続・イタリアでディズニー映画を見て、世界の多様性に思いを馳せる件
娘のおかげでディズニー映画の奥深さを知るようになった…ということを、以前さらっと書いてみた。
わたしは幼いときから既にかなり「スレた」人間であり、夢のあるファンタジーの世界に憧れるよりロックを聴くのを好む、可愛らしさなど微塵もない子どもだった。
そのため、平然と「プリンセスになりたい」と語って憚らない自分の娘をある意味すごいなと思っているのだが、やはり国境に関係なくありとあらゆる子どもはもちろん大人をも惹きつけ魅了して止まず、時代を超えて愛されるディズニー映画には、言語や民族、文化、地域性…などなどの背景をそれはそれは熟考したうえで、人類普遍のメッセージを届けるところに唯一無二の絶対的な価値があるのだろう。
「…だよね?」と思われる体験エピソードがまたできたので、ここに綴ろうと思う。
#1 娘とエルサとエイジング
夏休みの前くらいから、娘が急に「フローゼン」と言い出した。
「フローゼン」とは「アナと雪の女王」のことで、イタリアではタイトルが変更されずに英語の原題「Frozen」のまま公開された。
わたしの理解が正しければアメリカやイギリスでは「フローズン」のはずなのだが、そこは世界のどこよりもローマ字読みに忠実なイタリアが誇るマッケローニ・イングリッシュで市民権を得たものと思われる。
娘は、その当時それはそれは楽しく通っていたasilo nido(0~3歳児のための、一応、教育機関)でいろいろな情報をキャッチして、家に帰るなり、わたしたちに言葉と身振りで一生懸命プレゼンテーションしてくれていた。
娘の話によるとお兄ちゃん・お姉ちゃんのいるお友達はやはり一歩も二歩も進んでおり、ヒーローやプリンセスに触れる時期も早かったのである。
そして、ある日を境に男の子の間ではスパイダーマン、女の子の間では「アナと雪の女王」のエルサが加速度的に人気を獲得していったのであるらしい。
夫もわたしも、もちろん「フローゼン」ないしは「アナと雪の女王」の名前は知ってはいた。
しかし、残念ながら我が家は夫もあまり子どもらしくない子どもだったようで、ディズニーの記憶は20年ほど前から止まったままだった。
基本的にキャラクターものが好きではないうえ、興行収入が高い作品ほど見る気を失う…という双方のあまのじゃくな性格も相まって、娘の「フローゼン」コールに長いこと「うーむ」と難色を示していたのである。
しかしその後、イタリアの長い長い夏休みに途方に暮れていた夫とわたしは、やることを考えること自体に疲れてしまい、ついに「フローゼン」との闘いに終止符を打つことに決めた。
そして、晴れて「フローゼン」デビューを果たした娘は、これまでの推しであった「リトル・マーメイド」のアリエルに一方的に別れを告げ、車でも家でも聞く音楽はひたすらサウンドトラック(の、エルサが歌っている曲以外は全飛ばし)、あらゆるものを肩に羽織ってマントにし(て床のごみをクイックルワイパー)、元気があり余っていると「わたしの氷の力が強まってるよ!」と言い放ちわたしたちを凍結させ(1mmでも動くとダメ出し)、髪は長く編みたいから金輪際カットはしないと決め(だからドライヤーが大変)、原理主義者かと思われるほど敬虔なエルサフォロワーとなったのだった。
そんなある日、バスルームで鏡を眺めていたわたしのところへ、娘がやって来た。
昔、ファッション業界にいた頃のように自分の容姿に一喜一憂することはもうないし、基本的にリモートワークなので外見なんてもはや三の次ではあるのだが、年齢には逆らえず、娘を出産してからは身体に一気にダメージがやってきたのか、ここのところ白髪が多くなったのだ。
カラーリングすると確実に「やり続けなければならない」ループに陥るのでわたしはできればグレーヘアへの道を歩みたいのだが、それはそれで先は長いし、短い白髪が顔回りにピン!と出るとやはり現実を見せつけられているようで、鏡をのぞき込むわたしはほんの少し落ち込んでいたのである。
そうとは知らない娘が無邪気に「おかしゃん、なにしてるの?」と聞くので、わたしは「ちょっと髪を見てたんだよ、白い髪がいっぱいあるでしょ」と答えた。
すると、娘は即座に表情をキッと強ばらせ、わたしにこう言い切った。
おかしゃん、エルサのかみはしろいよ!
とってもきれいなんだよ!
だから、おかしゃんもそれでいいんだよ!
3歳の娘が四十路のわたしに突き付けた彼女なりの見解が予想外に哲学的、且つ含蓄のある鋭いものだったので、わたしは驚きのあまり絶句した。
子どもってすごいよ。
ディズニーもすごいよ。
エルサは、白髪を美の要素に昇華させる力もあったのであるらしい。
そして、その瞬間、頭の中にあの名曲がこだましたのはご想像の通りである。
(ちなみに、最初の頃、娘から「フローゼン」の話を聞くと、必ず「なーんか自分が知っている情報と噛み合わない…」という違和感があったのだが、実はその後、主人公の「アナ」がイタリアでしらっと「アンナ」になっていたのが原因であったことが判明し、改めて「登場人物(しかも、今回に至っては主人公)の名前変更」にも振り回されたのだった)
#2 サウンドトラックとお国柄
この夏、我が家は3歳児を連れて「ヨーロッパ大陸を車で縦断する」という暴挙に出た。
結果的にものすごく充実した1か月の旅となり、娘も目に涙を浮かべながら「ローマに帰りたくない」と言うほどで、楽しい夏休みが過ごせたらしい。
とはいえ、イタリアからオーストリアとドイツを超えてベルギー、そしてオランダまで、単純計算でも片道1,500kmを超える距離である。
夫がルートを考えに考え抜いて、できる限り娘へ負担がかからないように途中の滞在地を決めてくれたものの、どうしても車で過ごす時間が圧倒的に多くなる日が出てくる。
というわけで道中、わたしたちは車に乗ると娘がお気に入りのディズニー映画のサウンドトラックをかけていたのだが、いつの日だったか突然「せっかくだから、日本語バージョンを聞いてみよう!」「これからドイツ語圏にも行くのだから、ドイツ語バージョンも聴いてみよう!」…という考えが、夫とわたしの頭に不意によぎった。
いろいろな言語の響きを知ることも、娘にとっては有益なことだろう。
1か月の旅を乗り越えるほどの音楽 ― 平成の初期だったら出発の前に山のように大量のCDやMDを準備していただろうし、昭和に至ってはカセットテープをキュリキュリとダビングするだけで数日が過ぎ去っただろうが、令和の世の中は素晴らしく、SpotifyやGoogleで検索すれば一発である。
そして、この「マルチリンガル・サウンドトラック大作戦」は非常に興味深く、面白いものなのであった。
それぞれの言葉の響き、歌詞の音節と音符やリズムの合わせかた、声優さんの抑揚の付けかたの違い、ときには言葉の選びかたに至るまで、お国柄が見事に表れていて、娘はもちろん、これまで音楽の世界に生きてきた夫や言語を仕事にしているわたしにとっても新たな発見がたくさんあったのだった。
あまりにも楽しかったので、そこからは「他も、他も」と対象が拡大していった。
英語のオリジナル版はさることながら、ドイツ語のものはやはり律儀で日本語になると響きがどこかソフトになるのに、フランス語はなんだかロマンチックだしポルトガル語バージョンは抜け感がすごくしっくりきた。
そして一周して、イタリア語に帰ってくるとやはりどことなく「オペラの国の人だもの」という印象を受け、韓国語や中国語も、日本語にはない独特の「それっぽさ」がそこはかとなく感じられるのだった。
聴いているうちに、だいたいどの言語のものでも同じキャラクターは似たような声の声優さんが演じていて、みんな華やかで張りのある声をしているのもわかった。
発音やイントネーションでこれだけ歌の表情が変わるのも驚いたのだが、どこまでもハイレベルなディズニーのキャスティングは本当に見事だなぁと、改めて我が家は圧倒されたのだった。
そして、ある日、夫とわたしは「リトル・マーメイド」のサウンドトラックのスペイン語版をかけてみることにした。
そもそも、イタリア人とスペイン人は自分の母国語を一方的に話しても意思の疎通が70%くらいは可能で、夫は何の違和感も抱かないだろうし、わたしもフランスに住んでいた頃、スペイン語の学校に並行して通っており、久しぶりに集中して耳を傾けるのにワクワクした。
イタリア語の感じに似てはいるのだが、そこには確実にイベリア半島、もっと言えば南米大陸のラテンの風が吹いているように思うのは、言語も文化の一部であり、社会と共に変化を受けていることの証だろう。
…と思っていたところで、3人揃って楽しみにしていた魔女のアースラ(イタリア語ではローマ字読みの関係で「ウルスラ」)の歌がスピーカーから流れてきたとき、わたしは全く予期せぬ展開に一瞬パニックになった。
なんと、スペイン語圏における海の魔女のアースラの声は、人間界の男性の声だったのである。
わたしは唖然として、思わず夫と娘に視線を向けた。
運転席でハンドルを握る夫は「…これは何かのまちがいだ」と言わんばかりの表情で「ストップ」ボタンを押し、後部ではチャイルドシートに座る娘の周りに無数のクエスチョンマークが浮かんでいた。
とにもかくにも、車内全体に広がる、凍てつきそうなほど冷たい「コレジャナイ」感。
わたしたちは困惑しながらしばし無言に陥り、それ以降「リトル・マーメイド」をスペイン語で聴くことはないまま、夏は終わりを告げた。
だが、しかし。
秋がやってきてこの話をふっ、と思い出したとき、わたしは「ディズニーって、実はかなりすごいのかもしれない」と思い直したのだ。
というのも、当然のように「魔女だから女性」だと思っていたわたしたちの発想のほうにこそ、問題があるのではないか…という疑問が、わたしのなかで湧きあがってきたのである。
アンパンマンもドラえもんも「天空の城ラピュタ」のパズーも声優さんは女性だったのに、女性の声を男性が演じると無条件で違和感を覚える…ということは、わたしたちが無意識のうちに凝りに凝った固定概念の影響を少なからず受けているからだ、と考えても、あながち間違いではないのかもしれない。
そういう意味で、いろいろな側面からものごとを見ること、そして遅すぎることはない、どんなことも立ち止まって振り返ることの大切さを、改めて実感することとなったのだった。
多様性、とか、ダイバーシティ、なんて観念が世の中で大々的に語られることなどまずなかった1990年代、もし「リトル・マーメイド」のスペイン語版がそんな価値観に対し反旗を翻していたのなら、キャスティングに踏み切ったディズニーはLGBTQ(UIA+)の観点から見ればものすごい先駆者である。
(ただ純粋にあの声優さんの声が一番、スペイン語版のイメージ像に合っていただけかもしれないけど)
とりあえず、娘とディズニーの映画を見るようになり、これだけいろいろと考えさせられる…ということが大きな大きな発見なのであった。
ちなみに、個人的で申し訳ないけれど、アースラに限っては森 公美子さんが歌われている日本語のものがぶっちぎりで好きです。
あの最後の部分はドスが効きまくりで、本当にすごい迫力だったもの。
オペラに携わっていた夫も絶賛していて、同じ日本人として誇りに思ったのでした。
(わたしも誇れるものを探そうっと)