地産地消のこと)、昔ながらのサステナブルな方法、古来種の再生…などなど、原点回帰というアプローチが普通に受け入れられるようになっていて、食料品を取り扱うお店では生分解性プラスチックの袋を取り扱うことが義務付けられているし、多くの自治体では学校給食に地元で採れたオーガニックの材料を使用する取り組みをしている。
(娘が通っているローマのasilo nidoの前にもよくオーガニックの野菜や果物を納める業者さんのトラックが止まっているし、娘に聞いたところ専属のコックさんが園内で心を込めて作ってくれるお昼ごはんは、実際にとても美味しいらしい)

ご参考までに ↓↓↓

そもそもイタリア料理には、貧しかった時代にわずかな材料や余ったものを活用して、美味しい一品に昇華させる「cucina povera」という観念がある。
一見すごくシンプルで何ていうこともなさそうな一皿がとてつもなく味わい深くて美味しかったりするのは、そのままでも美味しい素材が身近にそろっていることに加えて、単純なことでも丁寧に手をかけてあげることで特別になることを長い歴史の中で培ってきたからこその結果なのだろうと思うのだ。

そして、愛情を込める…ということはどんなことにも通じるものなのだと思う。
わたしは食べることに興味があり余っているのでどうしてもこんな角度から入りがちだけれど、日々の生活の中でもそうなのだ。
何かが壊れときは、すぐに新しいものを買うことを考えるのではなくまずは直せるかどうかを判断して、たとえ買い替えることになっても、なぜか知り合いからいい話が回ってきたりリサイクルショップで見つかることだってよくある。
友達と会うときだって家に呼ばれたり公園に行ったりするのが基本で、レストランでいっしょに食事をすることはあまりないし、パニーノや(ローマの場合は特に)好きなだけ切ってもらうピザ、家で作ったものを持って行ってみんなで食べることもある。
ラグジュアリーでゴージャスなホテルに泊まったり、ショッピングに精を出すバカンスをしている人は本当にごく一部で、みんなが「あるものを活かしてお金をかけずに楽しむ」ことに長けていると思う。
1回めは外国人のまま、悠々自適に独身生活を送っていたけれど、2回めは毎日のようこんな深い部分まで共有させてもらえるチャンスがあるから、わたしにとってはより意識の違いが垣間見えるのかもしれない。

壁が超えられなくても、進歩しているから

イタリアはヨーロッパの中で他の国から一歩も二歩も遅れているイメージを持たれていて、自国民も実際にそう思っているのだろうと思う。
スカンジナビアの国々の社会福祉がもっと充実していて、スイスでは所得水準がイタリアの何倍も高くて、ドイツの街では自然とモダンが美しく融合していて…それをうらやましく感じている人も多く、夫の周りでも実際にイタリアから出ていく人は決して少なくない。
ローマの公共交通機関に至っては連日トラブルだし、他の国では絶対にあり得ないようなことが起きることだってよくある。
24時間営業のコンビニなんてものは存在せず、晩ごはんに困ったらデパートの地下で何もかも揃うことも、毎週のように新しい商品や限定バージョンが登場することもない。
でも、わたしは、それでいいのだ。
むしろ、その「便利すぎる」環境にいる限り決して気が付かないことを、そこで生まれ育ち、その魂をしっかりと受け継いでいる夫や娘、周りの人々に教えてもらっているような気がするのである。
破れてしまった娘の洋服に針を通したり、夫が取り付けてくれた棚にペンキを塗ったり、自分たちが育てた野菜やハーブをおすそ分けしたり、手打ちパスタで誰かをお招きしたり…ハイブランドのブティックでずっと目標にしていたバッグを買ったり、ミシュランの星が輝くレストランに行ったりするのとは違うけれど、わたしたちだから感じられるじんわりとした幸せや笑ってしまいたくなる喜びが詰まっているように感じるのだ。

でも、これからわたしがここで何かをつづるとしたら、きっとイタリアだからこそのエピソードなんだろう。
ローマで生きていると、毎日のようにネタでしかないことが降って来るからね。

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